section 9:Developments "VII. The Chariot"

Humpty Dumpty sat on a wall.
Humpty Dumpty had a great fall.
All the king's horses and all the king's men
couldn't put Humpty together again.

ハンプティ・ダンプティ塀の上
ハンプティ・ダンプティ落っこちた
王様の馬、王様の家来の皆でも
ハンプティを元に戻せなかった

     Mother Goose --Nursery Rhymes--

11th November,192x

 明けて調査二日目午後。
 コメットとゲーリーは予定通りイースト・エンドのホワイトチャペル・ロードに程近いダーウォード・ストリートへと向かった。かつて、この辺りはバックス・ロウという名だったのだが、ホワイトチャペル付近での連続殺人(いわゆる「切り裂きジャック事件」)の第一被害者発見の場となった事で悪い評判が立ち、付近の住民の嘆願によって通りの名前が変わったのだという。
(作者駐:第三の現場となったバーナー・ストリートも、後日にヘンリケス・ストリートと名前が変わったのだが、件の殺人事件とは全く無関係での改名だったようである。)

 酒場が開く時間までの間に、ゲーリーとコメットは付近での調査を行う事になっていた。まずは二人は手分けして、目的地の一つとなるドイツワインを扱う酒場や販売店らしき物を探す。しかし特に看板のようなは見当たらない。5、10、15番地の建物にも別段変わった雰囲気はない。
 コメットが一つの扉の前で足を止めた。ドアには小さな金属プレートがあり、立ち上がる獅子の意匠が刻まれていた。ポケットに入れた封書の蝋封を見直す。同じ絵柄だ。予め調べた番地とは無関係の場所だが、白いペンキのような物で105という文字がドアにあり、横にドイツ語で何か書かれた板が貼られていた。
(獅子の紋章に105か。……面白くないな、リリスの言ったまんまじゃない)
 そんな事を考えながら、声は出さず左手を小さく振ってゲーリーに合図を送る。
 そのまま何食わぬ顔でウィスロップ・ストリートと交差した辺りまで歩いて行き、角を曲がった所で立ち止まってわざと落としたハンカチを拾うふりをする。ゲーリーは先にコメットが自分を呼んだ場所で横目でドアを見た後、コメットのいる近くまでゆっくりと歩く。
「獅子のドアだよ」
 立ち上がりながらコメットが小声で告げ、すれ違ったゲーリーが「Noted.(了解)」と極短く返す。二人はそのまま視線だけを交わし、そこから別々の調査へと向かった。


「直接会うのは久しぶりだね、アイリス」
 待ち合わせ場所に現れたジョン・グリンウッドはリリスの顔を見るなりそう言った。笑顔でリリスは答える。
「そう?電話でお話ししたせいか、そんな気がしないわね。奥様やお子様たちはお元気? 」
「有難う。皆元気にしているよ」
 グリンウッドはアメリカの大学時代のサークルでの知り合いだった。卒業後は会う事は無かったが、昨年自社の創立記念パーティで再会した。海外での知り合いが同じ会社にいた事にお互い驚き、以後は懇意な付き合いがある。その理由には彼が愛妻家で子煩悩なため、リリスを口説く気が皆無な事、その妻も学生時代からリリスが知る相手だという事もある。
 ともあれ仕事に掛かるために、リリスとグリンウッドはロードマック卿の運営する『歴史学博物館(historical science museum)』へ向かう。

 予定では取材が始まる午後2時過ぎに、ケインとリーファスが一般客として館内に入る事になっている。ケインは念のために『パチパチ君』(元の名前は『生体磁力怪光線』)を「カメラにカモフラージュして持って行く」と言っていたが、果たして上手く誤魔化せるのか、リリスは不安に思っていた。リーファスも念のために「普通のカメラも持って行きたい」と言っていたが、何分機械には理解のない彼女。こちらはこちらでちゃんと写るのかが問題だ。何しろリーファスは普通の撮影より念写の方が得意なくらいだ。

 そんなリリスの心配をよそに、ケインとリーファスは念のための装備をバッグに詰め込んで博物館への道を急いでいた。
「地図ではこの辺のはずよ」
 きょろきょろとリーファスが周囲を見回す。「歴史的建築物」や有名人物の生家を改造した小さな博物館もよくあるので、見落とさないように注意して歩いていたが、それらしい物はまだ見つからない。
 業を煮やしたケインは足を止めて、手にした荷物の中から『霊魂君』(公式な名称では『幽体探知機』という物らしい)を取り出した。リーファスが止める間もなく、彼はそれを起動する。
「ちょっと、路上でそんな物出さないで頂戴」
「そんな物とは何だそんな物とは! 」
 二人が言い合う間に、『霊魂君』はヨンヨンという怪しげな音を出して、ある方向をモニター上に指した。二人は言い合いを止めてケインの手の中の機器をじっと見つめる。
「駄目で元々って事で良いよな? 」
「そうね、行ってみましょう」

 程なくして二人が辿り着いた場所(『霊魂君』が示すシグナルに近い辺り)に、『historical science museum』(歴史学博物館)という表示があった。
 目的地を発見して嬉々として中へ向かおうとしたケインを、リーファスが慌てて服の裾を引っぱって止めた。
「先にあなたの大切な『霊魂君』をバッグに待機させて下さいな」
 妻のこの言葉は少々不本意ではあったのだが、ケインは素直に『霊魂君』のスイッチを切り荷物の中に丁重にしまい込んだ。
「それにしても一体何の幽体を探知したのかな? 」
「『何の』ではなくて、『誰の』と言いましょうね」
 少しだけリリスの口調を真似てリーファスは夫に注意した。確かにケインが言った事は気になったのだ、まずは入館の手続きをするのが先決だ。
 一般住宅より大きな扉を開けて、二人は館内へと進む。外観から想像するよりも広めのロビーに受付の窓口がある。呼び鈴を鳴らすと、奥から女性が出てきて「ご入館ですか? 」と尋ねた。入館は有料だったが高額という訳でもない。二人分の料金を払うと、受付嬢が簡単な館内案内をしてくれた。一階はロビーと休憩室、そしてこの案内所となっている。二階と三階が展示室なのだが、三階の奥にある特別展示室は今日は閉まっているという事だ。
「必要なら休憩室でティータイムのご用意が出来ます。その時はまた声をかけて下さい」
 案内嬢はそう言った。リーファスとケインは彼女に礼を言い、まずはロビーにあるフロアマップを見に行く。
「例のミイラって特別展示室に出されるのかしら? 」
「小さい記事とは言え新聞に掲載された物だからな。そうなるんじゃないかな」

 受付の女性が奥の部屋へと戻ったのを確認すると、リーファスはフロアマップの正面に立った。上着のポケットに入れていた小さな革袋からダウジング・ペンデュラムを取り出し、図面の上に鎖の先についた水晶を掲げる。そして彼女は意識を集中して、ハイヤーセルフに問いかけながら、リーディングを試みる。
 ケインはその間に地図に書かれたフロアの構成を頭に叩き込んでおく事にした。

 しばらくして、リーファスがペンジュラムを袋へと戻した。
「どうだった? 」
 ケインが尋ねるとリーファスは特別展示室を指さした。
「やっぱりというか。『霊魂君』が示した場所はここみたいね」
「入れないみたいだけれど、部屋の前までくらいなら行けるかな? 」
「前までなら大丈夫だと思うわ。怒られたら、間違えたとでも言えば良いわ」
 そう言って二人は館内を歩き始めた。

 同時刻。
 リリスは特別展示室にいた。ロードマック卿へのインタビューはグリンウッドの仕事なので、彼女は眼前の展示物を見ている。輪状になった蛇の意匠のついた錫杖を胸に抱えた男性ミイラがガラスケース内に横たわっていた。
 ある程度の事はリリスも予想していたので驚きはしなかったが、それでも頭の中に浮かぶ疑問は止められない。ゲーリーの話だと「ミイラは行方不明」、つまりロンドン警視庁の捜査時点では研究室にミイラは無かった。先にここに移送されていたのなら助手が知らないはずはないので、「行方不明」とは言わない。となると、ダラス教授が助手に最後に会った時間からゲーリーが訪ねるまでの間に、ミイラを移動したという事ではないのか?

 そこまで考えて、リリスはグリンウッドの質問に答えているロードマック卿に視線を移す。終始にこやかに応対している彼は男爵というが調べた所、古くからの貴族ではない。先の大戦(WW1)の折に戦績を上げ、事業に成功した事で爵位を買い入れたらしい。まあ、それはよく聞く話なので特に問題ではない。物腰も丁寧かつ洗練された印象があり、成金貴族の印象は無い。しかし作られた笑顔には何か違和感がある。
 グリンウッドの質問があらかた終わった時点で、リリスは「撮影させて頂いて宜しいですか、閣下? 」と申し出る。ロードマック卿は快く「構いませんよ」と答える。

「では申し訳ありませんが、一緒に写るようにケースの前へお願いします。」
 相手の男はミイラの横たわるケースの前に立ち、グリンウッドは邪魔にならないようにと脇へと避けた。リリスは手持ちのカメラで数枚シャッターを切る。そのうちの一枚は出来る限りミイラを大きく入れるように試みた。
「ご協力有難うございます。この記事は、数日後に発行される弊社の紙面に掲載される事になると思います」
グリンウッドの言葉にロードマック卿は満足気な表情になる。
「それはそれは。当博物館は見ての通り小規模なので、宣伝をして頂けるのは大変有り難い事です」
 これで一通りの取材は終わったようだ。

「少し個人的にお話をお伺いしたいのですが、宜しいでしょうか? 」
 極力遠慮がちに聞こえる声を作って、リリスはロードマック卿に話しかけた。
「何でしょうか? 」
「わたくし考古学は不勉強ですので、調査されていたUCLのダラス教授にもお話をお伺いしようと、昨日面会を願ったのですが……」
 言葉を濁したリリスに相手は頷いた。
「ああ、教授が亡くなられたという事は私も聞き及んでいます」
 今朝ロンドン警視庁のブラウン警部に確認した時点では、教授の遺体はまだ発見されていなかった。つまり死亡情報は出回っていないはずだ。だがこれはロードマック卿の失言ではなく、明らかにリリスの言葉を先回りした言い方なのだろう。
「ミイラも行方不明になっていると聞いたのですが、こちらに無事に届いていたのでとても安心しましたわ」
 リリスは再びかまをかける。ロードマックはそれに極自然な笑顔で答えを返した。
「ダラス教授はきっと何か予感めいた事を感じられたのでしょうな。予定より早く移動を行って下さいましたので、助手や他の方にはまだ移動の話も伝わっていないのかも知れませんね」
 また先手を打ってきたか、とリリスは心の中で苦笑する。助手が知らなかったという話は次に出すつもりだった。どうやら、これは予想以上の大物を釣り上げてしまったようだ。リリスは相槌を打ちながら、次の戦法を考える。
「ところで今このミイラが手にしている杖は、一緒に埋葬されていた物でしょうか? 」
 ロードマックは全く表情を変えなかったが、ほんの一瞬だけ息を止めたのをリリスは見逃さなかった。
「そのようです。この錫杖には価値が無いので、話題になりませんでしたが」
「なるほど。副葬品が無いというのはそういう意味でしたのね。大きな物なのにと、私のような素人は思ってしまいますわ」
 リリスは無邪気な口調で言いながら、取材らしくメモを取る。
「有難うございました。とても勉強になりました」
 メモをしまい礼を述べる。もっと突っ込んでみたい気持ちもあったのだが、ここで必要以上に粘って怪しまれては元も子もない。館内にいるはずのケインたちにも負担を掛けたくはないし、何より全く無関係なグリンウッドが一緒にいる時には無理は出来ない。
「いや、私も専門家ではないのでね。大して深い話も出来ませんで」
 ロードマック卿も愛想笑いは崩さないままだ。
「公開後、是非また個人的に観覧させて頂きますわ」
 愛想の良い笑顔でそう言ったリリスにロードマック卿は答える。
「その時はお呼び頂ければ、私がご案内させて頂きますよ」
 これは社交辞令なのか先の質問に対しての挑発なのか。少し考えてリリスは「それは光栄ですわ。有難うございます」と極無難な言葉で礼を述べた。前に差し出された男の手の中指で、何かが光った。リリスは握手に応じながら、獅子顔のエジプト女神の指輪を記憶に刻み込んだ。

 三階の展示室に人の姿がないのを確かめて、ケインは『霊魂君』を起動して周囲を探った。ヨンヨンという奇妙な音が館内に反響している。幸い他に見学者がいないので、この博物館のスタッフにさえ文句を言われなければ問題はなさそうだ。しかしリーファスとしては気が気ではない。
「ああ、やっぱりなぁ。特別展示室に幽体反応があるよ。でも妙だな」
「何が妙なの? 」
 あなたの『霊魂君』よりも妙な物があるのか?という言葉をぐっと飲み込んでリーファスが夫に尋ねる。
「人間の幽体には間違いないんだけど……反応が弱いんだよ。幽体がやたら小さい、と言えば良いのかな? 」
「扉越しだからとか距離のせいじゃないわよね? 」
「うん、最初は俺もそう思ったんだけど。ここまで距離が近いと普通もっとはっきりモニターに形が映るはずなんだよ」
 リーファスに機器についたモニターを見せてケインは言う。彼女にはあまり違いは分からないのだが、開発者がそう言っているのだからまあ間違いはないだろうとは思う。

 展示品の大きな花瓶の向こうに見える「特別展示室」の扉。恐らく、今あの中にはリリスがいる。幽体が微弱なら危険はないだろうが、どうにも気になる。
 リーファスは服の中にしまいこんでいた銀のタリスマンを表に出し、両手で握りしめる。意識を集中して再びハイヤーセルフとの対話に入り、展示室の中を霊視してみる事にした。ケインは『霊魂君』のスイッチを切り、妻の集中の邪魔にならない場所で再びバッグにそれを戻した。

 白き光に先導されリーファスの意識は扉の中へと入っていく。一瞬リリスの姿が見えた気がするが、彼女の意識は横たわるガラスケースへと導かれていった。『これは行方不明のミイラなの? 』と問うてみたが、ハイヤーセルフはそれには答えてはくれなかった。意識を更に集中すると、ミイラの中に消えゆこうとする魂の欠片が見つかった。
『貴方は誰? 』
 問いかけるリーファスにほとんど聞き取れないの微弱な『声』が答える。リーファスは尚も問う。
『何があったのですか?』
 魂の主は答えようとしたのだろうが、反応はどんどん希薄になり、リーファスに理解出来たのは、ほんの一握りの情報だけだった。

 そこで彼女は集中を解いて、深いため息をつく。
「何て事かしら! 」
 何があったのか?と問たげな夫の顔を見て、リーファスは声に出さずに「後で話すわ」と付け加える。ちょうど奥の通路から彼ら二人の方に向けて、一人の黒人男性が近づいてくるのが見えたせいだ。その巨漢の男は大股でこちらに一直線に向かってきたが、怒っているような表情でも無いし、特に早足な訳でも無い。だが、どうにも友好的な存在には到底思えないような強面の男性である。
 リーファスは握りしめたままだったタリスマンを急いで服の中へと戻した。

 大柄の男性は少々胡散臭げな表情で「May I help you? 」と二人に話しかけて来た。
「ああ、いえ。どうかお構いなく。特別展示室はいつから見学出来るんですか? 」
 咄嗟にケインが相手にそう尋ねると、男はちらりと奥の扉の方を見やる。
「そうですねぇ。明日か明後日だと思いますよ」
 彼は抑揚のあまりない声で答えた。身の丈6.5フィート程(2m近く)ありそうな大柄で筋肉質の黒人男性に、リーファスはかなり及び腰になっていたため会話はケインが行うしかない。
「そうですか。では、明日以降にまた来る事にします」
「何かお困りの事があれば案内所にどうぞ」
 やや慇懃な口調でそう言いながら男は二人の顔を見た後、再び大股で歩き、そのまま特別展示室の前に立った。どうやら彼はここのガードマン……というよりは、むしろ用心棒というような存在なのだろう。英国貴族の私設博物館に、こんな強面の黒人男性が雇われている事には何やら違和感がある。しかし、違和感があろうが無かろうが、彼がここに立っているという事実には変わりない。

 極小さい声でケインがリーファスに言った。
「そろそろ出ようか。あれに怪しまれるとちょっと対応に困るし」
「あれって言わないの。『あの人』でしょう? 」
 一応そう言ったものの、ケインやリーファスと並ぶと同種の生物とはとても思えないような作りの巨漢の男ではあった。あの男性にリーファスの霊視の様子を見られた、もしくはケインの機器の音を聞きつけられたという可能性もあるので、あまり長居しているのは危険かもしれない。

 二人は展示物を普通に見学しながらゆっくりと三階から二階へと回った後、ロビーへと出る。ちょうどリリスとグリンウッドが展示室を出たのとほぼ同じタイミングで二人も博物館から出て行く事になった。
わざとらしく「特別展示が見れなくて残念だ」「また今度ゆっくり来よう」などと一般客を装った会話をしていたが、果たしてあの大男や受付嬢に怪しまれずに済んだのだろうか。

 二人は前後左右に注意を傾けながらバス通りまで出て、拠点へ一旦戻る事にした。途中ケインはリーファスが霊視した物について聞いてみたのだが、気を削がれたのか、彼女は「皆が集まってから話す」と言ってそれ以上その話はしなかった。


 ダーウォード・ストリート近辺で捜査を行っていたゲーリーは、先の『105』と書かれた扉の酒場について周辺の店などで幾つかの情報を入手していた。昨夜の推測の通りドイツ系移民労働者などにワインやビールを出している店らしい。「一見客がいない訳でも無いが、ほぼ常連のようだ」と、近所の食品店の店主は教えてくれた。今日のゲーリーは普段とは違い労務者風の服装をしており、コックニー訛りで喋っていた。
 見慣れない顔だが、仕事でも探して流れてきたのだろうと相手は勝手に解釈してくれているようだった。当のゲーリーはうっかりすると普段使っている容認発音英語が出てしまいそうなので、極力無駄話を極力避けながらの情報収集ではあったのだが。 ともあれ今の所は何とか怪しまれる事もなく無難に調査を進めていた。

 どこかの教会から鐘の音が響いてくる。午後5時だ。
 それを合図にゲーリーは先の『105』の扉の前へと向かった。開店には早いかも知れないが、他の客があまりいない方が都合が良い。そのため事前に行ったコメットとの打ち合わせでは「5時過ぎに入り何事もなければ7時までには店外へ出る」という約束になっている。

 ドイツ語を解さないコメットにはよく分からなかったのだが、扉の横には木の板には「hundertundfünf Diese Bar ist eine Mitgliedschaft-System.(105 この酒場は会員制です)」と書かれていた。一瞬躊躇するが、まさかここで引き返す訳にもいくまい。ゲーリーは思い切って扉に手を掛けた。鍵は掛かっていない。営業中かどうかまではここからでは分からないが、とにかく入ってみることにした。

 店内を見回すと、木製カウンターに中年の女性が一人で立っていた。
「おや、見ない顔だねぇ? 」
 胡散臭げに自分を見る彼女にゲーリーは答えた。
「友達からここは"すげぇ店だ"って聞いたんでな。紹介なしじゃ駄目なのか? 」
 コックニー訛りの英語にややドイツ語の言い回しを混ぜてそう言うと、女は鼻先で笑って「良いよ、お入り」と答えた。
 カウンター席に座ると「何にする?」と聞かれた。
「Hookを」
 ニヤリと笑って言うゲーリーに、女は意味ありげに笑い返した。
「あいよ。ところで、あんたの友達は何て名だい? 」
「ジャックの連れのハインツ(ハインリヒの略名)さ」
 ゲーリーの返答を聞くと女はカウンターに一旦入り、ややあってグラスワインを手に戻ってくる。そしてグラスの横にからんと真鍮製の鍵を一つ置いた。女は顎で店の最奥にある扉を指す。
「階段はあっちだよ」
 扉には『staff only(関係者以外立ち入り禁止)』と書かれている。恐らく鍵はこの扉の物なのだろう。
「Danke.」
 ドイツ語で礼を言いテーブルに数枚のコインを置いたゲーリーは奥の扉に向かった。

 ゲーリーと分かれた後、コメットは周辺でブローカーに関しての調査を行っていた。しかしあまり収穫らしき物はなかった。数人のブローカーと接触してみたのだが、分かったのはヘンリー・スタインもしくはハインリッヒ・シュタインは先の『105』という酒場で取引をしているらしいという事を確認出来たくらいだった。
「ったく、外見で人を判断するのは良くないよ」
 コメットは思わず愚痴を漏らす。いくら服装を労務者風にしてみたところで見た目十代半ばに見える彼である。話しかけた相手に『浮浪児』と間違われて、「あっちへ行け」と無下に追い払われた。仕方ないので相手の腕をねじり上げて、脅迫めいた尋問を今日だけで既に数回行う羽目になっていた。

 そろそろゲーリーが酒場へ向う時刻だ。情報収集での収穫は芳しくなかったが、店の裏手に移動してその周辺での調査に切り替えて待機しておかなければならない。
 店の裏口に近い路地に差し掛かった時、彼の爪先で何かがカチンという音を立てた。普段なら気にも止めない小さな音と感触だが、その時のコメットは何故かそれが気になり足元を見る。金属製の輪に革紐がついている。モノクル(片眼鏡)のフレームのようだ。レンズは割れたのだろうか、そこについていない。片眼鏡は基本的に上流階級の人間が使う物だ。こんなうらぶれた路地に何故?という疑問が湧き上がる。盗品という可能性もあるが……好奇心を刺激されたコメットは屈んで拾い上げた。

 革紐の先に幾つかの小さな瑪瑙のビーズが付いている。これには見覚えがあった。行方不明になったゴーストハンターのアーサー・ランドンの片眼鏡だ。
「いやだな」
 コメットは顰めっ面で呟く。こういう時の嫌な予感は得てして当たる事が多い。だが、このまま放置する訳にはいかない。片眼鏡のフレームを両手に包むと、彼は意識を集中させた。
「ああ、だから……もう……」
 しばらく意識を集中させた後。コメットは再び呟く。予想通り、見たくない物を見てしまった。行き場のない感情を押さえ込みながら、彼はフレームを少しだけ握りしめた。
「霊感なんて物、無きゃ良かったのかな」
 そう呟いて長い息を吐き出す。
 そして彼はぐいっと勢いをつけて顔を上げる。酒場の二階にある窓が彼の目に映っていた。

 ゲーリーは酒場の二階にある陶器のプレートのついた扉の部屋にいた。目の前には典型のゲルマン系に見える白人男性。ハインリッヒ・シュタイン、英語名ヘンリー・スタインである。ただし彼の手には銃が握られており、銃口は真っ直ぐにゲーリーに向けられているという状態だ。
「おまえ、何故オレを知っている」
 やや片言の英語で男はゲーリーに問う。
「だから、アーサー・ランドンの知り合いだと言ったはずだ」
「嘘だ」
 先程からゲーリーはドイツ語で喋り、相手は不慣れな英語を使うという訳の分からない状態になっている。恐らく相手は亡命者なのだろう。ゲーリーがドイツ語を使ったので、本国からの追手かスパイだと思われたようだ。しかし英語での長い言い回しは全く伝わらないため、やむなくゲーリーはドイツ語のままなのである。相手が英語なのは、ドイツ語での方言で素性が分かる事を恐れているのかも知れない。
「全く面倒臭い男だな。俺はイギリス人で、おまえと取引したくて来たって、さっきから言ってるだろう? 」
「イギリス人なら英語で話せ」
「さっき英語でそう言ったのに、おまえは理解出来なかったじゃないか」
 埒が明かない。
(こんなややこしい相手とよくアーサーは取引する気になったな)
 ゲーリーは正直アーサー・ランドンの根気に感心していた。とにかく銃だけでも降ろして貰えないかと思い、ゲーリーはあれこれ話しかけてみるのだが警戒が解ける様子は今のところはないようだった。

 その時、視界に見慣れた姿が見えた。ちょうどハインリッヒ・シュタインの背後にある窓の外だ。どうやって現れたのかは分からないが、少年、いや少年に見える小柄な男コメット・スターだ。コメットは思い切り腕を振り上げたかと思うと、銃底で窓を叩き割る。がちゃんという音で振り返ったゲルマン男性が見たのは、コメットの手にした45口径の銃口だ。次の瞬間、それはぐりっ音がする程の強さで額に押し当てられていた。
「銃を捨てろ」
 コメットが使っているのは、いわゆる容認発音英語だが意味は伝わったらしい。ハインリッヒ・シュタインはすぐに銃を床に投げた。
「二、三聞きたい事がある。答えない気なら、二度と喋れなくなる」
 いつもとあまり変わらないようでいて、語調が微妙に荒く声も数段低い。ゲーリーにもコメットが怒っている事だけは分かった。
「あー、ヘル・シュタイン?この少年は見境のない獣みたいな奴だ。このまま地獄へ落とされたくないなら、素直に質問に答えてくれ」
 ゲーリーがドイツ語でそう言うと、シュタインは青ざめた顔で頷いた。
「何を言ったのさ? 」
 ドイツ語が分からないコメットが尋ねる。こちらを見る目つきまでが、いつもより鋭い。
「おまえが言った事を意訳しただけだ」
「そう」
 コメットは再びシュタインを見た。
「アーサー・ランドンを殺したのはおまえか? 」
 ゲーリーは思わずコメットを見た後、再びシュタインを見る。そしてコメットの怒りの理由はそれだったか、と納得する。
「……アーサー・ランドンを殺したのか? 」
 やや間を置いて、ゲーリーがドイツ語で尋ねる。
「No!オレじゃない!オレは知らない。あの男だ、大男がやったんだ!! 」
 ドイツ語と片言のコックニーが混ざった言葉でシュタインは叫ぶように言った。
「大男とは? 」
 ゲーリーが聞き直す。ほぼ全文早口のドイツ語でシュタインは答えた。ややヘッセン訛りがあるようだ。
「でかい黒人だ。売品を取り戻すからランドンを呼べと言われた。オレは脅されたんだ! 」
 ゲーリーは少し考えてコメットにこう伝えた。
「アーサーに売った物を取り戻すよう、黒人の大男に脅された。自分は呼び出しただけだ、と言っている」
 コメットの眉間に皺が刻まれる。これ以上ない程に不機嫌な表情で彼は言った。
「それで? 」
 「それで」と聞かれても、ゲーリーも困る。仕方なく更にシュタインに質問を続けた。
「ヘル・シュタイン。君が売った品はどうなった?その男はどこから来た?こいつの怒りが爆発する前に話してくれよ」
「あの黒人が持って行った。どこから来たかは知らない。本当にオレはランドンを呼べと言われただけだ」
 ゲーリーは腕組みして考えこむ。
「なんだって? 」
 相変わらず不機嫌なコメットが問う。
「その黒人が売品を持ち去ったらしい。だが、どこから来たのかは分からないそうだ」
「じゃあ、質問を変えて。売った物は一体何だ?って」
 コメットは英語がほぼ伝わっていない事は分かっていたので、ゲーリーに通訳を頼む。ゲーリーが言葉を選んで問うとシュタインは答えた。
「ダラスが見つけた、長い杖みたいな物だった」
「杖みたいな物で、ダラス教授が発見した遺物らしい」
 そこまで聞くとコメットはシュタインの後頭部を銃底で殴り昏倒させた。そして、ぽつりと呟く。
「そんな物のために、アーサーは殺されたっていうのか」
「相手にしてみれば殺してでも奪わなければならない物だったんじゃないのか? 」
 シュタインが気絶しただけだという事を確認しながら言うゲーリーに、コメットは語気を荒らげて言い返した。
「人を殺してまで奪わなきゃならない物って、一体何なんだよ!? 」
「いや、俺に聞かれても分かる訳ないから。おまえは探偵なんだし、少し頭冷やしてじっくり考えてくれ」
 そう言われてコメットは口を噤む。
「分かった。ちょっと頭冷やしてから……帰る」
 コメットは先程割った窓枠を取り外した。
「窓から出るのか? 」
「……酒場には入るなって言われたから」
 不貞腐れたような口調だがこれはゲーリーに怒っている訳ではなく、まだ感情の整理がつかないだけなのだろう。ゲーリーは懐中時計を出して時刻を確認する。午後六時を回った所だ。
「コメット、おまえの乱入予定は七時以降じゃなかったか? 」
 既に窓から外に出ていたコメットが答える。
「危ない所を助けたんだから、結果オーライだろ? 」
 そう言ってひらりと身を翻し、屋根伝いに降りていくコメットを見ながらゲーリーは呟く。
「それはそうだが。おまえがリリスの事を"無鉄砲"と言うのはどうかと思うぞ」

 窓の弁償と情報量を兼ねて幾何かのコインと階段部屋の鍵をシュタインの部屋にあるテーブルに置く。そして階下の酒場へと戻る事にする。
 店は既に常連でかなりの席が埋まり、賑やかな音楽が掛かっていた。コメットが窓を割った音も聞こえなかったようだ。女将が笑顔でこちらを見たのでゲーリーも少し唇の端を持ち上げて見せ、そのまま店を後にした。

 一旦拠点に戻り調査結果を報告せねばならない。アーサー・ランドン死亡の根拠はコメットにしか分からないので、そこは報告を任せるしかない。
 しかし黒人男性が持ち去った遺物は何だったのか。コメットも言ったがアーサー・ランドンの命を奪う程の物だったのか。ゲーリーは推理が得意という訳でもないが、ゴーストハンターという仕事に就いてから、謎を見つける度にそういう事を考えるようになっていた。

 風が出てきた。着慣れないジャケットの襟を立て、彼は拠点へと急ぐ事にした。

nyan
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