「重ねる約束」
「重ねる約束」
日向との初体験は、未遂に終わった。
いや、未遂とすら呼べないのかもしれない。
心の中で何度も大丈夫、大丈夫と唱えた。
けれど、あの影が邪魔をする。日向にそっくりなあの影が。
日向に全部をあげたいのに。
日向の全部がほしいのに。
日向と一つになりたかったのに。
自分は、それを心から望んだはずだったのに。
日向は、熱の篭った切ない声で、何度も何度も自分の名前を呼んでくれた。
優しく繊細な指先で、自分の体をそっと愛撫してくれたのに。
切なくなるほど愛おしそうな瞳を見せてくれたのに。
その声や、指先や、表情が、嬉しかったのに。
嬉しくて、堪らなかったのに。
日向は自分に背を向けて、黙ってしまった。
その背中に縋りついているのに、日向がとても遠くに感じて、涙が止まらなかった。
きっと、ガッカリさせた。傷つけた。
日向を拒絶したかったわけじゃないのに。
自分から誘っておきながら、なんていうことをしてしまったんだ。
こんなつもりじゃ、なかったのに。
あの時と同じことをしてしまった。
初めて日向の家に泊まった時と、同じことを。
いつもと違う、情欲に染まった男の顔が怖くなって、日向を突き飛ばしてしまったあの日と同じ。
あの時の日向は、ひどく傷ついて、自分に触れることすら躊躇うようになった。
きっと、日向はまた、自分に触れることを怖がる。
躊躇って、指先を震わせて、自分に触れることを迷うようになる。
いや、もう日向に触れてもらえなくなるのではないか。
二度も拒絶されて、日向が平気でいられるはずがない。
今度こそ、嫌われてしまう。
「ひーくん…お願い、こっち向いて…。」
「…今、俺の顔見たくないだろ?」
背を向けたまま、日向は小さく呟く。
日向は、自分がこうなってしまった原因を、痛いほどわかっている。
だからこそ、自分に顔を向けることすらしてくれないのだ。
違うのに。日向が怖いわけじゃないのに。
「違うの、ひーくん。お願いだから…こっち向いて…。」
涙を拭いながら、百合は言う。
止まれ止まれ、涙よ止まれ。
涙なんか見せたら、また日向を困らせてしまう。
「お願い…。」
日向はゆっくりと体を起こして、百合の方を見た。
当惑したような表情で、窺うような視線を向ける。
その視線に、また涙が零れてしまいそうになった。
「ごめんな…。百合を泣かせたかったわけじゃないんだ。」
そう言って、日向は自分を抱きしめた。
「もう何もしないから。」
長い指が、自分の髪を梳く。
日向は、まるで子供をあやすような手つきで、優しく自分を抱きしめる。
その手は少し、震えていた。
本当は触れるのが怖くて堪らないのに、自分を安心させようと無理して抱きしめているのだ。
また触れてもらえなくなると不安になっていたのを、察してくれたのか。
その優しさに、また涙が出た。
「あっ、ごめん…。」
日向は、慌てて自分を抱きしめる腕を離す。
けれど百合は、その胸に飛び込んだ。
精一杯縋りつくように日向に抱き付いて、その体温を感じる。
優しくて暖かい、日向の体温。
その体温に包まれると、愛おしさが溢れた。
「好き…。ひーくんが好き…。」
「…うん。俺も、好きだよ。」
そう言って、日向は自分の頭を撫でる。
自分が好きな手。優しい手。愛しい手。
その手が心地よくて、微睡んでしまう。
もっと触れていたいと思う。
もっと触れられていたいと思う。
こんなに日向が愛おしくて仕方がないのに、どうして日向と一つになれないんだ。
自分の不甲斐なさを感じると同時に、あの男への憎しみが溢れた。
日向と同じ姿をしたあの男。
その顔で、薄ら気味の悪い笑みを浮かべるあの男。
自分と日向を取り合った、あの男。
全部あの男の思惑通りじゃないか。
あの男が残した深い傷跡は、今でも消えない。
日向と付き合うことはできたけれど、日向とは一つになれない。
あの日の影が邪魔をして、日向と体を重ねることができない。
まるで呪いみたいだ。もうあの男は、消えたはずなのに。
夢の中で、あの男が嘲笑う。
二人を幸せになんかさせないと。
自分の影に怯えて、一生苦しめばいいと。
あの仮面のような笑顔を張り付けて、笑う。
悪魔のような男だ。
自分は、その影を取り払えないでいる。
あの時のことが、何度もフラッシュバックする。
何度大丈夫と唱えたところで、日向と彼方は驚くほど似ているのだから。
日向と彼方は別の人間だとわかっているのに。
自分が好きなのは日向なのに。
無意識に、あの影が重なる。
もしかしたら、自分は一生日向と体を重ねることができないんじゃないか。
そのうちに、日向にも見捨てられてしまうのではないか。
だって日向だってもうすぐ十八だ。
いつまでも子供のような恋愛で、満足できるはずもない。
自分だって日向を求めているのに、いざとなったら受け入れきれない。
全てを日向に捧げたいのに、それができないのがもどかしい。
ほしいのに。あげたいのに。どうして。
目が覚めると、隣に日向はいなかった。
部屋の中を見渡しても、誰もいない。
静かな部屋に、ただ一人で残された。
急に不安が襲ってくる。
日向を怒らせてしまったのではないか。
日向は、自分に愛想を尽かしてしまったのではないか。
日向は、自分の前から消えてしまったのではないか。
百合は飛び起きて部屋を出る。
そのまま駆けるように廊下を抜けて、リビングに入った。
けれど、リビングを見渡してみても、日向の姿はなかった。
百合は絶望的な気持ちになった。
しかし、耳を澄ますと、キッチンから物音が聞こえる。
― 日向はキッチンにいる。
百合は、そっと、キッチンを覗くと、コンロの前に日向が立っていた。
朝食の支度だろうか。なんだかいい匂いがする。
「おはよ。もう朝ごはん出来るから、座って待ってて。」
日向は振り返り、自分を見て、ふっと笑った。
不思議なくらい、いつも通りだった。
百合は安心するのと同時に、急に体の力が抜けて膝から崩れ落ちそうになった。
けれど踏み止まって、縋りつくように日向にギュッと抱き付いた。
「百合…?」
日向は驚いて一歩後退り、そして自分の背中に手を回してきた。
細い腕が、しっかりと自分を抱く。
震えていない、力強い腕だった。
「何処か行っちゃったかと思った…。」
不安がポロりと口を衝く。
「何処か行くって…ここ俺んちだろ?百合を置いて何処も行かないよ。」
自分を抱きしめたまま、日向は頭を撫でてくれた。
いつもそうだ。日向は自分を慰める時、抱きしめて頭を撫でる。
その長い腕の中に閉じ込めて、優しい指先で不安な気持ちをゆっくりと解いてくれるのだ。
「昨日は、ごめんな。」
「…どうしてひーくんが謝るんですか。」
「…ごめん。ちゃんと守るから。大事にするから。」
抱きしめる腕が、一層強くなる。
顔を上げると、日向は辛そうな顔をしていた。
日向なりに、いろいろと考えることもあったのだろう。
悪いのは、日向じゃないのに。
日向は、すぐに思いつめてしまう。
強くならなきゃいけない、そう百合は思った。
日向を不安にさせないように、ちゃんと自分がしっかりしないと。
日向に心配を掛けないように、強くならないと。
日向が自分を好きでいてくれることを、躊躇わないように。
「ねえ、ひーくん。…昨日のキス、して。」
百合は真っ直ぐに日向を見つめる。
「えっ…。昨日のって…。」
日向は動揺したように、目を瞬かせて顔を赤らめた。
「…いいの?」
確かめるように、日向は言う。
百合は無言で頷いた。
日向は少し腰を屈めて、躊躇いながらも唇に小さなキスをした。
そして、恐る恐る自分を窺うように、ゆっくりと口内に舌を入れてきた。
百合は日向の首に手を回して、日向に応えるように舌を絡めた。
全然嫌じゃない。
むしろ、心地いいくらいの胸の高鳴りと、生暖かい日向の舌の感触が気持ちよかった。
こういうことを、もっと日向としたいと思うのに。もっと日向と繋がりたいと思うのに。
今の自分には、ここまでしかできない。
唇が離れると、日向は不安そうに自分の顔を覗きこんだ。
「…平気?」
百合は、もう一度無言でコクリと頷いた。
少し恥ずかしいという気持ちと、ここまでしかできない申し訳なさに、どう答えていいかわからなかった。
「なんか…やっぱり恥ずかしいな。」
口元を覆って、恥ずかしそうに日向は俯く。
百合はもう一度日向に抱き付いて、日向の胸の中で囁いた。
「好き…。ひーくんが好き…。」
本音だった。日向が好きで好きで堪らない。
手放したくはなかった。必死で日向を繋ぎ止めておきたかった。
日向は百合の背中に手を回して、耳元で小さく囁く。
「…愛してる。」
その言葉で、心は満たされた。
体は重ねられなくても、心は繋がっている。
そうであればいいなと、百合は思った。
朝食を食べ終え、二人は最後の時間を惜しむように寄り添っていた。
テレビは付けずに静かな部屋の中、お互いの体温だけを感じていた。
日向の家で過ごすのは、今日が最後。
明日には日向の母親が退院して、自分がこの家を訪れることは無くなる。
次にいつ、こうやって二人っきりで過ごせるかは、わからない。
一週間後かもしれないし、一か月後かもしれないし、一年後かもしれないし、もっと先かもしれない。
わかないのが、余計に二人を不安にさせる。
それくらい、お互いがお互いに依存していた。
「…帰したくないな。」
「私も、帰りたくないです。」
残された時間はあとわずか。
まるで、世界の終わりのような気分だった。
自分たちが生きている狭い世界の終わり。
会えなくなるわけじゃない。
今まで通り、毎日学校で会える。登下校も昼休みも一緒にいられる。
けれど、やっぱりこの家で過ごす時間は、二人にとって特別なものだった。
「…次いつお泊りできるんですか?」
日向は答えない。
「…次いつ一緒に眠れるんですか?」
また、日向は答えない。
代わりに、自分を抱きしめた。
「…早く、一緒に暮らしたい。」
その言葉は、切ない響きを持っていた。
日向の心の奥の本音が洩れたのだろう。
それを望んでくれていることを嬉しいと思う反面、それを現実にできないことに、もどかしさを覚えた。
自分たちはまだ、大した力も権利も持っていない子供なのだから。
いくら体が大人に近いくらいまで成長しても、世間一般から見ればまだまだ子供だ。
自分一人で何かを決める権利なんて、持ち合わせてはいない。
例えば、結婚したり、一緒に暮らす家を借りたり。
そんなことは、できない。
「…駆け落ち、しちゃいますか。」
「…馬鹿。」
そんな望みさえ、叶える力も勇気もない。
何も選べない、無力な子供だ。
早く大人になりたい。
早く大人になって、誰に咎められることもなく、日向との未来がほしい。
そんなことを思っても、月日は平等に、無慈悲に流れるもので、日向と本当に結ばれるのは、ずっと未来のこと。
今の自分達にできることは、ただ月日に流されることだけ。
もどかしい。
こんなにも日向を好きな気持ちは、溢れるばかりなのに。
「ねえ、ひーくん。…この約束、守ってくださいよ?」
そう言って、百合は日向の眼前に右手を掲げる。
日向に贈ってもらった銀の指輪が、蛍光灯に反射してキラキラと光った。
「…うん。絶対守るから。」
日向は百合の手を取り、薬指に輝く指輪にキスを落とした。
切なく、甘美な時間だった。
自分は、誰よりも日向を愛している。
そして、誰よりも日向に愛されている。
わかってはいるけれど、不安がよぎるんだ。
こうして日向と過ごす時間が当たり前になりすぎて、それを失うのが怖い。
ほんの少しだけでも変わる環境に、不安を感じずにはいられない。
「私…何があっても、絶対にひーくんから離れたりしません。」
「…うん。」
「ひーくんも、私から離れないでくださいよ。」
「…うん、約束する。」
「明日からも、一緒に学校行って、一緒にお昼ご飯食べるんですよ。帰る時も一緒ですよ。」
「…うん。」
「お休みの日は、公園でも、海辺でも、どこでもいいから、一緒にいてください。」
「…うん。」
「たまには街まで出て、デートもしたいです。」
「うん、今度行こう。」
「それから、それから…。」
確認するように、一つ、一つ、約束を重ねた。
日向は頷いたり、相槌を打ったりして、静かに百合の言葉に耳を傾けた。
明日から変わる環境に不安を覚えつつも、言葉を交わして、抱きしめて、キスをして愛を確かめ合った。
日向だって不安じゃないわけがない。
ちゃんとこの人を支えてあげないと。
それが、自分の役目だ。
何があっても日向を手放さないと、そう百合は誓った。