「アイリス、何か欲しい物でもあるのか」
立ち止まってショーウィンドウを見ている女性に連れの男性が話しかける。アイリスと呼ばれた女性の視線の先で、青いワンピースと白いエプロンをつけた人形が笑っている。
「このドールハウスと人形ね、私が子供の頃に持っていた物とよく似ているの」
金の髪の女性は、夢から覚めたような表情で答えた。
「子供の頃?君の実家はイギリスなんだよな」
「ええ、だから同じ物ではないと思うのだけれど」
アメリカ合衆国、ペンシルバニア州フィラデルフィア。祖父母があれをどこで買ってきたのかは知らない。だが海を隔てたこの国の街の店先に、子供の頃の彼女が所有していた物と全く同じ品が並んでいる可能性は極めて低い。
あの時壊れたはずのドールハウスは、退院後には彼女の部屋から消え失せていた。その代わりに机の下に置き去りにした本とテーブルランプが、普段ドールハウスを置いていた本棚の一番下の棚に移動していた。
病院に運ばれた時、彼女の体は血まみれだったという。半分は侵入者の男の所謂「返り血」。残りはナイフで切り裂かれた傷による自身の物。発見が早かったため大事には至らなかったが、縫合処置を受けた箇所も複数ある。看護婦は「見える箇所の傷が浅かったのは運が良い」と言っていた。
確かに運が良いのだろう。生きていたのだから。
入院中には警察だと名乗る男性から、幾つか質問を受けた。屋敷に入り込んでいた男がどうなったのか聴いてみたが、あの男が死んでいないということ以外は分からなかった。
意識を失う直前に聞こえた音は、銃声と男の悲鳴だ。子供の手でも銃爪を引くことが出来る小型拳銃。彼女はあの男を撃ったはずだ。至近距離から胸元に向けて。軽傷ではなかっただろう。
祖父の家に戻った後は何事も無かったかのように、平穏な日常が再び繰り返された。 祖父母も使用人たちも、学校の教師も級友たちも何も言わず、何も聞かなかった。
まるで都合の悪い出来事など、何一つ起きなかったかのように。
いつものことだ。どういう類の物であれ、周囲の大人の意に反すれば真実は自分から遠ざけられるのだから。
「知りたいことは自分の手で探す」
そう決めた彼女は数年後、ロンドンの寄宿舎に移った後に幾つかの「知りたかったこと」を突き止めた。
父母の使用人だったマーサはあの後に暇を出され、故郷に帰り結婚しているということ。あの夜侵入した男は金に困った不法入国の東欧人で、母国に送還されたということ。両親が自分を疎んじた理由は「どちらの血筋にも金髪で青い目の人間がいない」ため、母の不貞が疑われたせいだということ。母親が生まれたばかりの自分をベランダから投げ落とそうとして、近所の住人が取り押さえる騒ぎがあったので地下室に移されたのだということ。
そして祖父母は血のつながりさえ疑われた孫にも、ずっと気を遣っていたということ。祖父母が孫の望みを理解出来なかったのは、上手く感情や考えを表に出せない彼女自身にも原因があったのだろう。
一度目を閉じ「過去」という名の亡霊を振り払うと、アイリスはショーウィンドウに背を向けた。
「ん?買わないのか」
連れの言葉に、彼女は極力愛想良く見える笑顔を作って見せた。
「あれはちゃんと家族がいる人のための物でしょう」
男は少し考えるような表情になる。
「じゃあ俺が家族になれば良いんだな」
「ジェフリー、何を言ってるのかさっぱり分からないのだけれど」
怪訝そうなアイリスに、連れの男・ジェフリーは食い下がる。
「だから、俺たちが結婚すればそれで『家族』だろう」
アイリスは黙ったまま数回瞬きをして、再び口を開いた。
「随分と物好きね。全身傷だらけの女と結婚したいと?それとも、もうお忘れかしら? 」
どんなに地味な服装を選んでも、彼女の類稀な容姿は人の目を惹いてしまう。だが恋愛に興味の持てなかったアイリスは執拗に口説く相手には傷跡を見せて、それを理由に相手を遠ざけていた。ジェフリーもそうした一人だった。
「覚えてはいるさ。でも俺は気にしない」
一旦言葉を切ってジェフリーは咳払いを一つした。
「つまり問題無し。家族として、君が気に入ったドールハウスなら幾らでも……とはいかないが、一つくらいプレゼントするぜ」
「No thank you.」
少しばかりの驚きを覚えながら、アイリスは思わず笑っていた。
単純な言葉であっさり古い呪縛を振り払ってしまった目の前の男に。恋人でもない自分に結婚という突拍子もない話を始めた友人に。あれだけの傷跡を見ても態度を変えない、ある意味ふてぶてしく大らかな若いアメリカ人に。
小首を傾けて、彼女は言葉を続けた。
「そうね。ドールハウスの代わりに、ミステリーの新刊を買って下さるなら考えてみようかしら」
いつも通りのつれない返答の後に続いた言葉に、今度はジェフリーの方が驚いたらしい。呆然としている間に通りを先へと歩き出したアイリスを、慌てて追いかける。
店先に飾られた人形たちは新しい主人を待っている。いずれどこかの親がクリスマスや誕生祝いなどで、子供に買い与えることだろう。手にした者が幸せであるならば、人形の家は温かい家庭の幻想を見せてくれるはずだ。
無縁だと思っていた甘やかな夢を、もし自分の手に抱ける日が来るのであれば。それは、あの夜壊れた人形の家の底から転がり落ちた物なのかも知れない。
さながらパンドラの箱に残った希望のように。
アイリスはお伽話のような「くだらない考え」に自嘲しながら、自分の肩に手を回そうとしていたジェフリーの鳩尾に軽く肘を当てた。
――FIN――
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