section 3 :Gary "VI. The Emperor"
Acacia Road, St Johns Wood, London
ゲーリー・クローンは昼食後のお茶を飲み終えて、サンルームでくつろいでいた。大きな窓が中庭に面した日当たりの良いこの部屋は彼のお気に入りの場所である。書斎や気に入った蔵書を貯めこんだ書庫にも隣り合っており、気が向けばいつでも読書やティータイムを迎える事が出来るよう座り心地の良い椅子や美しい仕上げのティーテーブルも用意してある。
この日は自分がスポンサーとして融資に参加した、エジプトの男性ミイラについての記事が新聞に掲載されていた。もう少し大きな記事であれば尚良かったのだが、無名の発見物が私立の小さな博物館へ寄贈されたという内容だ。扱いが小さいのも仕方ないだろう。だが、数日後には支援の礼としてエジプトで作られた加工品、そして「大した価値のない遺物」が幾つか彼の手元に進呈される約束になっている。ゲーリーとしてはミイラ自身よりもそちらに興味があるので、博物館へは展示後に挨拶にでも行けば良いと考えている程度だった。
セント・ジョンズ・ウッドの閑静な高級住宅街に邸宅を構える彼はいわゆる「ジェントリ」に属する。もっとも祖父の代までは比較的貧しい地方地主だったので、父親が財産を投じて起業しなければ今の彼の生活も全く有り得なかったのだが。
ゲーリーの父親が起こしたクローン・コーポレーションは、インド・中国とのアジア貿易で財を成すことに成功した。父亡き後は二代目のゲーリーが仕事を引き継ぎ、更に事業拡大した現在ではアフリカの各地とも取り引きを行っている。子供もなく、妻にも先立たれた寂しさはあったが、今の彼は仕事も趣味も順調で悠々自適な生活を送っている。
午後からは特に急ぎの仕事もないので、アトリエで絵でも描こうか……などと考えていたのだが。
執事のピコー氏が郵便物を持って部屋に入ってきた。執事の手に大きめの茶封筒があるのを見て、ゲーリーは少しだけ残念そうな表情になる。まずは幾つかの仕事関連の書状と幾つかの私信にざっと目を通し、急ぎの物が無い事を確認する。
最後に見慣れた茶封筒の蝋封をペーパーナイフで開け、中のレコード盤を手に書斎へと戻った。デスクに置いた再生装置に盤を乗せて起動すると、壮年の男の声が聴こえてきた。映写装置に写っているのは写真や地図などの資料類である。
「ご機嫌よう、調査員諸君。今日のタイムズは諸君も既に見ている事と思う。その中にエジプトで発見されたミイラの記述があった事には気がついただろうか? 数日後にロンドン市内のサー・ジェームズ・ロードマックの私設『歴史学博物館』に寄贈される事になった物だ。しかし、件のミイラの副葬品の一部がブローカーの手によって市街へ流れている。そして考古学者であり我が組織の一員でもあるアーサー・ランドンが調査のためにそれを入手した後に消息が分からなくなった。ランドンの失踪と副葬品の因果関係はまだ不明だ。しかし私のダウジングはこの件に関し、緊急調査の必要性を告げている。今回はラッセル・スクエア近くの古書店「D.ポーター・ブックセラーズ」の二階にある拠点に向かって欲しい。夕刻までには、連絡兼世話役のジェーン・コッカーがそちらへ向かう事となっている。では、諸君の健闘を祈る」
ゲーリーが見ていた映像は一方的に送られているだけの指令だが、思わず呟かずにはいられなかった。
「もしかして、俺は非常にまずい物に出資してしまった……という事なのかな? 」
とは言え、今回の出資額くらいで彼の会社も財産も全く揺らぐ事などは有り得ない。
だが遺物を入手した仲間が失踪しているとは……。その遺物と失踪に因果関係が本当にある物として。もし融資の謝礼品が先に贈られていたら、ひょっとして失踪したのは自分だったのではないか? などと想像すると到底他人事には思えない話である。
失踪したアーサー・ランドンはゲーリーとも面識がある。数回一緒に仕事した初老の考古学者で、温和で真面目な男だった。考古学にも興味のあるゲーリーは、彼の研究や遺跡発掘を行った時の体験談を興味深く聞いた事を思い出していた。
しばし物思いにふけっていたゲーリーの前で、投影を終えた音盤がシュウという小さな音を立てて微かな煙を上げ始めた。指令盤は情報漏洩対策として、一度再生を終えた後に自動で表面が薄く焼かれるようになっていた。仕組みなど詳しい事はゲーリーにも全く分からないが、何かの薬品を使った科学反応のように見える。
とにかく集合場所として指定された「D.ポーター・ブックセラーズ」まで行かねば話にもならない。
毎回彼らは茶封筒で送られて来る指示に従い、英国内に幾つかある「拠点」と呼ばれるアパートや家屋などに滞在して数日に渡り業務に就く。仕事のある付近に拠点が全くない場合は、指令者側が一定期間だけ拠点になる場所を借り上げて用意する事になっていた。
そして各拠点には連絡兼世話役を専門とする者が一人ないし二人派遣され、任務中の飲食や健康管理の他、指令者との定期連絡や仕事の進行報告、そして任務の結果報告までを担当する。
煙が消えた後、盤の表面が熱を持っていない事を確め、ゲーリーはそれを茶封筒に戻し再び封をした。そしてベルを鳴らして執事のピコーを呼ぶ。いつも通り封筒の中身を厳重に処分するように指示し、これから私用で外出する旨を告げた。
「ご夕食は如何致しますか? 」
ゲーリーの「私用での外出」は大抵の場合は夕食時に戻らない。律儀な執事は念のために確認したのだろう。
「いつも通り出先で取る。そのまま数日空ける事になるやも知れないので、留守をよろしく頼む」
ピコーは一礼して部屋を出て行き、運転手のテイラーを呼びに行ったようだ。
その間にゲーリーは、数日掛かるであろう『仕事』のための支度を整え、出来るだけ軽くて湿気に耐えるコートを選んで着こむ。そして帽子と愛用の杖を手にして部屋を出た。
近くにいたメイドが廊下の隅に立ち頭を下げているのが見える。メイドの顔など覚えてはいないが、年若い様子なので最近来た者なのかも知れない。そう思いながら、ゲーリーは玄関を出た。
ドアの前に来ていた車に乗り込むと、ラッセル・スクエアまで行くように運転手のテイラーに告げる。
「帰りは連絡を入れるので待機する必要はない」
そう付け加えるとテイラーは「承知致しました」とだけ返した。無口な運転手は必要以外の事は全く何も話さない男なので、必然的にゲーリーも黙ったまま目的地に向かう事になる。
車窓の外に流れていく平和なロンドンの日常を見ながら、ゲーリーは彼のもう一つの顔とも言える非日常の任務へと向かった。