本編
「はぁ……」
深夜、自宅への帰路の最中(さなか)。赤羽 學は深い溜め息をついた。
それは、もう何度目の「これで最後」だか数えるのも億劫となっていたからだ。
ある日、學は会社をクビになった。原因は業績不振。元々、かなり背伸びをして希望した大手…に一番繋がりのある中小へと転がり込むようにして入ったのだ。入れたのは人手が足りなかったことが理由であろう。元より、彼がその会社でやっていけるはずもなかったのだろうから、当然と言えば当然の結果である。
ねじ込まれた部署は殺伐とした環境。あまりの多忙さに人間関係が破綻するほど粗悪な労働環境で奴隷のように飼われ、擦り切れるまで扱き使われた。
そんな中、会社を辞められる〝チャンス〟を得た。根が真面目だった學はそれの到来に激しく頭を悩ませて、そしてそれを手にしたのだ。
最悪の職場だった。だから逃げた。それは戦術的撤退、崩れかけた自分を立て直す最後の手段だった。
けれども彼には〝受け皿〟が無かった。 故に、彼は探し求めた。温かい癒しのある場所を。
そして見つけたのがあのホステス―――蘭のいる店。
「………」
今日はその帰り。蘭と会った日の夜だ。
初めこそ酒の肴(つまみ)に愚痴を吐きまくっていたが、今ではどうだ。抱擁に似た温もりのある拠り所に少しでも多く居たいと思って金を使う毎日。
駄目だと分かっていながらも、遂には貢ぐようにまでなってしまった。
「はぁぁ………死にてぇ」
蘭を抱いたあの夜からだ。學の日常が加速度的に堕ちていったのは。
手に入れたのは至上の快楽と束の間の安堵。貢いでは安心し、自己嫌悪の闇にまたも沈む。
自分では止められず、ただひたすらに止まるのを待ち続けるのだ。
彼は〝攻撃〟に臆病になった。もう自身を責めることすら出来ない。
だから待つ。今の自分を一切合財変えてしまうような〝好機〟を。
「何か良いこと落ちてないかな…。そこら辺にコロッとさぁ………」
思いがけず出た独り言。星の光一つ差さない夜空を仰ぎ、學は力なく視線を落とした。
―――――その視線の先。
「…………えっ」
彼の見た先には、小さなゴミ捨て場。
片付けられ、すっきりとしたその小さな空間に、白いワンピースを着た少女が横たわっていた。
*――――――――――――――*
「あら、あなただったの」
薄暗く、どことなく妖艶な雰囲気を醸す店内。煙草の煙が充満するそこに一人の女が現れた。
女は自分を指名した客に軽く会釈し、対面ではなく隣へと腰かけた。
今日の相手は、すり寄っていかないと機嫌を取れない人物だからだ。
「久しぶりだねぇ、明菜ちゃん♪」
男はブランデーのロックをカラカラと鳴らす。
青い切れ長の瞳、端正でどこか幼さを感じさせる顔立ちをしたこの人物の名は、鬼龍院 槍。
今日だって相も変わらず、狐のように目を細めて笑顔を象る。
「まだ仕事中よ。蘭ちゃんって呼んでくれるならお相手してあげてもいいけど」
「あははっ。そういう割には君の方から僕にくっついてきたじゃないか。さ、何が飲みたい?」
「あらあら。それ、私が〝高い〟ってこと知ってて言ってるのかしらね」
背後に回る腕。槍は「当然だよ」と呟く。
とても自然に蘭の肩を抱く槍に対し、蘭は口の端に笑みを宿した。
「じゃあ、遠慮なく」
蘭こと、木更津 明菜には夢があった。それは、いつか自分の店を構えること。このホステスという世界で天下を獲ること。今はまだ系列店の、しかもたった一店舗でのトップに過ぎないが、彼女は燃えるような野心でそれを叶えようとしていた。
そのためには金が要る。だから蘭は金を稼ぐために何でもしてきた。
誘惑して金を搾り取る。それが時に売春でも、彼女はいつも上手く立ち回った。それは元から要領がいいのに加え、話し上手だったからだ。
槍も金づるの一人。聞けば彼は御曹司だそうで、大層な金持ちだ。そういった人間がわざわざ金を払いに来てるならば、相手をしない義理は無い。
「ところでさぁ蘭。君、情報屋もやってるんだってね」
槍は空になったグラスを置いて切り出す。
そのグラスに蘭が酒を注ぐ。氷を一つ入れて、混ぜ棒を一度だけかき回した。
「えぇ、そうだけど」
職業柄、蘭は色々な種の人間と触れ合う。だから情報の一つや二つは持っている訳で、蘭は転売が如くそれをしていた。
「人を紹介して欲しいんだ」
そう言葉を発した槍の目は細く、口の端はぬらりと吊り上る。
「どんな人?」
「一人暮らしの人間。なるべく交友関係が薄い奴がいい。自分からは声を上げず、ただひっそりと消耗するだけに生きているような人間を紹介して欲しい」
両腕を広げる彼の表情は愉悦―――いや、恍惚に染まっていた。
まず初めに蘭が感じたのは鳥肌が立つほどの狂気。
しかし、それは自分に向けられたものではないことを知っている。
「―――ふぅん。それなら一人、いい人を教えてあげられそう」
彼女はただ金を稼ぐ。そのためなら、何だってやり通すのだ。
「ちょっと高くていいなら、ね」
*――――――――――――――*
「で? なんだてめぇは」
静かな怒号が狭いボロアパートの一室に響いた。
動揺と冷や汗を隠せない學はただ正座して俯くばかりで、弁解の言葉一つ捻り出せもしないでいた。
學は白いワンピースの少女をゴミ捨て場で拾った。そして、まずは保護するのが優先だ、体も綺麗にしなくちゃ、とか何とか自分に言い訳をしながら家へと連れ込んだ。
その内に彼女――自称、田中|(さん)――が起きてしまって、今に至る。
「ここはどこだよ」
「…我が家です」
「いまなにしようとしてた」
「……脱がせようとしてました」
「しね」
見た目は幼女、中身は強面(こわもて)。不機嫌と物凄い剣幕に學は為す術もない。
「いやあの帰り道にですね、あなたがゴミ捨て場にいたのを見かけまして…」
「は?」
「倒れてたっていうか、捨てられてたっていうか…。ともかくこれは放っておけないな、と…」
「ゆうかいじゃねぇか」
幼女の放つ正論にぐうの音も出ない。どころか、學は激しく現実を叩きつけられる始末。
『〝奴隷〟を手に入れた』と、勝手に期待していたのだ。そんな都合のいいことはなく、ましてやクズ丸出しの魂胆に落胆以上の落ち込みを覚えるのも無理はない。
「…死にたい」
だから自然に出てしまった。独り暮らしの悪い癖が。
「あ?」
反射的に返す田中。あからさまな仏頂面が學を気圧す。対して學も「しまった」と焦るが、もうどうにでもなれと、諦めた。
「…やっと〝好機〟が訪れたと思ったのに、このザマだ。幼女に正座で説教された挙げ句、何も言い返せない」
情けない自分。けど、ここまで何とか頑張ったんだ。いい加減良いことがあってもいいだろう―――なんて、何の関係もない幼女に愚痴ってしまう自分がまた情けなく感じられる。
それでも言葉は出てしまっていて、自分よりはるかに幼いこの存在に甘えてしまう。
「………。おまえ、さっきあたしになにしようとした」
見下ろす幼い視線。沈黙を置いて、田中は声をかけた。
「……〝いたずら〟…しようとしました」
「そうかよ」
田中はおもむろにスカートの裾に手をかけた。
白いワンピースを脱ぎ捨て、透き通る柔肌を大胆に學へと見せつける。下着は着けてなく、學の視線は自然と、凹凸のない小高い丘のような胸に釘付けとなっていた。
幾重にも継ぎ接ぎが走った、平らな胸に。
「なっ………!」
田中が肝臓辺りの継ぎ接ぎを 〝めくる〟。すると、赤黒い血が滑(ぬめ)る銀色の金属部分が顔を覗かせた。
「好機もクソもねぇよ。あたしはメカなんだから」
更にまた、學は視線を落とした。吐き気と混乱に脳内を掻き乱されながら、思わず真っ白になった頭を抱えた。
しかし田中はそれ以上言葉をぶつける訳でもなく、むしろ近付いて、學の頭に小さな手を置いた。
「それでもはなしぐらいなら聞ける。せっかくあえたんだ。聞いてやるよ」
掛けられたのは優しい言葉。口こそ悪いが、温かみを感じる。
あまりに意外なそのたった一言に學は焦り、しかし込み上げるものを感じた。
―――でも。
「…いいんだ」
「なにが」
「きっと田中さんには分からないし、過ぎたことをいつまでも言っててもしょうがない。そんなこと、分かってるんだ」
「だったらウジウジしてんじゃねぇよ」
「好機が訪れるのを待ってる! 来たら走り出せるように、今は準備してるんだ!」
「なにが好機だよ。あまったれてんじゃねぇぞカス」
「他人には分かるはずもない! 本当に色々あったんだ…! 怖いんだよ、もう…ッ!」
傷付くのはもうたくさんだ。人に心を許すとは同時に、裏切られた時のリスクを背負うということだ。だからこそ學は友達というやつに頼らず、蘭に全てを話して肩を預けた。
ホステスになら裏切られても未練はない。…きっと、そのはずだから。
「死ねたら、どんなに楽なことか…ッ!」
紡がれた言葉は響いて消える。
そこへ、議論の終わりを告げるかのように玄関のチャイムが鳴った。
「…客だぞ、むかえてやれよ」
田中は座布団に腰掛ける。諦めたような、ぶっきらぼうな目をしながら。
そこに學は少しの寂しさを感じながら戸惑い、やがて立ち上がって、廊下へと足を運んだ。
「さしだされた手をふりほどいてまで我をとおすんだな。大したげんきだ」
リビングを出る時、田中の呟きが學の背中を小さく刺した。
鍵とU時ロックを外し、半開きにしたドアから現れたのは一人の警官。學とは対照的な雰囲気の好青年だった。
警官は白い手袋をキュッとはめ直して警察手帳を見せる。
「こんにちは。赤羽 學さんですね? 少し、お時間よろしいですか?」
學は一瞬言葉を失う。それはあの幼女、田中のことでだ。
ゴミ捨て場に幼女が倒れていたなんて普通じゃない。それを持ち帰ったのはもっと普通じゃない。
『通報されていた?』『誰かに見られてたのか? 』
學の脳内を思考が様々に廻る。
「ちょっと失礼しますねぇ」
浴室は玄関に近い――上がり込む警官を、學は止めようとした。
その時。
口元を覆う手――、一方にはナイフ。喉元に突き付けられたことが痛覚から伝わる。背中に感じた衝撃は自分の逃げ場がなくなったことを明示した。
「動くな」
ドアがゆっくりと閉まる。廻る視線の先、落ちた警察手帳には、鬼龍院 槍と書かれていた。
「君も運がないなぁ、僕の趣味に巻き込まれるなんて。でも君どうしようもないクソニートなんだってね。よかったじゃないか、君の屑みたいな存在意義が僕のお陰で報われるんだから…!」
帽子の下、鍔に隠れた部分から覗くのは吊り上った口元。くつくつと鳴る喉元が不気味に白い歯を見せさせる。
耳元で囁かれるのは意味不明な主張。だがその勝手な言い様に學は恐れることしか出来ない。
「人をヤるの久しぶりだなぁ…! 何年ぶりだろう、ゾクゾクするよ…!」
この時点で學は気付いていた。男の狙いは田中ではなく、自分であると。そうと分かれば話は早く、忘れかけていた本能が生を渇望する。
とっくに學の思考回路は切り替わっていた―――『田中さんなら俺を助けられる』。
「…あれ?」
静かな廊下ではシャワーの音が響く。それに男が気付かないはずはない。
そこには丁度、シャワーを終えた田中が立っていた。
「―――なにやってんだ、おまえ」
――――――――――槍がナイフを引いた。
拘束が解かれ、足の力が抜ける。抵抗もなく、腰がストンと床にへたりこんだ。
「……っ! …かっ………!」
溢れ出る鮮血。こぼれるのを止めようと両手で塞いだ。
追って痛みが沸き上がる。声が出せない。喉で潰れて声にならない。
槍は走り出していた。玄関ではなく、鉢合わせた田中の方へ。真っ直ぐに、小さなタオルを首にかけた田中へとナイフを突き出す。
「―――っ!」
ナイフがずぶりと突き刺さる。下腹が、刃いっぱいを飲み込んだ。
「どいつもこいつも、人間やめたがりめ」
血が滲むは男の腹。
狂気に満ちた笑顔が凍りつき、凶器を取り落とす。
刺さったのは田中の〝左腕〟。引き抜き、男を蹴り飛ばしてから床に落ちた義手を拾い上げる。
「はッ…何それ、君…」
「おいおいわすれたのか。おまえがあたしをこんなのにしたんだぜ?」
田中が男の腹をまたも強く蹴る。腹の傷口が血を吐き出した。
「こんなところで出会うなんてな。あのときおまえもこうやってあたしをぐちゃぐちゃにしたんだ」
田中の頭にフラッシュバックした光景が浮かぶ。
もう何年前だったか、ある事件で身寄りのなくなった彼女を担当した男――それが鬼龍院 槍。
親戚に引き取らせる手続きを代行する、そんな名目で一時的に預けられた田中。
監禁され、実験台にされた。あらゆる苦痛を与えらえた。
そしてゴミのように捨てられた。
「許されると思うなよ…僕に、こんなことっ…!」
槍の言葉など気にせず、田中は胸板を踏みつける。左腕が変形し、銃型となった。
奇跡だった。何の因果か、死にかけの田中は科学者に拾われた。
いや、医者だったのかもしれない。そんなことは問題でなく、田中は生き返った。失われた臓器等を機械で補って。
「さきのことはきにするな。あたしはやさしいんだ」
そう言って引き金を引く。鉄杭が槍の頭骨を貫通し、対象の即死を確認した。
杭を引き抜いて、田中は學の方を見据えた。
必死に呼吸を整える學。壁に背をもたれ、声にならない音を吐き出す。
「声でないんだろ。のどをかききられてたもんな」
ゆっくりと學へと近づく。學は逃げるように足をもがき、喉を両手で押さえたまま首を振った。
「たおれてたとこを保護してくれてありがとよ。じつはあたしももう、長くないんだ」
田中は心臓辺りの継ぎ接ぎをめくる。すると、機械化した肺に囲まれた物体から半透明の液体が滲んでいる様が目に映った。
「〝電池切れ〟らしい。ふいに意識が飛んでたのはこれだったんだな」
田中はわざとらしく肩を竦めて見せた。
しかしその顔に陰りはなく、『やれやれ』と呆れを宿すのみ。
体の中身を機械に置き換えている田中が 〝電池切れ〟を起こすというのは、生命活動が強制的に止まるということだ。
つまり、死ぬ。
なのに田中は、呆れを含ませて笑っていた。
「いきなりこんなことにまきこんでわるかったな。お礼に、あたしがしぬまでつきあってやる」
田中は銃型に変形した左腕を學へと構える。
「しにたいっていってたな。えらばせてやるよ」
それは待ち続けた學に与えられた〝好機〟。逃げることしか出来なかった彼に与えられた初めての〝自由〟。
泣きそうな目で田中を見つめる學。それを柔らかな瞳で見据える田中。
剥き出しの鉄杭が、學の眉間を指差す。
やがて學は、声にならない声を絞り出した。
「…そうか。それがおまえの―――――」
*――――――――――――――*
明菜は自宅で一人、ワインを嗜んでいた。
人間という奴はつくづく欲に塗れている。だらだら自己満足を貪る者、危険を冒してまで手に入れようとする者。
こいつらは結局、浪費に気付けない。気付いても無視か、見て見ぬフリだ。その場をどうにか誤魔化し、次第に忘れる。
だが明菜は違う。
そんな馬鹿共から零れ出る無駄銭をこつこつと集める。地道な努力が一番の近道であることを彼女は熟知しているのだ。
それを今一度実感した今日。手元に置いた赤ワイン、そして槍に手渡された現金二百万は、勝利の証と言っても過言ではない。
心の不安定な學。あんなのは論外だ。そしてキチガイ御曹司の槍。あれも少し金を持ってるだけの馬鹿に過ぎない。
最も賢いのは、そいつらを手の上で転がす自分である―――そう言い聞かせて、蘭は再びグラスに口をつけた。
と、何か物音がしたような気がして彼女は振り返った。
突然、彼女は背後から襲われる。何者かに口を塞がれ、蘭は真っ白なカーペットに血の様に赤い液体を溢した。
訳も分からぬまま、消えそうな意識が最後に聞いたのは侵入者たちの会話だった―――――。
「うっは! 上玉じゃん、後でマワそうぜ!」
「『全ての証拠は消せ』だとさ。こんな仕事で二百万も貰えるなんてな。ボロい商売だぜ」