どんな風にお開きになったのか、その後冴木と何か話したのか、覚えていない。
どうやって帰ったのかすら、記憶にない。
でもどうにか自分の家には帰りついたらしい。重い頭を押さえながら目覚めると、ちゃんとベッドで眠っていた。被害はワイシャツがしわくちゃになっていたぐらいだ。
「うーん…頭痛い…」
顔を洗って時計を見る。10時半。ああ。今日が休みでよかった。
「…あ」
よくなかった。休みだから、彼女と約束していたのだ。
「はあ。面倒くさいなあ…」
うなだれながら、服を脱ぐ。熱いシャワーを頭から浴びる。
正直に言って、大して楽しみではない約束。何となくダラダラと学生時代から付き合っている芳美(よしみ)。
別れるのも面倒くさくてズルズル一緒にいるが、望んで会いたいとも思わない。
いつ会うのかもどこで会うのかも、全部芳美が決めて連絡してくる。俺はそれに従うだけだ。
まあ、会えばそれなりに時間はつぶれるし。食欲も性欲も満たされれば、俺にとってそう悪い話でもない。
ただ、最近すごく面倒くさいのだ。
「いつ結婚するの」「そろそろ結婚したい」「結婚する気あるの?」
28歳。交際7年。
確かに、結婚を意識するのが自然なのかもしれない。そうなのかもしれないが、俺にはその気はないのだ。
結婚したいともしたくないとも思わない。
いずれしてもいいとは思ってる。
でも。
その相手は芳美じゃない。
誰か他に女がいるわけでもないし、芳美が嫌いなわけでもない。
でも。
やっぱり芳美と結婚するつもりはない。
ガシガシと髪を拭き、冷蔵庫から冷えたお茶を取り出す。
ああ、少しサッパリした。
だったら早く別れればいいと言われるのだろう。
その方が芳美にとっても、長い目で見たらいいのだろう。
そうは思うが、別れ話を切り出すのも面倒くさい。
嫌いになったとか一緒にいたくないとか、そういう理由が見つからないのだ。
結婚を前提にせずに何となく一緒にいてはいけないのだろうか。
携帯が鳴る。
ああ、芳美だろうな。
俺は観念して電話に出た。
「もしもし?私、ずっと待ってるんだけど」
出るなり、怒りをあらわにした芳美が怒鳴る。
おはようとか、どうしたのとか、そういう一言は無いんだなあ。
そういや、いつもそうか。
用件だけまくし立てて、こちらの都合なんて気にしない。
そりゃ、約束の時間はとっくに過ぎてるんだし。連絡もせずに遅れた俺が悪いのはわかってるけど。
なんかもうちょっとこう、配慮ってのがあってもいいと思うんだよな。
はあ。
俺は聞こえないようにため息をついて、電話の向こうの芳美に謝った。
「ごめん。今すぐ行くから、どこか店に入っててくれ」
最寄駅に着くと、電車が遅れていた。
はあ。最悪だ。
また小言のタネが増える。
「もしもし?今駅にいるんだけど、電車遅れてるみたいでさ。悪いけど、もう少し待っててくれ」
「わかった…」
グーッと腹が鳴る。そういや、腹減ってきたなあ。
もう11時半だ。駅の時計と睨めっこする。
今日はパンケーキとやらを食いに行くコースらしい。それって腹いっぱいになるのか?
そもそも、何時間も並んで待つのが意味わからない。そこまでして待つ必要あるのか?ほかの店じゃダメなのか?
女同士でべちゃくちゃ喋ってると、あっという間なのかもしれないが。大して楽しい話題もない女と二人じゃ、待つ時間が長いのだ。いつも。
俺も枯れたのかねえ。昔はもう少し、色んなことに積極的だった気がするし。モテたくて一生懸命気を遣い金を遣ってたけど。
最近はデートするより、男同士で飲んでる方が気楽で楽しいと感じる。
職場の皆と愚痴をつまみに飲むのがいいのだ。部長がいなければ、もっといいんだけどな。
昨夜だって、楽しかった…
途中までは。
無意識に自分の唇を指でなぞる。
ピクリ
くすぐったくて、震えた。
この唇に残る、柔らかな感触。
「あいつの唇、柔らかかったなあ…」
って俺は何を思い出してるんだ。変態か。
やっと到着した満員の電車に押し込まれ、芳美の待つ駅へと揺られていく。
「怒ってるんだろうなあ」
憂鬱な気分で降りると、改札の向こうに仁王立ちの芳美がいた。
「お待たせ」
「遅い」
「悪い」
「ふん」
寝坊は俺の責任だけど、電車が遅れたのは俺のせいじゃねえだろ。
「この時間じゃもう、パンケーキ売り切れてるよ」
ぷいと頬を膨らませて拗ねる芳美を、かわいいと思っていたのはいつまでだったのだろう。
俺は食いたくもないパンケーキのために並ばなくて済んで内心ホッとした。
「適当にその辺の店でいいだろ」
「…」
無言の芳美と、近くのファミレスに入る。
不機嫌なままの相手と食事して、楽しいわけがない。
ハンバーグにのった目玉焼きをグルグルとかき混ぜる芳美に、俺はつい舌打ちした。
チッ
「なによ」
「ったく、いつまで怒ってるんだよ。せっかく飯食ってるんだから、もっと美味しそうに食えよ」
「誰のせいよ」
「俺が遅れたのは悪かったと思うけど、だからっていつまでも不機嫌でいられたら、こっちもイライラするんだよ」
俺はとっととエビフライとハンバーグを平らげて、グラスに汗をかいている水を飲み干した。
「あのさあ」
「ん?」
「もういい加減、ハッキリしたいんだけど」
「何を?」
このトーンは、また結婚話か。うんざりだ。
「結婚するって話?」
俺はさっさとケリをつけたくて、自分から言い出した。
「うん」
芳美の顔が明るくなる。ああ、勘違いしないでくれ。
「俺はお前と結婚する気はないよ」
ガシャン
芳美の手からフォークが落ちる。
「ひどい」
「ひどい?」
俺はひどいのか?
「この年まで待たせておいて、ひど過ぎる」
「…」
芳美の目から涙がポロポロとこぼれ始めた。あーあ。泣かせちまった。面倒くさい。
俺は一度も結婚するなんて言ったことはないぞ。
でも、はっきり断りもしなかったからな。俺が悪いのか。
「泣かれても俺の考えは変わらない。悪いな」
目の前の芳美が泣き崩れる。
もう、俺には優しく抱き締める権利もない。
ただひたすら、泣きやむまで待っていた。
遠巻きに様子を伺う店員に、熱いコーヒーを頼む。
引きつって鼻をすする芳美が、コーヒーを一口飲んで顔を上げた。
「もう、別れましょう」
「ああ。今までありがとうな」
せっかく止まっていた涙が、また流れ始める。
その涙を拭う優しさは、今の俺にはないのだ。
そうか。
俺は、芳美をとっくに好きじゃなくなってたんだな。
惰性で付き合っていた俺は、やっぱりひどい男なのだろう。
伝票を持ってレジに進むと、芳美はカバンを抱えて走り去っていった。
じゃあな。幸せになれよ。
声に出しては言えなかったけど。
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