木製の大きめのテーブルに、白いテーブルクロス。それを囲んで席に着く複数の男女。一人目は物憂げな顔の年配男性、その隣には笑顔の中年女性。続いて虚ろな目の青年。そして年頃の娘とあどけない男の子。
彼らの前に置かれた料理は白い陶器の上に彩り良く盛り付けられており、味も申し分ないはずだ。しかし会話でもしているのか、彼らはそれに目もくれない。やがて食事の時間が終わったのか、一人また一人と部屋を出て行く。
今度は食卓を片付けるために、エプロン姿の女性が登場する。食器を下げて、テーブルクロスを新しい物に取り替える。淀みなく作業を終えると、彼女もまた部屋を出て行く。
日没も近い時刻。灯りをつけていない部屋で、一人の少女が溜息をついた。ヴィクトリア風のドールハウスから一旦取り除いた人形たちを元の位置に戻しながら、ぼんやりと窓に目を向ける。
外は生憎の空模様だ。とは言え、外に用事があるわけでもない。庭に植えられたコトネアスターの実の赤い色は昼間なら魅力的だが、食べられもしない木の実を暗い庭まで見に行く価値がある訳もなく。
この部屋の暖炉には火が入っていない。だが、今日の気温は窓を閉めきっていれば耐えられない程の寒さではなかった。
ここには何の問題もない。
祖父母は午後から町に出かけており、まだ帰宅していないようだ。通いの使用人たちも終業の時間だが、最後まで残っている料理人は少女の食事も用意してくれているはずだ。
そう、問題はないのだ。ただ少しばかり退屈なだけで。
少女は先のドールハウスに視線を向けたが、もう一度それを使う気にはなれなかった。この玩具は祖父母から買い与えられた中では、唯一子供らしさのある物だ。昔気質の彼らは「ある程度の家柄の子女は、召使の扱い方や家のなりたちをドールハウスから学ぶ」と言っていた。
当然だがこれを使うことを良しとするのは与えた祖父母であり、与えられた少女ではない。本音を言ってしまえば、彼女はこれで熱心に遊ぶ気には到底なれなかった。人形たちにさえ用意されている「親」「兄弟姉妹」が、自分に欠落している現実を突きつけられるのは嬉しいことではない。
もっとも祖父母に引き取られるまでは、「家族」という社会の単位の存在もよく知らなかったのだか。
そんな彼女も青い服に白いエプロンの女性の人形だけはお気入りだった。「マーサ」という名前を与えたその人形を、掃除や後片付けという設定で動かすのは何となく楽しかった。
「マーサ」というのは、幼少の頃に世話をしてくれた使用人の名前だ。田舎の農家出身だという彼女はほとんど文字も読めなかったが、働き者で気立ての良い女だった。両親に見捨てられ、地下室に閉じ込められた少女の面倒もよく見てくれた。教会の話、故郷の思い出、買い物先で見たことなどをよく仕事の合間に聞かせてくれた。マーサは母親や姉代わりであり、教師代わりであり、最初の友人でもあった。
「奥様」とマーサが呼ぶ女性が、自分の母親なのだと知ったのは六歳の時だ。ちょうどその頃に家の中でいざこざがあり、少女は「旦那様のご実家」……つまり父方の祖父母の家に引き取られることが決まった。
その日のことは、死ぬまで忘れないだろう。
生まれて初めて屋外に出た日だ。絵でしか見たことのない木や空が目の前にある。無限に広がって見えた空間に呆然とする少女を、祖父の遣いだという男が手を引いて車に乗せた。マーサが車に向かって手を振る姿が小さくなった時、胸が締め付けられる気がした。たぶんそれは「寂しい」「心細い」という気持ち。今思えば、自分が人間らしい感情を得たのは、その瞬間だったような気がする。
元教育者である少女の祖父は「読み書きも出来ない者を孫として人前に出すわけにはいかない」と言った。引き取られた翌日から正しい発音の英語と、文字を教えられた。次の日には聖書を買い与えられた。衣服の着方や食事のマナー、挨拶の仕方など慣れるに従って習うことになった。学校に編入が決まるまでの間は祖父母の他、近くに住む学生も家庭教師役として呼ばれていた。
好奇心の強い少女は最初こそ与えられる物は何でも吸収するが、興味を失うと頭に入らなくなるタイプだ。何度か叱られるうちに、どの程度の理解を示せば大人が満足するのかを覚えて、最低限の効率で期待から外れない方法を選ぶようになった。
近隣の学校への編入が決まり、通い始めると自分が他の子供とは違う環境にいるのだと嫌でも分かった。席を並べた学友たちは無条件に肉親の愛情を得る方法を自然に身につけていたが、それは少女の知らない世界のものだ。彼らが夢中になるような子供らしい遊びも、少女は何一つ知らない。
日々の中で寂寥感に苛まれるたびに、いつもマーサのことを思い出す。今はどうしているだろう。
祖父母は「不要」なことは教えてくれない。彼らは獣のように地下室の奥で息を潜めて生きていた孫娘に、「まともな教育」を施すことにしか興味はないのかも知れない。
少女は長くなった髪をうるさそうに掻きあげて、祖父の言うところの「くだらない考え」を中断する。髪は毎日メイドの娘がリボンで綺麗にまとめてくれるのだが、祖父母が出かけたのを見計らって自分で外してしまった。もう一度結ってもらおうにも、メイドは既に帰ってしまっただろう。
無い物ねだりをしても奇跡なんて起こらない。だから周囲に期待なんてしない。与えられた物に満足出来なくても、自力で打開策が見つからないなら我慢するしかないのだから。
ふと思い立ち、彼女は机の引き出しの奥に仕舞い込んでいた本を取り出した。
『The Lost World』Arthur Conan Doyle
表紙にはそう書かれている。近所に住む学生が読まなくなった古本を幾つか譲ってくれた際に入っていた本だ。空想小説や冒険物語、怪奇小説などに祖父はいい顔をしないが、彼女はこの本がお気に入りだった。
世界のどこかに人類のまだ知らない場所がある。そんなことを想像している時は、虚しさも孤独感も全く感じなくなる。
祖父母に見つかれば小言を貰うだろうが、今日ならば落ち着いて読める。念のために部屋の灯りは消して、ベッドシーツの下にクッションを押し込む。そして卓上灯と本を机の下に持ち込んだ。もしも、まだ館に残っていた使用人や帰宅した祖父母が様子を見に来ても、卓上灯を消してじっとしていれば「眠っている」と勘違いしてくれるはずだ。
しばらくは思う存分空想に耽れる。見たこともない大きな恐竜、広大なアマゾン奥地、人類未踏のジャングル。狭い机の下に潜ったまま、無限に広がりゆく未知の世界で数多の冒険をする自分を思い描いて過ごせる。
どの位の時間が過ぎたろうか。飽きることもなくページを繰り続けていた少女がふいに顔を上げた。誰もいないはずの階下から、物音が聴こえた気がした。
祖父母が帰宅したのだろうか。少女は机の下の灯りを消して、本を閉じた。
さほどの時を置かず、部屋の扉が開いた。ノックが聞こえなかったことを訝しむ間も無く、大人のシルエットが廊下の小さな灯を逆光にして暗い床に影を落とす。コツンと一つ足音が響き、それは室内へと入ってきた。
少女は計画通り息を潜めていた。部屋に入ってきた人物が誰かは分からなかったが、自分が眠っていると思えば出て行くだろうと思っていた。
しかし気配は立ち去る様子がない。
少女は自分の推測が間違っていたことを悟る。クローゼットや机を開き、中を探るような音が聞こえてきた。目を細め、机の天板の向こう側の人影を見つめる。この人物には全く「覚え」がない。祖父母、通いの使用人たちとは全く違う息遣いと気配だ。入ってきた時にわずかに見えた背格好は大人の男性のようだった。自分が知り得る誰でもないとすれば。
空き巣だろう。
部屋の灯りの大半が消えていたためか。或いは使用人が施錠して出て行ったのを見て、留守宅だと判断したのか。何れにせよ、ここに住人がいるとは思っていないはずだ。
恐怖よりも、見知らぬ者に部屋を物色される不快感の方が強い。
このまま長く部屋に居座られれば、隠れていても見つかるかも知れない。空き巣を狙う大人が、彼女を見つけて好意的な反応することには期待出来なかった。
息を潜めたまま、少女は人影を見据える。十一歳の子供に何が出来るだろうか。机の下から出て小さな電灯と本一冊で身を守るのは到底無理な話だ。
少女は数秒目を閉じて息を整える。再び瞼を開くと、音を立てないよう注意して上履きを脱ぐ。片方を右手に持ち、それを机の真向かいに見える窓の方へと思い切り投げつけた。上履きは窓の下の壁に当たり、意外なくらい大きな音を立てた。
侵入者は驚いたのだろう。
部屋に発砲音が響く。一発、二発。窓ガラスが割れる音、続いて何かが倒れたような音が聞こえた。
その隙に少女は机の下から飛び出す。相手は銃を持っており、物音だけで発砲した。つまり空き巣に入った先に住人がいれば、強盗も辞さないつもりなのだろう。下手に背中を向ければ撃たれるのは子供でも想像出来る。
人影に向かって、少女は勢いよく突進した。
窓に注意を向けていた男は、裸足の少女が突進して来ることに気付かなかったらしい。少女が背中にぶつかった時の衝撃で手にしていた何かが落ちたようだ。だが、そこまでだ。影がつんのめった先にあった窓枠は、持ちこたえて侵入者の体を受け止めていた。
月も街灯の光も差し込まない窓辺で、男は少女に理解出来ない言葉で短く叫ぶ。外国語なのか地方訛りの強い英語なのかは分からない。
少女はそのまま廊下に向かって走った。不意打ちには成功したが、相手が武器を再び拾うまでに逃げなければならない。
と、背中に熱のようなものを感じる。何が起こったのかはすぐには分からなかったが、自分は床に倒れ込んでいた。それが理解出来た現実の全てだ。
起き上がろうと顔を上げた目の前に、黒い影がのしかかるように現れる。振り上げられた腕と思しき影の先に、わずかな光に反射した何が握られている。武器は一つでは無かったらしい。それがこちらに向けて振られるのを、咄嗟に避けて床を転がる。
背中が酷く痛む。最初の衝撃はそのせいだろう。だが、痛みに耐えて逃げなければ、このまま殺されるかも知れない。二度目の相手の攻撃でブラウスの胸と袖が裂けていた。服を駄目にしたことで祖父は怒るかも知れないと、思考の端で思いながら少女は追撃を避けて再び転がる。
三度目も上手く避けた。しかし壁に体が当たったと思った次の瞬間。大きな手が細い少女の首を掴んでいた。あっさりと少女を床に抑え込んだまま男は、再び何か言ったようだ。少女の目の端に、倒れたドールハウスの家具と散らばった人形たちが見えた。
可哀想に。「マーサ」は壊れてしまったかも知れない……霞みゆく意識の中でそうぼんやりと考えながら、彼女の手は無意識に床の上を這い回った。何か冷たく固い物が指先に触れた。それを夢中で掴み目の前の影に向ける。
破裂音と悲鳴が聞こえた。
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