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水原爽が手を上げてくれたから。
そのおかげなんだと、ひなたは思う。転校する度に、一番苦労するのは勉強の範囲がズレる事だ。リラックスしたクラスの空気もあってか緊張せず授業を聞けたが、やはり勉強が不得意なひなたには最大の関門だった。
隣の席の金木良太が助けてくれなければ、チンプンカンプンも良い所だった。金木は優等生タイプの眼鏡男子で口数は少ないが、発言は的確で。前に座る野原彩子は、ちょくちょくひなたの世話を焼いてくれている。今までこんな経験が無かっただけに、ひなたは困惑する。
だって、ひなたはクラスメートと交わす言葉なんて、一言、二言の世界だった。後は一方的な陰口だったのを憶えている。
────宗方はキモチワルイ
────何考えているかわからないよね
────ドンクサイ、ジャマ。
────目障り。
────ねぇ知ってる? アイツがいると怪奇現象がおきるの?
────ボヤの話?
────あいつがやったみたいだよ
────口で言えばいいのに、陰湿。
────消えればいいのに。いなくなれば清々するのに。
キエテクレレバイイノニ。キエテクレタラ。キエテクレタラ。
声はひなたに聞こえないようにしているようで、全て聞こえていて。感情を抑えきれなくて。彼らの言うところの怪奇現象をおこすその前に、ひなたは逃げ出すのが常だった。
「宗方さん?」
声をかけられて、はっと我に返る。授業が終わって放心状態だったようだ。心配そうに水原爽が立っていた。
「えっと? 水原君?」
「爽でいいよ。俺も”ひなた”って呼ぶから」
笑む。優しい微笑、という表現が適格か。
「え? え? えーーーーーーー?」
「おい、爽! 宗方さんが困ってるだろ!」
「というか、お前がそこまで執着するの珍しいな。まぁ確かに、人見知りの宗方さんにはそれぐらいで丁度いいかもしれないけど、さ」
「なんか妬けるよねぇ」
と野原彩子が苦笑している。
「そういう話しはすぐ、女子が混ざってくるよなぁ」
「なによ!」
「執着かぁ、そうかも」
「へ?」
声を上げたのはひなただった。爽を見る。満面の笑顔でひなたを見ている。
「爽、がっつくな。嫌われるゾ」
金木涼太が真面目な顔で忠告するのがおかしかった。
「水原君みたいな人にならがっつかれてもいいけど、ね」
「俺らは」
「論外!」
「テメー!」
そんな喧騒の中、爽はひなたの手を取る。
「ひなたはお弁当?」
首を横に振る。
「食堂を案内するよ。一緒に食べよう?」
それはあまりに鮮やかに、体を引き寄せられて。
「あ、水原君!」
「宗方さん!」
水原爽はまるでイタズラをした子どものようにニコニコしていて。
「行こう」
軽くダッシュする。ひなたは転びそうになりながら、爽についていくのに必死になる。手は握られたまま────。
「なかなか美味しいでしょ?」
爽がニッと笑って言う。学生食堂で、ひなたはうどんを、爽はラーメンをすすりながら。
向い合って食べるのが、ひなたには何とも気恥ずかしいものがあった。だいたい、異性と一緒にご飯を食べるという経験が無い。人生初と言ってもいい。頭はパニック、混乱をきたしていたが、不思議と能力の暴走は無い。その代わり、心臓の鼓動が止まらない。
(どうして?)
自分の体のことながら、分からなくなる。帰ったら父と母に相談すべきかもしれない。今のひなたには【異常】だと感じてしまう。暴走が無いのはそれだけで感謝であるのだが。オカシイ。違和感を感じながら。定期的なメンテナスが必要な自分の体を呪いながら────。
爽を見る。美味しそうにラーメンをすすっていた。
爽はひなたの事が分からない。
だから、そんなん風に接してくれる。
ひなたを、ただの転校生と思ってくれているから。
バケモノなのに。私はバケモノなのに。そんな想いばかりがよぎる。きっと水原爽は、ひなたの正体を知ったら幻滅────恐怖する。こんな風には接してくれない。そう思うと、それだけで寂しくなる。
「────た、ひなた?」
ずっと声をかけられていたらしい。思わず、体を硬くする。でも爽は構わず、ひなたを見やる。
「食べ方が可愛い。小動物みたいだ」
「へ?」
リアクションに困る。そう言われても猫舌なのだ。ちょっとずつしか食べられないのだが、遅いと怒られるのではなく、愛玩されるとは思ってもみなかった。
「いいよ、ゆっくり食べて」
「あ、うん。ごめんなさい」
「何で?」
爽はきょとんと首を傾げる。
「待たせてしまって。遅くて────」
「ひなたは固くなりすぎ」
爽は笑った。え? とひなたは爽を見る。
「食べている宗方ひなたさんを見られるでしょ? 何より役得だし」
「……恥ずかしい。私を見ても、何も得は無いよ?」
「まぁ他の女子のは見ないね」
「え?」
それは見世物という事?
「ひなたの表情をたくさん見たい、ってのはダメ?」
さらに笑顔で。ひなたは俯く。この人はどうして、こうも簡単に壁を越えられるんだろう? そんな事を言われた事がなかったので、ひなたはどうしていいか分からない。
「食べたら、学校の中を案内するよ」
と爽は小さく笑んで、じっとひなたを見ては微笑む。
「……食べにくい」
ひなたが漏らした言葉に、爽はさらにニッと笑った。
「食べさせてあげようか?」
「け、結構ですっ!」
ひなたの耐久力は崩壊寸前だった。爽はニコニコ笑っている。ひなたも少し笑った。笑うなんていつ以来だろう? そんな事を思いながら。
爽はひなたの手を引く。
「あの水原君?」
「爽でいいって言ったけど?」
「いや、いきなり呼び捨てというのは……」
「俺、ひなたを呼び捨てにしてるけど、変えないよ?」
「あ、それはいいんだけど、あの────」
「なに?」
「学校の中を案内してくれるのは嬉しいけど、その手を離してくれると────」
「なんで?」
「あの、ちょっと恥ずかしくて」
「でも、初めての学校で迷子になっても困るでしょ?」
「ま、迷子って、私はそんな迷子になんか────」
「ならない?」
「なら────」
そういえば実験室で、よく研究室を間違えていた事を思い出す。その度に男の子が私の手を引いて、案内してくれた。あの時間だけは幸せだった。あの子は何の予備知識もなく接してくれたから。今の水原爽のように。
その少年をひなたは暴走して、焼いてしまった。
焼いてしまった────記憶が繋がる。ひなたは、爽の手首を見る。手首から見えた爛れた痕。
保健室、体育館、視聴覚室、家庭科室、職員室、そして図書室と案内してくれる水原爽を見ながら。
何の気なしに、爽が制服のシャツを少し捲った。
見えた、深く焼きついた痕が。
(ウソ?)
それは間違いなく、ひなたが傷つけた痕で。あの少年と水原爽が重なって。焼かれてなお、苦悶の顔を浮かべながら、それでも笑顔を浮かべていたあの少年が頭から離れなくて。
「ごめんなさい────」
口を抑える。感情が制御できない。どうしたら? どうしたら? どうしたら? このままじゃまた爽を焼いてしまう。また傷つけてしまう。
ひなたは、衝動的に逃げ出していた。
やっと見つけた居場所を、壊したのは過去のひなた自身。
泣きたい。泣けない。泣きたい。
(なんで?)
無音なのにガラガラと崩れる音を感じた。
もともと、ひなたには居場所なんか無い。ひなたは距離を置く。それを今まで繰り返してきた。これだけ心が揺れているのに、今のところ発火能力は自制の範囲内。それに少し驚く。
だが、ため息は止まらない。
居場所を見つけた気がしたのに。あてもなく学校の中を歩く。ただ、当たり前にみんなと話しがしたいのに。その勇気を少し貰ったのに。
今日一日の事を思い出して、ひなたは微笑みが浮かんでくる。なんでだろう、外から来た人間に対して暖かいのは、やっぱり水原爽という男の子を中心に回っている気がする。でも─────。
「見つけたッ」
息を切らしながら、爽が駆けてきた。誰もいない体育館で、爽の足音だけがやけに響いた。
「何で逃げるの? 俺が何かした?」
「何もしていないけど」
「だったら何で?」
「来たら、ダメ─────」
「だから、なんで?」
爽は駆けるのを緩めて、歩む。でもその歩みは止めない。
「思い出したから」
「え?」
「へ?」
二人の反応が微妙に違う。違うの? とひなたは爽を見る。爽は満面の笑顔でひなたを見る。
「違わない」
爽が言った。ひなたは唾を飲み込む。
「君と過去に会ってるという事実なら違わない。俺は君を知っている」
ひなたは後ずさる。
「ずっと会いたかった、から」
爽から漏れた言葉は、まったく予想もしていない言葉だった。
「もしかして、これを気にしてるの?」
と腕を捲る。爛れた焼け跡が肘まで、多分それは全身にわたっているはずだ。ひな
たは思わず目を逸らす。
「私が怖くないの?」
知っているはずだ。私が水原爽を焼いた事を。知っているはずだ。私が遺伝子特化型サンプルである事を。知っているはずだ、私が実験室を潰した事を。私はそれができる【バケモノ】だという事を─────。
爽の手が伸びる。首へ。
窒息させてくれたらいい。爽にはその権利がある。彼に与えた苦しみ。そして未だ制御できない自分の体。また次に誰かを焼く事になるんだろうか? 自分の意識とは関係なく。もしそうなら?─────怖い、怖すぎる。
「これでいい」
ニッと爽が笑った。首には小さな青い石であしらったネックレス。銀鎖に青い石の礫が妙に際立った。
「へ?」
「忘れてないか? 俺も遺伝子特化型サンプルだってこと? 実験室にいたんだぞ、俺?」
笑みを絶やさずに、言葉を続ける。
「火傷ならたいした事ない。自身の能力をうまく使えなかった授業料だと思ってる。何より、ひなたの消息を失った【今まで】の方が何より辛かった」
この人は何を? ナニを?
「ずっと探していたって事だよ」
そう爽は言う。混乱する。言っている意味が分からない。そんなひなたに向けて、爽は優しく手を延ばした。