二・おいしい。おいしい。おいしい。
一人暮らしの部屋は狭くて、掛け布団は吹っ飛んで部屋の片隅に旅立っていて、敷き布団も布団を敷いたあの時の形を保ってはいない。直そうか。いや、あれ。どうなんだっけ。この布団が綺麗だった時期を、覚えていない。思い出せない。俺はこの布団をいつ敷いた。
しゃー。しゃりしゃり。きしゃー。
アスファルトは見えないが、音だけハッキリ聞こえてくらあ。
しゃー。しゃぎりっ。しゃりっ。
意味が分からない。部屋は汚い。いつが綺麗だったか、というか、綺麗がどういう状態を指すのか、分からない。いや。最初からじゃなかったっけ。最初から、こうだったろ。
俺は布団のことを気にするのをやめた。飯食おうぜ。冷蔵庫。開ける。ウインナーソーセージ。TKG。あぁそうだ。あんなんは夢だ。下らない夢。何が、しゃー。しゃぎりっ。だ。あんなんは、実際に見てみろよ。後ろからも横からも、おかしいだろ。指差されんだよ。指差されて笑われるに決まっているだろう。どんだけ阿呆なんだか。
「阿呆なのかい」
いや誰だよ。
「ねぇお前さん、阿呆なのかい」
意味わかんねぇよ。つかお前仕事はどうしたよ。
「アハハ。そうかい。お前さんは、阿呆なんだねぇ」
ふざけんじゃねぇよ。アンタはお前さんじゃねぇだろうが。俺をお前さんと呼ぶのはアイツだけなんだ。彼女以外俺をお前さんとは呼ばせない。呼んじゃいけない。
「何をそんなに怒っているんだい。良いじゃないか。お前さんが阿呆でも、誰も気にしちゃいないって」
「ふざけんじゃねぇ」
ガンッ。壁を殴りつけながら俺は叫ぶ。その瞬間に、
「…………」
「…………」
俺の家の隣に住んでるオバンとその近所のこれまたオバンが驚いた顔をして俺を見てた。
あぁ。俺は思う。違う。違う。違う。違う。俺の話を聞いてくれないか。俺の、話を。
「…………」
「…………」
バタン。オバンはドアを閉め、もう一人も、そそくさ消えた。むしろ俺は誇らしかった。
「どうよ。俺が阿呆だと、誰かが気にするだろう。どうよ。何か言ってみろや」
堂々と俺は叫んだ。反応は、決まってる。分かってる。
「姿見せろや……。声聞かせろや……」
ほら消えた。声が消えた。壁と思ってたのは俺の家のドアで、右手に持ってた卵が潰れてら。体の栄養にすらならず、こうして無駄に散ってった命は、俺の右手をダラダラドロリと濡らしてる。
「ハハ……。ハッハハ……」
笑いが、止まらなかった。
昼間、本来散らす命は一つで良かったのにあの声の所為で、彼女の声を真似た胸糞悪いあの声の所為で二つ散らしてしまったから、俺は卵を買いに行った。
徒歩で数分。プリペイドカードで払うから、現金なんざ一円たりとていらない。
ぶらぶらふらり。歩くのが気持ち良い。俺は笑っていた。理由なんてない。笑っていた。
卵を探すのには思うより時間がかかった。
出来る限り安い方が良い。期限が近くなっていてまさかの四割引。買いだ。これ、買ったよ。
帰りは逆に気が重い。ぶらぶらだらり。買ったのは卵だけなのに、気分は憂鬱だった。
スーパーから家までの間に、駅があって、踏切がある。ちなみに彼女はここから電車に乗らない。騒がしい。人ごみにうんざりする。
俺は何も知りません。放っておいて下さい。
人が死んだって。これはもう無理だ。
俺には何もできません。俺の興味の範疇外です。すみません。すみません。
女の子がいる。ショッキングだろうに。でも、すみません。すみません。
「…………」
ハッキリ聞こえた声が、何故だか何だったか、どんな言葉だったか思い出せない。
夕食を作ろう。卵は冷蔵庫。
「お前なんで生きてるの」
知りません。
「今日も、死ねなかったね。お前さん」
私はあなたを知りません。
「ねぇ。ねぇ。オジサン」
女の子。踏切の、女の子。何て、言ったの。
「どうして、生きてるの」
ぐしゃりっ。卵が落ちた。見てみたら、卵を支えていたはずの紅いネットが切れていた。
白身が飛び散るその中に、黄身が混じってる。血が、流れてら。まるで、血だ。血管が切れました。中の大事なモノが落ちました。砕けました。知りません。俺は何も知りません。
ズボンが濡れてる。靴下を通り越して、ズボンの裾が濡れていら。また、無駄に命が四、五個散った。あ、いや、踏み切りにもう一つ。
「何で俺、生きてんだっけ」
時計を見たら、帰ってきて一時間経ってた。特別驚くことはなかった。
夜ご飯は肉じゃがと卵スープ。白ご飯。おいしい。おいしい。おいしかった。