最果ての森
最果ての森の奥には、魔女が住んでいる。
昔、そんな話を聞いた覚えがあった。今までそんな事信じて来なかったし信じようとも思ってこなかった。だが、その話を今思い出したのはその「最果ての森」に居るからだろうか。
森の中を歩いていた。獣の息遣いも、鳥の声も、虫の羽音も聞こえてこない。静寂の森と呼ぶに相応しい程に森はとても静かだった。だが草木は確かに息をしている。鬱蒼としてはいるが、木々の間から日は零れ落ちている。
草木が生きて、生き物が死んでいる森。そこまで考えて、まさかと足を止める。とんでもない森に入ったのではと全身から汗が噴き出した。
生来の臆病者の心臓が動悸を早くし始めた。足が動かない。もしも、恐ろしい魔物が居たらどうする? 恐ろしい植物が居たら?
恐ろしい――――魔女が居たら?
「あら?」
「、!」
涼やかな甘さを持った声が耳に入り込み、びくりと体を震わせてそちらを見た。くりくりとした丸い黒瞳と目があった。体の線の見えないゆったりとした服に髪の量の多い黒髪をゆるく三つ編みにしている。
その姿に拍子抜けし、ぱちくりと目を瞬かせていた。
「こんなところにご客人なんて、何年振りかしら」
おっとりとした口調で、『彼女』はそう言って笑っていた。手には籠を持っており、山菜や木の実が籠一杯に詰めてあった。
「……こ、この森に人は住んでいないはずです。貴殿、何者……だ?」
震える臆病な心を精一杯勇気で満たしてそう問いかけた。『彼女』は一瞬不思議そうな表情をした後、拍子抜ける程おおらかな笑みを作っていた。
「聞いたことないかしら? 私、」
恥ずかしそうに掌を頬に当て、彼女は告げる。
「魔女なんです」
キラキラとした童女のような笑みに、彼は言葉を失っていた。
「びっくりした……どうして逃げるんです? 別に取って食べようなんて思ってませんよぅ……」
「なら……離すんだ。いや離して下さい」
「いえ、別にそんなご謙遜ならずともよろしいですよ……?」
苦笑する自称魔女に、彼は若干泣きそうな声でそんな事を懇願していた。自称魔女の女はそんな声を聞いてさらに苦笑を強めている。
彼は全身を銀色の甲冑で包んでいた。声からして男性であると特定できるが、それ以外の彼の要素は殆ど甲冑に包まれていて分からない。上等な甲冑姿から何らかの騎士であることは想像に難くないだろう。
そんな甲冑の体は、現在大樹から伸びる蔦によって吊るされていた。無残にも腹回りに巻きつかれ、枝から垂れ下がっている。
「突然逃げるんですもの。びっくりしたんですよ」
「魔女というのは、逃げると人間を蔦で捕まえると……」
「久しぶりにお話出来る人に巡り会えたんですから蔦位使いますよ~」
「………………」
無言の甲冑騎士に、ニコニコ笑顔のままの魔女。
「………………」
「………………」
しばしの沈黙。沈黙に耐えかねたのか、魔女が口を開く。
「とはいえ、怯えさせるつもりはなかったんです。ただ、初対面の人に突然逃げられてちょっとショックで……」
ううう、と肩を震わせる魔女に、オロオロし始める甲冑騎士。そんな甲冑騎士に、魔女は温和そうな表情を浮かべて声を掛ける。
「じゃぁお詫びに……私の話し相手になってくれますか?」
「……分かりました」
渋々と承諾する声に、パァッと表情を輝かせる魔女。ニコニコした笑顔で彼女は騎士を地面へと降ろし、蔦を解いた。
「………………?」
「どうかしましたか?」
「いえ、いつもなら、皆さんこのタイミングでダッシュで逃げてしまうので」
「……逃げてよかったので?」
「いえ、逃げられると凄くショックなので止めていただきたいです」
そんな事を泣き顔で言われては何も言えなくなる、とでも言う風に甲冑の騎士は肩を落としていた。
「……大丈夫です。逃げませんよ」
「ありがとうございます! どうぞ、私の家までお越し下さい。お茶でもお出ししますわ」
笑う魔女に、甲冑の騎士は大人しく首肯した。
魔女は本当に嬉しそうに笑っていた。その様子はまるで、町娘のようなそんな柔らかい雰囲気があった。
これが、彼と彼女の初めての出会いだった。
「まず、自己紹介からしましょうか。私、ヘレナと申します。騎士様は?」
「あ、」
「あ?」
不思議そうな表情で顔を覗きこんでくるヘレナと名乗った魔女に、言葉が詰まる騎士。数瞬間を開けて、改めて騎士は顔を上げた。
「あ……アル、と申します」
「そう。アル様と仰るのね。でもアル様、テーブルに着いたのだから素顔は晒してくださっても良いのではなくて?」
「……そうですね。失礼致しました」
家に着いた瞬間、殺される事も想像していた。殺されたとしても自分は文句が言えないと肩を落としていたのだが、普通にテーブルに招待されティーカップと茶菓子を差し出されただけだった。そしてヘレナに言われるがままに兜を脱ぐ。
さらさらとした金髪がこぼれ落ちた。兜を被っていたせいか、髪の毛には少々癖が着いてしまっていたが柔らかく流れる蜂蜜色は明らかに貴族階級によく見られる髪色だった。容姿は美形に類するだろう。気品の感じられる目鼻立ちをしているがその蒼い瞳だけは自信無さ気に揺らめいていた。アルと名乗った騎士の容姿に、ヘレナは一瞬目を見開くもすぐ口元に柔らかい笑みを浮かべていた。
「アル様は……貴族階級の方なのですか?」
「……えぇ、そうですね。ですが、そんなものは建前でしかありません。私は」
「『私は』とはどういう意味ですか? その甲冑は、一定の階級を持っている者しか着る事の出来ない甲冑だと記憶していましたが……違いましたでしょうか?」
「いいえ。よく知っていますね」
「ふふふ、少し記憶は古いけれど。貴方の国にはしばらく居たものですから」
「………………」
「貴方の国はカストゥール王国でしょう? 国章を見れば分かりますわ」
「……そういう意味でしたか」
「私が何か魔法を使って特定したとでも? まぁ酷い。今のところここで魔法なんて使っていないのに」
ぷすっと子供のように頬を膨らませるヘレナに、頬を綻ばせる騎士。その騎士の様子に、ヘレナはまた童子の様に表情を笑みに変えていた。
よく笑う女性だ。魔女という恐ろしい力を持つとは到底思えない程に。
騎士は家の中を見回した。
家、というよりも小屋と言う表現が一番適切かもしれない。大きさとしてはその程度である。一人で住むにはその程度で十分だったのだろう。少なくとも、家の規模や彼女の様子からして一人暮らしであることは容易に予想が出来た。家の中は雑多で、不思議な液体の入った小瓶、壁一面が本棚にされ壁を埋め尽くす分厚い本達、床に無造作に詰まれた本、読みかけで開かれたままにされた本、瓶の中には不思議な色を放つ鉱石が入れられている。物としては本が圧倒的に多かった。綺麗に整理整頓された様子は無く、床に飲みかけのティーカップが置いてあったり何に使うのかは分からない絵筆が転がっていたりした。絵を書くためのキャンバスも絵の具も見当たらないのに絵筆だけ転がっているのだ。
「?」
「何か面白い物でも見つけました?」
「……えぇ、そうですね。この部屋を漁れば面白い物は沢山見つかるでしょうね」
「魔女の家だからですか?」
「そうかもしれませんし、そうじゃないかもしれません。得てして、他人の部屋というものは面白い物が多く感じるものです」
「……そういうものですか?」
キョトンとした様子のヘレナ。騎士は苦笑するだけだ。ヘレナは物が煩雑としている自室を眺め、苦笑を浮かべる。
「もう少し片付ければ良かったですね。生来、あまり整理整頓出来る体質ではないのか、片付かないのですよ」
「魔女ともあろうお方なら魔法で片付けるのかと思いましたが」
「………………」
騎士の言葉に、ヘレナははたと動きを止めていた。そしてまたキラキラした瞳で騎士を見る。
「なるほどその手がありましたね!」
「気が付いてなかったのですか……」
「片付けは人の手でやるものだという妙な固定概念があったものですから……今度からは自分で片付けてみますね」
新たな指摘にウキウキした様子のヘレナ。騎士はそんな純粋な姿を見てこれが本当に噂に聞く魔女なのか疑問に思うほどだった。
「あ、そういえば」
ふと思い出したようにヘレナが口を開いた。純真な瞳で騎士を見つめてくる。
「アル様は、どうしてこのような森の中に?」
「……あぁ、そのことですか」
「はい。良ければお聞かせ願えないでしょうか。『最果ての森』になどほとんどの人間が出入りしないものですから」
ふふふ、と笑いながらヘレナはティーカップに角砂糖を入れている。ティースプーンでくるくるとかき混ぜ、紅茶を飲んでいた。その動作を黙って見つめている騎士に、ヘレナは不思議そうな目を向けてきた。
「どうかなさいました?」
「私は……」
絞りだすように、騎士が口を開いた。ヘレナはティーカップを置いて騎士の次の言葉に耳を傾ける。
「私は、逃げてきたのです」
「……逃げた?」
「……えぇ。私は、戦争から逃げた。ただの臆病者です」
恐怖で体が震えるのか、騎士は小刻みに体を震わせていた。自らの両手を見つめ、それが異形でもあるかのように恐怖を露わにしている。
そういえば、この騎士は腰に剣を帯刀していない。ヘレナはそれに気が付き、唖然とした様子で騎士に視線を注いでいた。
「今日は、私の初陣で……私は初めて人を切りました。人を……斬り殺しました……」
涙声で訴える騎士は両手で顔を覆い、俯いてしまっている。ヘレナは立ち上がり、騎士の傍に寄り添うとその背中をそっと撫でる。
「……貴方は、確かに臆病者ですね」
撫でられた背中の温もりは暖かで。騎士はしばらく嗚咽と共にその温もりに身を委ねていた。
「落ち着きましたか?」
「……はい。申し訳ありません。お見苦しい所をお見せいたしました。騎士ともあろうものが人に涙を見せてしまい……」
「ふふ、大丈夫です。人は、脆いものですから」
席に戻ったヘレナが笑みを讃えて騎士を見つめている。騎士はその笑みに笑みを返そうとするも、涙で突っ張った頬は笑みを形つくってくれそうに無い。
「ただ、一つ質問があるのですアル様。お答え願えるでしょうか?」
「……え、えぇ。私でお答えできる事であればお答えします」
躊躇いがちに答えれば、その返答に満足したのかヘレナは微笑んで唇を開く。
「先ほど、『戦争』と言っていました。私は失礼ながら森に身を置いている身です。国の流行に疎いもので……失礼でなければ、戦争に事についてお聞かせ願いたいと思いまして」
「……今回の戦争の事、ですか」
騎士は渋い表情を見せ眉間に皺を寄せるもため息と共に口を開いた。
「魔女殿は、ニヴァシュの山というのはご存知でしょうか」
「……存じております」
少しだけヘレナの表情が硬くなるも、頷いている。騎士はそんなヘレナを気にせず言葉を続けた。
「近年……そうですね。二年程前でしたでしょうか。ニヴァシュの山にてある鉱石が発見されたんです」
「鉱石?」
「はい。これです」
そう言って、騎士は懐から一つの石を取り出した。真紅に染まった石だった。血の様に赤いその石に、ヘレナの視線も険しくなる。
「……この石が、何か?」
「この鉱石は『エーテル』と言いまして。二年程前から発見されはじめたのです。この鉱石がかなり特殊で」
「特殊とは?」
「はい。この鉱石を媒体に、我々は魔法が使用出来るようになったのです。そう、貴殿のように」
「……魔法が?」
訝しむヘレナ。騎士は石に集中し、掌の上に炎を出現させてみせた。
「手っ取り早く魔法を見せるにはこのように炎を顕現させる、というのが一番だったので行なってみましたが、他にも出来る事は多いです。小規模ですが風を起こしたり、水を発生させたり。この鉱石のおかげで国民の生活はとても豊かになりました。ですが、豊かさの代償の様に戦争は起きました」
「……その鉱石……『エーテル』の争奪戦ですね。当然の帰結、ではありますが」
「正確には、『エーテルの鉱山』の争奪戦です。今、ニヴァシュの山は隣国に狙われている」
「この鉱石を売るという手段もあったでしょう」
「ですが、これは使いようによっては人を傷つける道具に成り果てる。そうなれば……我が国はあっという間に制圧されるのが落ちでしょう。同盟を結ぼうにも、狙ってくるのは国だけとは限らない。明確な平和はまだ遠い」
「……その『エーテル』が、戦争のきっかけだったのですね」
「……はい」
項垂れる騎士に、ヘレナは思案するようにテーブルに肘を着いた。真剣な眼差しで思案するヘレナに、騎士は気が付いたように声を掛ける。
「そうだ……魔女殿の力で、戦争をなんとかする事はできませんか?」
「申し訳ありませんが、それは無理です。私は普通の人間の世界に不干渉を決め込む為にここに居るので」
ヘレナの発言に肩を落とす騎士。よほど期待したのだろう。本当に落ち込んでしまっている。戦争を憂いている。いや、人を殺すことが最早トラウマになっているのかもしれない。
「騎士様は……戦争はお嫌いですか?」
「戦争が好きな人など居ませんよ……いや、居ない。居ないと……信じています」
「……お優しいのですね……」
「優しさなんてものではありません……ただ……臆病なだけです」
悲しく笑う騎士に、ヘレナは微笑み返す。ヘレナはすっくと立ち上がると騎士に手を差し出してきた。
「今日はお話ありがとうございました。もう日も暮れてしまいますし、森の入口までお送り致しましょう」
「……なんと、ありがとうございます」
呆気無く、生還を許された騎士。魔女と握手を交わす。
窓の外から夕暮れの光が差し込んできていた。
魔女の性急な帰還を促す言葉に、騎士は何の疑問を持つことも無く帰路に付いて行くのだった。