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「ごめん……あたし、帰る」
そういうなり、鞄を取り上げ足早にアトリエから出ていった彼女の背中を、僕はしばらくの間呆然と見送るより他なかった。
一分ほど後、ようやく気を取り直して正面のキャンバスに目を戻す。
(どうしたんだろ? そんなに気に入らなかったのかなあ……この絵が)
イーゼルに立てかけたキャンバスに、まだ色は塗られていない。
そこにあるのは未完成の下絵。
木炭で薄く描かれた少女のデッサン画だった。
制服のブレザーを身にまとった、身長一五〇センチ少しの小柄な体格。ボブカットの髪に包まれた丸顔は、高校二年生にしてはやや幼い方か。
少女は椅子に腰掛け、横顔を窓の方に向けている。
遠くを見るようなその瞳は、空の色に移りゆく季節を感じているのか、それとも親しい誰かが来るのを待ちわびているのだろうか――。
絵のモデル、佐藤希(さとうのぞみ)は同じクラスの友人だが、もちろん恋人同士とかそんな関係ではない。僕が彼女と出会ったのがつい一月前、互いに口を利くようになってまだ半月と経っていなかった。
僕が生まれ育ち、高校時代までを過ごしたのは、N県の山間部に位置する辺鄙な地方都市だった。
そんなわけで、夏休み明けに担任から「東京から女子の転校生が来る」と聞かされた時、クラス中が――特に男子生徒は――その噂で持ちきりになったものだ。
ところが大方の予想を裏切り、転校してきた佐藤希は容姿も性格も地味で控えめな少女だった。
スマホやブランドもののアクセサリーも持たず、服装や髪型のセンスも地元の女の子たちとさして変わりない。
半月も過ぎると、彼女の存在は「その他大勢」の女生徒たちの中に埋没してしまい、男どもの話題にのぼることもなくなった。
皮肉なことに、そんな彼女の平凡さが、却って僕の興味を惹きつけたのだ。
その当時、美術部に所属していた僕の関心は女の子よりも油絵の制作にあり、ちょうど秋に催される県の美術展に出す作品の題材を模索しているところだった。
それまで専ら静物画や風景画を中心に描いてきた僕は、今回はあえて生きた素材――人物画に挑戦しようと、そこまでは決めていた。
だが「いったい誰をモデルにするか?」で頭を悩ませていたのだ。
自画像、クラスの友人、家族――色々考えたがどれもしっくりこない。
そんなおり僕の目に止まったのが、昼休みでも自分の席に座り、頬杖を突いてぼんやり窓の外を眺める希の姿だった。
転校して日も浅い彼女は、クラス内にいくつか存在する女子生徒の仲良しグループのいずれにも加わっておらず、休み時間でも独りで過ごしていることが多かった。
晴れ渡った秋の日の明るい午後。
どこにでもいるような、ごく普通の少女が抱えるちっぽけな孤独――これが、僕の描きたいテーマにぴったりくるような気がしたのだ。
「あの、よかったら絵のモデルになってくれないかな?」
僕の誘いを受けたとき、希は小首を傾げ、不思議そうに尋ねてきた。
「……でも、何であたしに?」
僕は返答に窮し、ちょっとどぎまぎした。
もともと人付き合いの苦手な僕は、中学・高校と絵に没頭する余り、それまでクラスの女子とすらろくに口を利いたことがなかったのだ。
赤面する僕の表情がおかしかったのか、希は口許を押さえていたずらっぽく笑った。
「いっとくけど、あたしのギャラは高いよー。時給一万円」
「え……お金は、ちょっと」
「ウソウソ! いーよ。どうせ放課後はヒマだし」
拍子抜けするほど簡単に承諾が得られ、その日から放課後の二時間、彼女は美術部の部室兼アトリエに来て絵のモデルを務めてくれることになった。
モデルのイメージをつかむため、色々とポーズや角度を変えながら習作のクロッキー画を描くこと二週間。今日になって、いよいよ本番として油絵の制作に入ったのだ。
初めての本格的な人物画とあって、僕はいやが上にも張り切っていた。まだ下絵の段階だが、キャンバスに描かれた少女の肖像は、自分でも悪くない出来映えのつもりだった。
当然、モデルになった希も喜んでくれるものと思っていたのだが――。
「これ……あたし?」
キャンバスを覗き込んだ希は、唇をちょっと尖らせて黙り込んでいたが、やがて荷物をまとめてさっさと部屋から出ていってしまったのだ。
正直いってショックだった。口には出さずとも、彼女がこの絵に良い印象を持たなかったことは間違いない。
(やっぱり僕には才能がないのかな……)
ひどく落ち込んだ僕は、美術展への参加を見合わせようかとさえ思い始めていた。