その後、五日という時間をかけ、俺たちは出航の準備を整えた。
水と食料を蓄え、切りだした木を削ってオールを作った。天候が万全になる日を待ち、雲一つない晴天の朝を出航日とした。
夜明け前に起き出し、二人で揃って舟に乗り込み海へ出たのだ。
リラと共に祖国へ帰るため――。
そんなたった一つの目的のため、俺は広い海原へ躍り出た。
生きる意味を失いかけていた俺が、何故もう一度故郷を目指そうと思ったのか。
夜になってリラが寝静まった頃、満点の星の下で俺は幾度となく考えた。
俺は、もう死んでもいいと思っていたはずだ。
艦を失い、部下を失い、多くの同胞を失った。下された命令を果たすことも出来ず、敗戦の将としてあの島に流れ着いた。潔く自決することも出来なかった。
なのに、どうして俺は生き続けたのか。自決の手段がないのなら、海へ飛び込めばよかったのではないか。力尽きるまで泳ぎ、海の底に沈めばよかったのではないか。
そんなことを実際に考えなかったわけではない。
では何故、俺は島に残り続けたのか。
食料と水を探し、命を繋ぐ道を切り開いたのか。
思いつく答えは一つだった。
リラのためだ。
あの少女のため、あの少女が生きていくため、俺は人間が生きるために必要なものを揃えていった。
水、食料、寝床、安全、そして道連れ――。リラが生き、絶望しないために必要なすべてを、俺は揃えようとしていたのかもしれない。或いは俺自身すら、孤独な彼女には必要だと考えたのだろう。
馬鹿な話だ。結局、彼女を必要とし、彼女を目的としたのは俺の方だった。
リラがいなければ、今頃俺は生きてはいないだろう。間違いない。人間は一人では生きられないのだ。他人を求め、他人に求められることで生きようと思えるのだ。
俺は帰る。
故郷へ、俺があるべき場所へ、愛する少女と共に帰るのだ。
生きて、死んで逝った部下たちのためにも戦い続けねばならないのだ。
眼前に広がる星空。その中で一際輝きを放つ上弦の月に向かって、俺は手を伸ばした。
航海は順調だった。少なくとも三日間は問題なく進んでいた。
ひたすらオールを漕ぎ、大陸のある東へ向かっていた。
しかし、それは突然俺たちの前に現れた。
島を出てから四日目の昼。俺は海上に何かが浮かんでいるのを目にした。
すかさず舟を寄せ、小波に揺れるそれを確認する。
死体だった。よく見知った軍服を着た、若い男の死体だ。
亡骸はうつ伏せの状態で波に揺られていた。緋色の軍服は、皇国の宿敵である帝国海軍兵のものだ。
目を閉じ、暫しの黙祷を捧げた。敵国の兵とはいえ、同じ海に生きる男。息絶えた者にまで敵意を持つことはない。
黙祷の後、俺は青白い顔のリラを宥め、再びオールを漕ぎだした。
それから俺たちは、幾つもの遺体や船の残骸を目にした。乗組員の物であろう酒瓶や、破れた帝国の旗も浮かんでいた。中には皇国のものもあり、俺は込み上げるものを必死で堪えていた。
だが、様々な遺留品が浮かぶその海は、やがて大きくうねりをあげ始めた。波が高くなり、風も強くなってきた。空は蓋をしたかのように暗くなり、遠くからは雷鳴が聞こえてくるようになった。
俺は必死にオールを操って舟のバランスをとった。リラには態勢を低くするように言い、俺の腰元に掴まらせた。
舟は激しい波に揺られ、最早転覆するのも時間の問題かと思われた。殴るような雨が降りつけ、波が不規則に身体を叩く。見る見るうちに体力を削られ、腕が重くなってきた。
俺はオールを操るのを止め、失くさぬよう舟の内側に置いた。そして必死にしがみついてくるリラを抱きしめ、嵐が過ぎ去るのを待った。
だが、無情にもそのときは訪れてしまった。
何度目かわからぬ大波を受け、俺たちの舟は横倒しになったのだ。オールも食料も沈み、俺とリラは全身ずぶ濡れになりながら、反転した舟に掴まることしかできなかった。
その後も波はしつこく俺たちに襲いかかる。顔や腕を執拗に叩かれ、あっという間に体力が奪われていった。
そして、ついにリラが力尽きてしまったのだ。
隣に掴まっていたはずの彼女がいなくなったのに気が付いた俺は、我が身を省みず荒れた海へ潜っていった。
暗く淀んだ海中を掻き分け、リラの姿を探す。水圧で肺が潰れそうになったが、息継ぎもせずに海中を下へ下へと進んでいった。
やがて彼女を見つけた俺は、目の前の光景に苦しさも忘れて見入ってしまった。
穏やかな表情で目を閉じたリラは、板張りの床に横たわっていた。
いや、床じゃない。
あれは甲板だ。俺の記憶に深く刻まれた、あの甲板だった。
俺の前に、愛すべき艦が座っていた。
リラが横たわっていたのは、沈没したライラックの前甲板だったのだ。艦橋の辺りで真っ二つになったライラックは、俺の記憶にある通りの雄姿で鎮座していた。
(ここは、お前の墓だったのか……)
俺は眠るライラックに語りかけ、それからリラへ近付いていった。
ライラックと同じように、まるで眠っているかの如く穏やかな表情の彼女を、俺は残った力を振り絞って抱きかかえた。
(ありがとう、ライラック。お前のお蔭で、彼女を見失わずに済んだ)
酸素不足で遠くなる意識の中、俺は海底に眠るライラックへ礼を捧げた。
腕や脚に力が入らない。視界が暗くなっていき、心臓は破裂しそうなほどに痛い。
それでも、俺は最後の力を振り絞って海面へ飛び出した。激しく喘ぎ、酸素を求めて深呼吸をくり返す。すぐに腕の中の彼女へ口付けをして、あらん限りの息を送った。
リラの蘇生を願って何度も何度もその動作を繰り返し、やがて俺自身の意識も飛びかけた頃。
「…………」
温かいものが、頬に触れた気がした。
「リ、ラ……」
その感触を最後に、俺の意識もとうとう闇へ落ちてしまった。
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