駆け抜けた、空
階段を駆け上がる。とにかく、全速力で。
桐野に、一つだけ聞かなければならないことがある。僕は桐野に伝えなきゃいけないことがある。用事は二つ。要件は二つ。たったそれだけのために僕は階段を一足飛ばしに駆けていく。
二階、三階、四階、渡り廊下を通って、音楽室の脇の階段から屋上へ。
ドアノブを掴んで、三回だけ深呼吸をした。深く吸って、吐く。もう一度、二度。
屋上の扉に施錠はされていなかった。温い風がびゅう、と僕の前を通り過ぎた。
「桐野!」
出した声は僕が思っていたよりもずっと大きく、僕自身も少し驚いた。
喉を鳴らして呼吸を落ち着かせる。
「ひとつ、謝らなければならないことがある」
僕は、桐野に一歩近づいて言う。
「こないで!」
「君が読みたがっていたあの本についてのことだ」
「こないでって言ってるでしょう、それ以上は近づかないで!今すぐ飛び降りるわよ!」
その言葉を聞いて、僕は足を止める。しかし僕は気付いていた。桐野の足が、手が、かたかたと震えていることに。彼女も、死ぬのが怖いのだ。
「君が読みたがっていた『闇』という本、あれは、僕が借りている」
「えっ」
「君の、邪魔をしてみたかったんだ。君が左上から順に本を借りていくという法則にはだいぶ早くに気が付いていたよ。だから、邪魔したくなったんだ。―――七並べで、八を止めるような、簡単な気持ちで」
桐野の表情が明らかに変わった。怯えと覚悟に満ちた蒼白な表情に、ふつっと怒りが混じった。
「そして君の話を聞いて、ますます返せなくなった。君はあの本を読んだら死んでしまうつもりでいたんだろう?」
「……そうよ」
「だから、返さなかった。君に死んでほしくないから」
「そんなつまらないことを言うためにあなたは来たの?それなら、もうおしまいにして頂戴。私は、今から―――」
「もう一つ」
「―――いま、から」
「君は」
僕は確信を持って言い放つ。
「死ぬのが、怖いんだろう」
「…………ッ!」
「やっぱり、ね。」
そうだとは、思った。
生きる理由が無い、なんてのはただの戯言にすぎなかった。彼女は、自分のことを見ていてほしかっただけなのだ。
彼女はあまり目立つタイプではない。容姿も、性格も、行動も。それ故に、負の連鎖を止めることができずに心を病んでしまったのだろう。
「あー、えっと」
照れくさいけど、これを伝えるために僕は来たのだ。また深呼吸をして、桐野を見る。
ぐしゃぐしゃの泣き顔で、もう何を言えばいいのかわからない、といった風な表情をしている。なんだ、目立たないだけでちゃんとした感情が桐野にもあるんじゃないか。それはそうだ。彼女だって、ひとりの人間なのだから。
「うん、だから、言うよ。もしよかったらさ」
「君が生きる理由を、僕が探してもいいかな?」
返答は、タックルにも似た思いっきりのハグと、大きな泣き声と、大粒の涙だった。柵の向こうに残されたローファーを、あとで取りに行かねばならないな。
◆
その日、空が軋んだ。
曲がって歪んで、形が変わった。
ただ青かった空は、あの日と同じ橙に染まった。
さあ、生きる理由を探しに行こう。