目が覚めたとき、最初に見えたのは灰色の天井だった。鋼板が剥き出しになった天井はよく見慣れたもので、ここ最近ずっと見ていなかったものでもあった。
俺は、皇国海軍の駆逐艦に救われたのだ。
聞いたところによるとこの艦は、ライラックを旗艦とした第六戦隊が沈んだ海域で生存者の捜索をしていたらしい。よくもまあ二十日近くも捜索を続けていたものだと、俺は半分呆れつつ安堵の息を漏らした。
だが俺は、医者から驚くべき言葉が聞かされた。
ライラックの沈んだ海戦から、未だ二十時間も経過していないと。
耳を疑うような言葉だった。
医者の言葉を信じるなら、俺の過ごしてきた二十日近い日々は全て夢だったということになる。リラと過ごし、彼女との間に愛を育んだ日々は、偽りだったということになる。
何かの間違いだと思った。医者が性悪で、俺を騙そうとしているのだと思った。
俺を錯乱したと見做した医者は、俺を抑えつけようとした。だが俺は抵抗し、せめてリラに会わせて欲しいと懇願した。共にあの日々を過ごした少女が無事なら、俺の言葉も嘘ではないとわかってもらえるだろうと。
だが、渋々頷いた医者に連れられて行った先で、リラは息を引き取っていた。
膝が勝手に折れるのを感じた。頬を熱いものが伝っていくのを感じた。途方もない無力感がせり上がり、頭の中が真っ白になった気がした。
絶望の中の光だった彼女は、逝ってしまったのだ。
声もなく涙を流す俺に、医者は彼女の死因を語った。
リラの死は頭部を強打したことによるものだろうと。それもつい最近ではなく、十日以上前のことだと。
俺はまたしても耳を疑った。
この医者の言葉が真実だとすれば、リラは島に流れ着いたときには既に死んでいたということになる。いや、あの日々すらなかったのだとすれば、彼女はライラックの監房内で既に死んでいたことになるのだ。
ありえないことだ。なにせ俺はライラック轟沈の前日、彼女の様子を見に監房へ足を運んでいたのだ。そのとき、彼女は間違いなく生きていた。
つまり、彼女が死んでから十日以上の日数を経るためには、俺の記憶通りにあの無人島へ流れ着いていなければならないのだ。それも、死体として。
訳が分からなかった。医者の言葉と俺の記憶、そのどちらもが現実にそぐわないのだ。
仮にどちらもが正しいとした場合、「彼女は島に流れ着いた段階で既に息絶えており、にもかかわらず俺と共に二十日余りを過ごし、ついには時を遡ってライラック轟沈後すぐに遺体が回収されている」と、このような結論になるのだ。
リラの死に対する痛みと共に、俺の頭の中には大きな謎が残った。
途方に暮れた俺は、艦の甲板に出て海を眺めることにした。
甲板の端に立ち、救出作業を続ける哨戒艇を眺める。
聞いた話に依ると、俺はライラックが沈んだ位置の丁度真上に漂っていたらしい。この点は俺の記憶とも合致している。リラを抱え、まっすぐ上に向かって泳いだのだから。
海底で見たライラックの姿を頭に浮かべ、彼の船に想いを馳せる。
俺は、ライラックを誇りに思っていた。
艦船はよく女に例えられるものだが、俺にとってのライラックも正に愛する妻のような存在だった。初めて艦長に任命されたのも彼女で、彼女にとっての最初で最後の艦長が俺だった。
沈むときは共にと、当たり前のように思えるほどだったのだ。故に一人だけ生き残ったと悟ったとき、俺は部下や同胞と共にライラックのことも悔いていた。
俺にとって、ライラックとはそれほど大きな存在だったのだ。
「ライラック……リラ……」
そういえば、俺はどうしてあの少女を『リラ』と呼んだのだろうか。
答えは簡単だ。
俺は彼女にライラックを重ねていたのだ。ライラックに感じていた愛しさと全く同質の感情を、俺は彼女にも感じていた。
だから俺は彼女を『リラ』――『ライラック』の愛称で呼んだのだ。
海中で見たあの光景を、俺は鮮明に思い出すことができる。
ライラックの甲板で眠るように横たわるリラの姿。それはまるで、ライラックが人の身体を器とし、顕現したかのようにも見えた。
もしも――。
もしも、この感覚が正しかったのなら。
『リラ』とは、『ライラック』の意志が乗り移った姿だったのだとしたら。
息を引き取った少女の身体を借り、リラとして俺の前に現れたのだとしたら。
もしも、妄想に近いこの感覚が正しかったのだとしたら――。
「なんて、そんなこと、あるわけがないな……」
自分の妙な感覚に、思わず笑みが浮かぶ。
丁度新たな生存者を引き上げたらしい哨戒艇から目を離し、俺は振り向いた。ゆっくりと甲板上を歩き、これからの務めを思い浮かべる。
「責任は取らねばならないな。だが、もしも再び艦を与れるのであれば――」
もう一度、艦にすら愛されるような艦長になろう。
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