少年の言葉、少女の嘆き
「神様の言葉を、貴方は信じる?」
髪の長い少女は言った。
屋上には風が吹き荒れていた。立っているのが辛いほどだ。
髪の長い少女は、格子になっているフェンスの向こうに、危うく佇んでいる。
「どうなの?」
にっこりと、彼女はほほえんでいる。危ういのに、にっこりと。
僕は今にも倒れ込みそうな気持ちで、それを聞いていた。気分が悪い。吐きそうだ。今すぐ膝を折って跪きたい。できることならこのまま死んでしまいたかった。彼女がそうするように。
「私は信じているよ。だからここから飛び降りるんだ」
僕は知っていた。彼女を助けられないと。助けることはできないと。こちらへ呼び戻す事はできないのだと。
彼女の髪が大きくなびく。風がいっそう強く吹いた。
「僕は」
ひりひりと喉が乾く。口の中が乾く。舌が張り付く。
「僕は、そんなもの信じない」
掠れた声で、僕ははっきりと言った。どうしようもないほど小さな声だった。それでも彼女には届いたようだ。
「そう。でも私は信じてるわ」
彼女は自信たっぷりにそう言った。
彼女の笑顔が、僕を捕らえる。
「神様がね、私に囁くの。君は死んだ方がいいよって。死んだら楽になれるよって。その方が、幸せだよって」
彼女はそう言った。
僕はそれを聞いていた。
ただ、聞いていた。
「だからね、私は死ぬの」
彼女の言動はいつも通りだった。今日は少し危ういだけだ。されど彼女は二度と、このフェンスの向こうから帰ってくることはないだろう。彼女はそういう人間なのだ。
彼女は少しサヴァン症候群気味なところがあった。
理解力が、異常に高いのだ。
一枚の地図から十もの道を知り、十の絵画から百の人生を知り、百の言葉で千人を、万人を、誰をも説き伏せる。
彼女の知性と理解力は、一般の域ではない。神の言葉が聞こえるのは、決して妄想の類ではないだろう。
彼女は「真理」の声を聞いたのだ。彼女の中で生まれた「神の声」を。
彼女はサヴァンなのだ。特異的に突出した部分もあるが、特異的に欠落した部分もある。彼女は極端に不器用だったのだ。伸ばす手は震え、吐き出す声は喘ぎ、呼吸をするにも支障をきたす。
欠落しているのだ。彼女は「行動する」ということが極端に苦手なのだ。そのことで他人に虐げられることもあった。そのたびに僕は、傍ににいるのが辛かった。
彼女のことをよく知らない人間は、ぱっと見ただけで彼女を評価する。
ほんの少し見ただけでは、彼女は実に要領の悪い人間に見えることだろう。何をしてもうまくいかず、行動するたびに失敗してしまうのだから。
そこだけを評価したのでは、彼女が要領の悪い人間に見えるのは当たり前のことだった。事実、彼女の部屋は混沌のようだし、僕はそれを整理したこともあるけれど、すぐに混沌に戻ってしまった。缶ジュースの蓋を開けられないこともあった。その缶ジュースの蓋を開けて手渡したら、受け取れないこともあった。そのときの彼女は本当に悲しそうな顔をして、地面に撒き散らされていく炭酸を眺めていた。
けれど僕は知っていた。彼女が非常に聡く、賢いということを。
彼女の詠う詩が、それを僕に教えたのだ。
字を書くのも、彼女は上手ではなかった。読めないことはなかったけれど、誤字や脱字が多く、読みにくいことこの上なかった。しかしその詩は僕の知るどんな言葉よりも真理に近く、そしてどこまでも彼女の真理だった。
詩には主にこの世界の無情や無常、無慈悲などが描かれていた。
音楽をつけるならポップなメロディを付加するのがいいと思われる言葉のテンポだったけれど、描かれる世界はロックだった。
この世界には表情がないとか、無駄なことしかないとか、復讐とか、嫉妬とか、怠惰におけるジレンマとか。そんなことが数多の言葉を使って描かれていた。僕はその世界観に惹かれていった。
「何を考えているの?」
僕の意識は急速に現実に戻る。かは、と涸れた喉から息が漏れる。僕はそのまま過呼吸の如く喘ぎ、瞳孔が開くのを感じた。
視界が震える。歪んで、霞む。少しの時間を使って、ようやく僕は彼女を視界に入れることに成功した。
「どうしてそんなに動揺しているの?」
彼女にはきっとお見通しなのだろう。僕は彼女の事を考えていたのだ。ずっとずっと、彼女のことを考えていたのだ。彼女のことしか考えてないのだ。
・・・・・・彼女はそれを知って、敢えて問いかけているのだろう。僕は素直に答えた。
「君のことを、考えていた」
「そう。でももう考えなくていいのよ。私はここで死ぬの」
「なぜ」
「言わないと解らないのかしら」
彼女は、顔にかかった髪をさらりと払いのけた。長く細い髪は強い風になびき、彼女の白い首筋を空にさらした。
「解らないわよね。そうだわ。そう。やはり私は、この世界に生きるべきじゃないのよ」
彼女はまたひとつ悟ったようだった。彼女は確信しているのだ。この世界に自分は存在しないほうがいいと。
僕は、そんなのは嫌だ。
彼女には生きていてほしい。僕は彼女に教えられたものが沢山あるのだ。僕は彼女に教えるべきだ。この世界には、存在する価値があるものが、彼女が思うよりずっと沢山あるのだと。
「君には、生きていてほしい」
「なぜ?」
「君を生かすだけの理由が、僕にはある」
「それは私には取るに足りないようなことよ」
そう言って彼女は溜息をつきながら目をそらした。その目には光が灯っていない。無機質な電灯の明かりだけを反射している。
相変わらず表情は微笑みを保っているけれど、それは能面のように張り付けているのだろう。無理矢理笑っているようにも見えた。今すぐ泣き出しそうにも見えた。
彼女は地上のほうを向いて小さく身震いした。
きっと本能的なものだろう。彼女は、理性的にはもう死んでいる。
電灯の光を浴びて彼女の左手首があらわになった。傷だらけなのが見てとれる。彼女は自傷者でもあった。自傷愛好者といっても過言ではなかった。自分が傷つくことで安心するようだった。
彼女は他人が傷つくことをやけに嫌い、己が傷つくことを是非とすることがあった。
――オルタナティヴのの理論だ。自分が傷つけば誰かが救われる。そう信じ疑わない。
彼女自身は、すでに死んでおかしくないほどに傷ついているというのに。僕ならば、逆に他人のことを傷つけているだろう。「これは復讐だ」とか「僕の気持ちを知れ」だとか騒ぎ散らしながら、暴力に訴えたり感情に身を任せたりするだろう。
彼女にはそれがない。感情というものが欠落してしまったかのように瞳から光を消し、ただ一点を見つめているのだ。そして、後から僕に「これは正しいのよ。これで正しいの。私が傷ついたから、かわりに誰かが傷つかなくて済むの。いい?これは正しいことなのよ。これが世界の仕組みなの」などと言うのだ。
僕にはこの行動が彼女が傷ついたから起こしている行動なのだと想像できた。
「私が死んだら、傷つく人が増えるかしら」
風にかき消されそうな声で、彼女は言った。
「そんなことはない」
僕は言う。
できるだけはっきりと。
「そんなことはないよ。君が居ても居なくても、傷つく人はこれまで通りに傷つく。命は平等ではない」
「貴方はいつもそう言うわね。オルゴールみたいだわ」
「本当のことを言っているだけだ」
「でも、それは本当のことだけれど真実ではないのよ」
こちらを振り向きながら彼女は言う。
相変わらずフェンスは僕と彼女の間を隔てている。
地上の道路からは喧噪が絶え間なく聞こえてくる。もうそろそろ彼女に気づき始めるかもしれない。
もうどうしようもなかった。警察や政府、組織などに屈する彼女ではない。たとえ誰が止めにきても、彼女はそのまま墜ちてしまうだろう。いや、止めにくる前に墜ちてしまうかもしれない。どちらにせよ、彼女は鳥になることもできず、ただ墜ちて逝き、一輪の花を咲かせるだろうだろう。
「この世界には、知性など必要なかったのよ」
彼女は言う。
「この世界には知性など必要なかったのだわ。きっとそうよ。知性や理性が無ければ本能だけで生きていけたもの。好奇心は猫を殺すし理性は人を殺すのよ」
彼女の言うことは真理に思えた。
僕はいつも疑問に思っていた。自殺者は最後に何を思って死ぬのかと。
それはきっとどうしようもない理由で、借金だったり、追われていたり、世界に終わりを告げられたり、様々なのだろう。
しかし、そのどれもがいささか人間臭すぎるのではないか。もしも人間が本能でのみ生きることが可能ならば、地位や権力や名声や立ち位置や金なんかに捕らわれず生きることが可能ならば、もう少し楽に生きていられるのではないか。
……そう思っていた。思っている。理性など無ければいいのだ。理性が、知性が、彼女を殺す。
「僕も、そう思う」
「あら、そうなの?」
「理性なんて無ければよかった。だって、理性は今、君を殺そうとしている」
「……そうかもしれないわね。私は知性に溺れて理性に殺されるの。ふふ、なんだか素敵ね」
そんなことはない。
そう言おうとしたときだった。
「そろそろ、いくわ」
彼女の声が唐突に別れを告げる。頭の中が白く濁る。もう理性など関係ない。彼女はただ体を理性で傾けて、重力に身を任せ、墜ちて逝くのだろう。
僕は、体の底から沸き上がる声を止められなかった。
「嫌だ、死なないで」
「……」
「嫌だ、嫌だよ。君が居なくなったら、僕はどうやって生きていけばいい?」
なんて無力な質問だろう。彼女が居なくなったらどうやって生きる?そんなのは答えが見えてる。彼女が居なかった頃のように生きればいいのだ。でもどうやって?彼女はすでに僕の大部分を占めている。彼女が居なくなったら、彼女が居なくなったら?方翼をもがれた天使の如くみっともなくもがくのだろうか。そんな綺麗なもんじゃない。夏の終わりに道端に転がる死にかけの蝉の様にじたばたするのだろうか。いや、僕はもっともっと醜い。
「さぁね」
彼女は冷たく突き放す。
ああ、どうすればいいのだろうか。彼女が咲かせた花の上に墜ちてしまおうか。そうすれば、彼女と僕の境目は無くなって、融けた金属の様に混ざりあってひとつになって、永遠に一緒に居られるだろうか。永久にひとつに在れるだろうか。
「それじゃあ、ばいばい」
最後の言葉は、
「だいすきだよ、■■■■■」
僕の、名前だった。
ぐらりと彼女の体は傾いて、いっそう強い風にさらされて、僕が駆け出すのは間に合わなくて、フェンスに飛びついた僕の目には彼女が落ちて逝くのがはっきりと映って、そして――
彼女が在る世界が、世界がひとつ終わった。
――――BAD END is Ded.