第一歩

左手に持った母親の財布が、八月の暑さでじっとりと湿ってゆく。
中学二年の盆休み、俺は兵庫県の田舎町にいた。
何十年前だかに亡くなった親戚の法事で、一家でじいちゃんちに泊まりに来ている。
そして今は親戚一同で食べるすき焼きの為の肉を買いに、一人でサハラ状態の田舎道を、香ばしい汗を流しながらおつかい中だ。
結構な時間、田んぼと民家を道の両サイドに交互に眺めながら歩いている。
本当にこの先に肉屋があるのか不安になりちょっと泣きそうになってきたころ、左前方に学校がみえた。
グラウンドからは体育会系少女特有のトーンの声が聞こえる。
近づいて金網越しに目をやると、同い年ぐらいだろうか、どうやら女子サッカーの試合が行われているようだ。
サッカー好きの俺は金網の前に腕組みをして陣取り、いつもの玄人目線で試合に注視する。
それにしてもこの暑さだ。
おつかいに出るだけで倒れそうなのに、ピッチを走り回るなんて。
俺、観戦派で良かった。
プレーなんてしたらサーモグラフィーが真っ赤を通り越して紫になっちゃう、パープル男爵とか呼ばれちゃう、シルクハット買わなきゃ、なんて思っていたところ、一人だけ運動量が桁違いの選手がいることに気付く。
その10番は敵ボールホルダーに最初にプレスをかけ、味方ボールのスローインには真っ先にボールを貰いにいき、その合間にバテ気味の仲間の肩を笑顔で叩いて元気づけていた。
豪快なドリブル、派手なシュートこそないが、二人・三人に囲まれてもボールを失うことはない。
そしてキープしながらも目線は味方を探し、最も相手の嫌がる場所へ的確に繋いだ。
それをピッチ中走り回りながら何度も何度も繰り返す。
所狭しと動き回りながら、長短の素晴らしいパスを左足から出し続ける。
司令塔という言葉がピッタリだ。
「ロスタイム入ったぞー、あと一点で逆転だぞ!」
監督らしき人物から声が飛ぶ。
その刹那、再び10番にボールが渡る。
場所はピッチ中央。
また三人掛りの激しいプレスを受けるが、足裏と上半身を巧みに使い、フェイントを交えながらキープ。
今度は今までと違い、周りの味方を探さずに相手ゴール前を凝視している。
ロングキープを続けていた甲斐あって、一瞬だけマークが外れる。
待ちに待ったタイミングを10番は見逃さない。
インステップで強めに蹴り出されたボールは相手ディフェンスの頭を超え、鋭く密集地帯を飛び出す。
その瞬間、時間が止まった。
ボールは軌道に虹を描きながら(後から思い起こしても、確かに虹は見えた)速く、しかし柔らかに。
ゴール前に走り込んだフォワードの足元に収まるよう、必要なだけのスピードで、必要なだけの高さで、そして充分な優しさで。
何年も前から予め決められていたかのように、フォワードの元へとボールが吸い込まれてゆく。
俺は瞬きも暑さも忘れて立ち尽くした。
完璧なパス、なんて言葉じゃ足りない。
正直少し震えていた。
サッカー観がぐらつきそうなパスだった。
まさかピッチに虹をかけるなんて……。
そしてゴールが決まった直後、審判の笛が鳴る。
はしゃぐチームメイト達に頭を叩かれ、照れながら祝福される彼女は試合中よりずっと幼く見えた。
自己主張もあまりしなさそうな、なんていうか普通の女子中学生だった。
別人のような振る舞いにちょっと驚きつつ見ていたら
「ごほん!」
監督らしき男の大きな咳払いが聞こえた。
さっきから気にされていたんだろう。
中学生ながら変質者として逮捕され世間を賑わすのは本意ではないので、早々に退散することにした。
まだちょっと震える体をなだめつつじいちゃんちに戻ると、本日二度目の衝撃が走った。
肉、買い忘れちゃった。


まさかあんなことになるなんて。

寝太郎
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寝太郎

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