section 1 :Lilith "XIII. Death"

9th November,192x
Maple St, London

 レンガ作りのアパートメントの一階にあるロビーの片隅。テーブルで一人の女性が朝の紅茶を飲み終えて、先程届いたロンドン・タイムズを開いている。
 この日はドイツの政党やアイルランド問題などの記事が目立っているようだ。政治問題にはさして興味を持てない彼女は、ざっと簡単な概要だけを拾い読みして紙面をめくる。
 と、極小さい記事の一つに気づき、それを穴が空くほど何度も読み返し始めた。一旦新聞を閉じた後、彼女はどこか夢でも見るような表情で窓へと目をやる。何かを見ているというよりは、今の記事について何やら思いを巡らせているようだ。

 ティー・テーブルの向こう側に置かれたホールクロックから午前9時を告げる鐘の音が響いた。現実に引き戻された彼女は文字盤を確認し、椅子の背にかけていたコートと帽子を手にして立ち上がる。

 床板と椅子のこすれあう音に気づいたのか、階段の向こうの扉から中年女性が顔を覗かせた。
「あら、もうお出かけになるの? 」
「ええ。美味しい紅茶を有難うございました、ミセス・ミルトン」
 黒っぽい地味なコートと帽子を片手にアパートの玄関へと歩いていた女性は、一度立ち止まり家主に愛想の良い笑顔を向けた。
「今週は少し帰宅が遅くなるかも知れませんが、どうぞご心配なく」
「まあ、アイリスさん。若いご婦人が夜歩きなんてあまり感心しませんよ?もっと早く帰宅出来ないのかしら? 」
 典型の昔気質の英国女性であるらしいミルトン夫人は、少し厳しい表情を作ってみせた。アイリスと呼ばれた女性は、やんわりと花のような印象の笑顔で「気をつけますわ」と答えて、扉を開けて朝の町へと出て行った。

 アイリス・エリス・グレイス。通称リリス。(ただし通常この呼名は使わない) 職業、雑誌記者。
 この時代まだ少数派の女性記者の上、人目を引く容姿で同業者の間ではちょっとした有名人である。だが地味なロングコートと目深に被った小さめの縁つきの帽子姿の通勤中は至って目立たない。

 勤務先までは天候さえ良い日であればバスでも良い距離だが、今朝のような曇天の晩秋の風は冷たい。混み合ったバスの天井部に乗る事になるのは億劫なので、多少遠回りではあるが地下鉄を利用するためにユーストン・ロード駅まで行く事にした。
 地下鉄での移動中、彼女は先程読んだ新聞記事に関して再び漠然と思考を巡らせる。

 前年のツタンカーメン王の墓の発見以来、世間では古代エジプト文明への関心が高まっている事はリリスも知っていた。何しろ彼女自身も事情が許すのならカイロに飛びツタンカーメン王に是非会いたいとさえ思っていたのだから。
だが記事の内容は古代エジプト王家とは縁のなさそうな、紀元前1000前後と推定される男性ミイラの話だ。王家の谷や古代神殿跡から離れた場所で見つかったという古代エジプトの成人男性の遺体。"彼"は副葬品もあまり無く、発見された当初から注目される存在では無かったらしい。
 しかしUCL(ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン)歴史科学部のアラン・ダラス教授がわずかに有った簡素な装飾品が歴史上稀に見る珍しい物だと主張し、自分の研究室で集中的な調査を行っていたのだという。残念ながら調査結果は芳しくなかったようだが、どういう経緯か’’彼"はロンドン市内のさる貴族が所有する歴史学博物館に寄贈される事になったという内容だった。

 取り立てて目を引くような記事ではないはずなのだが、研究室に持ち込んだ教授の「歴史上稀に見る珍しい装飾」と言う部分にロマンを感じる。考古学の専門知識は無いリリスだが、この手の話題には知的好奇心を掻き立てられる性格なのである。

 勤務先の最寄り駅セント・パンクラス駅に着いた。雑踏の中を通い慣れた道を急ぐ。大通りを抜けた先のやや小さめの路地にある灰色のレンガ造りの建物が目的地だ。表には『ウェイト&シンプソン』という社名が書かれている。屋内階段を上った彼女は、二階の一室の扉を開いた。
「おはよう、アイリス」
 彼女に声を掛けたのはカメラマンのブルックスだ。
「おはようございます、ブルックスさん」
 挨拶を返した後、入り口横に置かれたタイムレコーダーに出勤記録を付ける。
「あら、編集長はどちらに? 」
 いつもは中央のデスクから動こうともしないウィリアム"ビリー"・ヘクターの姿が見えない。「さあ?」と首を傾げるブルックスの代わりに、資料棚の奥から顔を出したエイベルが答える。
「編集長なら先程社長に呼ばれて、上に行ったみたいですよ」
「じゃあ今日の彼はボスに付き合わされる事になりそうね」
 コートと帽子をラックに掛けて席につこうとした時、青い瞳に茶色い大きな封筒が映った。彼女にとっては珍しい物ではなく、見慣れた物だ。
「これはいつ届いたのかしら? 」
 リリスのこの問いに同僚二人は首を振った。……まあ、いつもの事ではある。この封筒は時折彼女の元に不思議な経緯で現れる物なのだ。リリスはそれを仕事用のバッグへと一旦収めた。ここで開いても意味がないためだ。
 そして、口煩い編集長が居ない間に、急いで次の締め切り合わせの自分の担当記事をまとめ始めた。

 彼女たちが発行する雑誌は『スターマウント・パラノイア』という。いわゆるゴシップ雑誌だが、内容の八割はオカルトに関連する題材を集めている。編集長のビリー・ヘクター以下、先の三人が主なライターとカメラマンという弱小雑誌だ。
 元々『ウェイト&シンプソン』社は週刊のタウン・タブロイド紙を発行している会社だが、近年幾つかの雑誌も刊行し始めた。その一つが『スターマウント・パラノイア』だった。しかし幾らオカルト好きが多いロンドンでも毎月恐怖記事のネタが転がっている訳もないので、今のところは季刊誌。まだ次の締め切りには時間的に余裕はあるが、何しろたった4人の編集員だ。毎回記事は自前で用意せねばならず、編集員たちは毎日ネタ探しに奔走していた。

 ふとリリスはペンを持つ手を止めた。先のミイラの記事が頭を離れない。彼女はしばらく何かを考えていたが、やがて卓上にある電話機に手を伸ばす。そして同じビル内にある週間新聞の編集部の番号を回した。
「SMPのグレイスです。ミスター・グリンウッドはいらっしゃいますか? 」
 リリスがそう名乗ると、電話に出た女性の声が答えた。
『お疲れ様です。少し待ちを』
 数秒後に男性の声が聞こえた。
『ご無沙汰しています、ミス・グレイス。今日の御用は、ロンドン・タイムズの記事にあった男性ミイラの件ですか? 』
 察しが良すぎる友人にリリスは苦笑した。
「ご説明の手間が省けましたわ、ミスター・グリンウッド。お察し通りです。そちらから取材に行かれるご予定はありまして? 」
 周囲を気にしているのか、やや声を抑えて相手は答えた。
『公開前日に、僕が取材する事になっています』
 勿論リリスは歴史に強い彼が取材担当になる事を予想して電話を入れている。
「では、その取材に優秀なアシスタントは如何ですか? 」
 グリンウッド氏は笑いを堪えて『カメラマンなら』と言った。
「それなら先日新調したばかりのコダックを持参出来ましてよ」
 取材に関しての幾つか打ち合わせした後、リリスは受話器を置いた。

 その後、彼女は先程書きかけていた次回掲載分の記事を急いで仕上げた。編集長が目を通せば確実に文句が出るレベルの内容なので、デスクには今仕上げたばかりの記事にメモ書きを添えておく。

「とても興味深く、面白い記事の宛が出来ましたので、早速取材に行って参ります。次回の記事こそは必ずや貴方様のご期待に添える物となる事でしょう。 I.G.」

 これで残った問題は先に荷物に入れた茶封筒だけという事になる。

 まだ午後を少し過ぎたばかりの時間だが、リリスは早々にオフィスを出た。勿論、自分のネームプレートを取材中という位置に掛けておく事を忘れてはならない。こうしておけば数日オフィスに顔を出さなくても、大して文句は言われないはずだ。

 地下鉄の駅への道を再び辿りながら、リリスは今日これからの予定を立てる。とりあえずは自分の部屋に戻って遅めの昼食を取る。その後、茶封筒の中にある物を確認しなければならない。
「この前買ったバケットはまだ食べられるかしら? 」
 独り言の後、途中にある小売店で「ミルクだけでも買い足そう」などとぼんやり考えながら、彼女は歩調を少し早めた。

nyan
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