「動き出した世界」
「動き出した世界」
十一月最終週の木曜日。
激しい雨が降る昼過ぎ、高橋奈津子は考えていた。
自分は何か、とても大切なことを忘れているのではないかと。
自分が置かれているこの暮らしに、何故かとても強烈な違和感を感じるのだ。
それが何かはわからない。けれど、何かがおかしいのだ。
一人息子の日向が学校へ行って、昼間は家で一人きりの暮らし。
以前の自分は、この時間をどうやって過ごしていたのだろう。
仕事はしていなかったのか。趣味はなかったのか。今のように、ただ退屈な時間を過ごしているだけだったのか。
日向は、大人しくてシャイで、口数は少ないが、凄く優しくていい息子だ。
しっかりしているというか、きちんとしている子供だと思う。
料理や洗濯、掃除などの家事も一人で済ませてしまう。
料理も手の込んだものをよく作る。
驚いたのは、パエリアやビーフストロガノフ、彼女に渡すと言って作っていたプリンやアップルパイ。
凄いと褒めたら、日向は「母さんが教えてくれたんだろ」と、照れたように素っ気なく言うが、奈津子はどう思い返してみても、そんな記憶は思い出せなかった。
それどころか、その料理の作り方すら、自分は知らないのだ。
例えば、記憶を失っていても、カレーや肉じゃが、しょうが焼きにオムライス。そういうものの作り方は、ちゃんと覚えている。
作った記憶はなくても、作り方はわかるのだ。体が覚えていると言えばいいのだろうか。
けれど、パエリアやビーフストロガノフ、プリンやアップルパイはどうだ。
その料理の名前は知っていても、作り方なんてわからない。
もしかしたら、作ったことすらないのではないか。
それに、この家は、やけにすっきりとしていて、物が少ない。
日向がきちんと掃除をしたり片付けをしたりしているのはわかるが、なんだか寂しい家なのだ。
無駄なものが一切ない。スッキリしていると言えば聞こえはいいが、ガランとしているように奈津子は感じた。
日向の父親、自分の夫は、十年前に病死したのだと日向から聞いた。
他に子供はいない。高校生の息子の日向と二人暮らし。
― 本当にそうなのだろうか。
奈津子が疑いを持つようになったのは、つい先週のことだ。
自分の部屋の本棚の隅に、古びたアルバムを見つけたのだ。
そのアルバムを開くと、最初の一ページ目には、若い頃の自分が一歳にも満たないくらいの二人の赤子を抱えて微笑んでいる写真があった。
その子供は、とても顔がよく似ていて、まるでコピーやクローンのようにも見えた。
幼い頃の日向だろうか。だとしたら、もう一人は誰だ。
写真に写っている女は、間違いなく自分だ。
こんな写真撮った記憶はなくても、顔を見ればわかる。
ページを進めていくと、二人の赤子の写真ばかりだった。
どれも数カ月から一年以内に撮られた物のようで、今の日向と比べられるほど成長した写真はなかった。
どの写真も、二人の赤子は仲良さげに寄り添っていた。
お昼寝をしている写真は、二人とも自分の指を咥えて、向かい合うように互いに片手を伸ばして眠っていた。
二人とも興味深そうにぬいぐるみを見つめている写真。
二人で機嫌良さそうにカメラに向かってピースをする写真。
二人とも同じ表情で大泣きしている写真。
どの写真も、二人は同じ表情で、同じ行動をとっていた。
アルバムの中は、二人の赤子だらけだった。
自分の子供だろうか。だとしたら、もう一人は誰だ。今はどこにいるんだ。
もしかして、父親のように事故や病気で死んでしまったのか。
この話は、日向から聞いていない。
言うのを忘れているだけなのか、それとも、何か思惑があるのだろうか。
アルバムが一冊しかないことも気になる。
このアルバムには、精々一歳くらいまでの写真しかない。
普通なら、幼稚園の写真や、七五三、入学式の写真もあるはずなのに。
けれど、いくら本棚を調べてみても、そんなものは見つからないのだ。
これは自分の子供じゃないのか。日向の小さい頃の写真じゃないのか。
どうして、その先がないんだ。成長した姿を、写真に収めていないのか。
そして、もう一人の子供は誰だ。この子供は、今一体どこにいるんだ。
そんなことを考えていると、インターフォンの音が鳴った。
誰だろう。この家に誰かがくるなんて、珍しい。
今まで、一度もなかったことだ。
奈津子は少し緊張しながらも、玄関に向かった。
そして、玄関の扉を開けると、外には日向が立っていた。
いや、日向によく似た顔の、知らない少年だ。
「久しぶり、母さん。」
激しい雨の中、傘も差さずに、その少年はどこか陰りのある顔で微笑んだ。
放課後。
いつものように百合は、玄関ホールで日向がくるのを待っていた。
毎日一緒に登下校するのは、すっかり二人の日課になっていた。
外は朝から激しい雨が降っている。いつものように、一つの傘で相合傘をするのは難しそうだ。
けれど、今日はいくら待ってみても日向が来ない。
いつもなら、自分より先に待っていてくれているはずなのに。
もしかしたら、また進路のことで先生に呼び出されているのかもしれない。
けれど、日向は進学先も決まって、受験も合格しいる。
親子関係も良好そうだし、呼び出しを受ける理由なんて、百合には見当もつかなかった。
亮太や将悟やクラスメイトと話をしているんだろうか。
それは有り得る。日向は学園祭以降、随分と友人が増えたようなことを言っていた。
けれど、それなら一言くらい連絡をくれるはずだ。
何の連絡もなしに、こんなに待たせるなんて、今まで一度もなかった。
三十分ほど待ってみたけれど、日向が現れる気配はない。
携帯に電話をかけてみても、電源が入っていなくて繋がらなかった。
仕方ない。少し緊張するが、日向の教室を覗きに行こうかと思ったとき、廊下の方から聞きなれた声が聞こえた。
「あれ、百合ちゃんだ。百合ちゃーん!」
「坂野先輩。…と渡辺先輩。」
亮太は自分に向かって長い腕をブンブンと振りながら、近付いてくる。
その隣には、真紀が不機嫌そうな顔で亮太を睨みつけていた。
この二人をセットで見るのは、もはやおなじみの光景だった。
「もしかして、日向待ってんの?」
「はい。ひーくん、まだ教室にいるんですか?」
「いや?アイツ、五時限目の途中で学年主任の先生に呼ばれて、そのまま早退したけど…何も聞いてないのか?」
「早退って…どうして…?具合悪かったんですか?」
「いや、そんな風には見えなかったけど…。」
「じゃあどうして?何かあったんですか?」
「それは…うーん。」
亮太は首を捻って考えて見せる。
けれど、わざとらしく眉間に皺を寄せてみても、思い当たる節はなさそうだ。
そういえば、亮太は日向の家の事情を知らないんだっけ。
だったら、亮太に何を聞いても無駄かもしれない。
そう思ったとき、ずっと隣で黙っていた真紀が、仏頂面のまま亮太の脇を小突いた。
「もういいでしょ。行こう、亮太。
アンタは、人のこと考える前に自分のこと考えなさいよ。
今日も帰ってみっちり勉強だからね!」
「ええ、でも…。」
戸惑う亮太の腕を、無理矢理に真紀は引っ張る。
「でも、じゃない!女子とおしゃべりしてる暇なんてないでしょ!アンタは受験生なんだから。」
そのまま真紀は、亮太を引き摺るようにして歩く。
百合は会釈をしてみたが、真紀は睨むような視線を寄越しただけで、自分には何も言わなかった。
「じゃーなー。百合ちゃんー!」
遠ざかる二人の背中を見て、百合は溜息を吐いた。
あの真紀の態度は、以前と同じだ。一体何なんだろう。
明らかに真紀は、自分を嫌っている。
自分は真紀に何か悪いことをしただろうか。
考えてみても、思い当たる節なんてない。
自分が気付ぬ内に、何かしてしまったのだろうか。
それならそれで、言ってくれればいいのに。
まあ、真紀の性格を考えたら、そんなことはしないとは思うが。
モヤモヤする気持ちを溜息にして吐き出して、肩を落とすと、またもや背後から聞きなれた声が聞こえた。
「おーおー。相変わらずだな。真紀ちゃんは。」
そこに立っていたのは、将悟だった。
眉を八の字にして、苦笑いを浮かべている。
「中村先輩。…見てたんですか。」
「まあな。真紀ちゃん、あれでも悪い奴じゃないんだよ。百合ちゃんもそんなに気にするなよ。」
「そうは言われても、なんかへこんじゃいますよ。私何かしたのかなあ。」
「いや、そうじゃないよ。」
将悟は、顔の前で手をひらひらと振る。
「多分、亮太のこと、取られるって思ってんじゃねーの?」
「坂野先輩のこと?取りませんよ!私にはひーくんがいるんだから…って、まさか、渡辺先輩って…。」
将悟が言わんとしていることにハッと気付き、百合は将悟を見つめる。
将悟は人差し指を立てて、ニヤリと笑った。
「そう。亮太は気付いてないみたいだけどなー。」
「えーっ、えーっ。ホントですか?
だから渡辺先輩、私にあんなに冷たいんですか?
そんな心配しなくていいのに。むしろ、邪魔するどころか、応援しますよ!」
「とっとと告白してくっついてくれたら平和なんだけどなー。
真紀ちゃんは、大学合格するまでは告白する気ないみたいだし。
わかりやすい態度してても、亮太も馬鹿だから真紀ちゃんの気持ちに気付かないし。」
「そうだったんですか…。渡辺先輩って坂野先輩のこと好きだったんですね。
なんか一気に渡辺先輩が可愛く見えてきました!」
「まあ、そういうことだから、あんまり気にするなよ。」
百合たちの年頃は、他人の色恋話に敏感だ。
誰が誰を好きだとか、誰に恋をしているだとか、そういう話で盛り上がる。
自分と全く関係ない人のことでも、恋の話は気になるものだ。
なんだ。真紀はただ、自分に嫉妬していただけなのだ。それも杞憂だ。
自分に冷たい態度を取っていた真紀だったが、百合はその気持ちを知り、胸のモヤモヤがスッキリと晴れた。
真紀も可愛らしい恋する乙女だったのだ。それを知って、百合はなんだか安心した。
今度会ったとき、応援しているという意思を真紀に伝えよう。
そうすれば、きっと真紀とも分かり合える。
「あ、それより、日向なら来ないぞ。」
思い出したように、将悟は口を開く。
「早退…したんですよね。」
「ああ。さっき亮太が言った通り。急にいなくなったんだ。」
さっき聞いたばかりのことを思い出す。
日向は五時限目の途中で先生に呼び出されて、そのまま早退したらしい。
「なにか…あったんですかね?」
「さあ?話す時間もなかったしな。」
そう言って、将悟は首を傾げて見せる。
日向の家庭事情を知っているはずの将悟にも、思い当たる節はないらしい。
もちろん自分にも、思い当たる節なんてなかった。
朝もとりわけて変わった様子はなかったし、昼休みだって、いつも通りのように感じた。
いつもと違うのは、今日は雨が激しかったから、いつもの屋上ではなく多目的ホールで一緒に昼食を食べたことくらいだ。
作ってくれるお弁当も、いつも通り手の込んだものだった。
それに、最近の日向は、ずっと機嫌がよかった。
専門学校の合格も決まったし、母親との関係もいいと聞いていた。
何も悩むことはなかったはずだ。
いや、急に呼び出されたと言うのだから、日向の心情は関係ないのか。
一体何があったのだろう。
それを知る人間はいないし、今は日向と連絡が取れない。
また一人で抱え込まなければいいのだけれど…。
そう百合が俯いて考えていると、将悟が口を開いた。
「大丈夫だよ、百合ちゃん。」
それは、自分を安心させるように、優しい声だった。
「なんかあったら、絶対に百合ちゃんに言ってくれるって。」
顔を上げると、将悟は自信ありげに笑っていた。
自分の不安な気持ちを見透かして、元気づけようとしてくれているんだろう。
「ひーくん、ちゃんと私に話してくれますかね…?」
「話すだろ。アイツ、ああ見えて百合ちゃんのこと大好きだしな。」
そう言って、将悟は可笑しそうに笑う。
「きっと、夜には連絡も来るだろうよ。だから、百合ちゃんも気長に連絡待ってやればいいさ。」
「そうですよね。ひーくん、私に隠し事なんてしないですよね。」
「ああ。心配しないで今日は帰りな。夕方から、雷酷くなるってニュースで言ってたぞ。」
そうして、その日、百合は帰宅した。
日向から連絡がくることを信じて待ったいたが、夜になっても連絡は来ない。
それでも、携帯電話を握りしめて眠りについた。
将悟が家に帰ると、やけに居間が散らかっていた。
服やら何やらが散乱していて、足の踏み場がない床を猫達が物を避けて通る。
その中央で、誠は大きな旅行鞄に服や小物を詰め込んで、荷造りをしていた。
「あれ、何してるんすか。」
「ああ、そろそろ帰ろうと思ってさー。」
「優樹さんと仲直りできたんすか?」
「あー、んー、まあ、一応それに近い形になったんじゃないかなー。」
将悟は、以前、誠の電話を盗み聞きしたことを思い出した。
―とにかく、彼方君が仕事辞めるまで、俺は戻るつもりないから。
彼方が仕事を辞めたということか、いや、もしかしたら和解したのかもしれないが。
けれど、彼方が仕事を辞めたと仮定するならば、日向の家に戻ってくるのか。
以前のように日向と暮らし、学校にも来るようにもなるのだろうか。
今日日向が早退した理由も、彼方絡みなのか。
「誠さん、前の話なんですけど…。」
「前の話?なんだっけ?」
「彼方のことです。」
「…だから、俺にそんな知り合いはいないよ。」
ハッキリとした口調で、誠は言い切った。
あくまでシラをきり通すつもりか。
そうはさせない。将悟はさらに踏み込むことにした。
「日向の双子の弟の彼方のことです。誠さんと一緒に働いてたんでしょう?
俺知ってるんです。誠さんが電話してるの聞いて、それで…。」
顔を上げた誠は、口元を歪めて笑みを作る。
けれど、目にはなんだか冷たい光が宿っていた。
「驚いた。盗み聞きは良くないよ。どこまで知ってるの?」
「そんなに詳しいことはわからないですけど…。
けど、誠さんは彼方の居場所を知っているでしょう。
どこで何をしているのかも。どうして日向には何も言わなかったんですか。」
「日向君には関係ないからだよ。これは、俺と優樹君の問題。
ていうか、俺は彼方君が高校生だってわかった時点で辞めさせろって言ってたんだよ。
でも優樹君は、彼方君を止めさせる気はないって言って、それでこうなったんだ。」
こうなった、とは、彼方が原因で誠が優樹と喧嘩をして、将悟の家に逃げ込んできたということか。
「ね?俺はなーんにも悪いことしてないでしょ?
それに、アイツがいなくなったんなら、もう俺には関係ない話だしね。」
「いなくなったって…日向のところに帰ったってことですか?」
「さあ?それは知らないよ。俺アイツと仲良くないし。
まあ、日向君のところ帰ったか…ああ、女のところに逃げ込んでるかもしれないね。」
「女?」
「日向君のバイト先に髪の短い女の子いたでしょ?あの子だよ。優樹君の妹なんだ。
だから、彼方君があの子に取り入って、優樹君の店で働かせてもらってると思ったんだ。
二人とも、付き合ってること否定したけどね。
まあ、あの子も、彼方君にいいように使われてるだけかもしれないけど。」
そこまで言って、誠はニヤリと笑った。
「とにかく、彼方君の行先なんて、俺は知らないから。
世話になったことは感謝してるよ。でも、もう俺は関係ないよね。」
朝から降り続いた激しい雨は暗いカーテンとなり、平和な世界が一気に塗り替えられたような気がした。