「二人の旅」

 「二人の旅」



電車に乗って街へ出て、特急と新幹線を乗り継ぎ、京子は初めて太平洋側の海を見た。
長い長い移動時間。楽しみは、見たこともない景色と、彼方が無駄に大量に購入する車内販売のお弁当やお菓子。
自分は食べないくせに、京子にばかり買い与えるのだ。
「いらない」と言っても、「いいじゃん、せっかくなんだから。」と彼方には聞き入れてもらえなかった。
おかげで、京子の鞄の中は、着替えや化粧品よりもお菓子でいっぱいになってしまった。

片道四、五時間をかけて、二人は誰も自分たちを知らない街へと辿り着いた。
携帯電話はアパートに置いてきてしまったから使えない。
駅の書店で買った観光雑誌を片手に、二人は予約した宿に向かった。
初日に予約したのは、金目鯛のしゃぶしゃぶが食べられるという老舗温泉旅館だった。

「うわあ!すごい!広いねー!これぞ温泉旅館、って感じ!僕、こういうところ初めてなんだよね~。」

案内された部屋を見て、彼方は子供のように無邪気にはしゃぐ。
自分のアパートよりも何倍も広い純和風の客室。
大きな窓からは、太平洋が一望できた。

「見て見て、京子ちゃん!こっちに露天風呂があるよー!」

落ち着きなく、彼方は部屋の中を物色して回る。
押入れを開けてみたり、室内を走り回ってみたり、畳に寝転んでみたり。
とても自分より年上の男だとは思えない行動だ。
京子は恥ずかしさを通り越して、呆れて溜息を吐いた。

でも、笑ってくれるだけいいか。
地元を離れてから、昨日までの様子が嘘のように彼方はよく笑う。
その姿を見れただけでも、よしとしよう。

十二月最初の土曜日から出発した三泊四日の温泉旅行。
彼方が選んだ温泉旅館は、どこも豪華な食事が付き、客室内に露天風呂が用意されていた。
自分の意見を聞いているのかいないのか、彼方は慣れた様子でパソコンを操作し、ほとんど一人で予約を取り付けてしまったのだ。

「ねえねえ、さっそくお風呂入っちゃう?」

そわそわとした素振りを見せながら、彼方は露天風呂を指さす。
時計を確認すると、夕食まではまだかなりの時間があった。

「入りたいなら、お先にどうぞ。私は疲れたんで、ちょっとのんびりしたいです。」

「えー、一緒に入らなきゃ意味ないじゃん。」

「嫌ですよ、恥ずかしい。」

「タオル巻いててもいいからさー。ね?お願い。」

子供が甘えるように、彼方は上目使いで懇願する。

「ねーえー。いいでしょ?ねっ?ねっ?」

両手を合わせて得意のおねだりポーズだ。
こうされると、自分も無下にはできない。

「…あーもう。仕方ないですね。ちょっとだけですよ。」

京子は嫌々ながらも、彼方と一緒に温泉に入ることにした。

露天風呂は、とにかく広かった。
自分のアパートの浴槽の三倍も四倍、いやもっとありそうだ。
海が一望できる開放的な空間。穏やかな潮風が頬を掠める。
お湯の温度もちょうどよく、檜のいい香りが漂っていた。

「はあー。あったかい。癒されるねえ。」

彼方は風呂の真ん中を陣取って、気の抜けたような声を出す。
京子は彼方から離れるように、広い風呂の隅で足を延ばした。
いくらお互いタオルを巻いているとはいえ、なんだか恥ずかしい。

「ねえ、もっとこっち来てよ。せっかく二人で入ってるのにさー、離れてたら意味ないでしょ?」

「なんか変なこと考えてるんじゃないでしょうね?」

「やだなあ。さすがにお風呂で盛ったりしないよ。ほら、こっちおいで?」

そう言われて、京子は恐る恐る彼方の隣に腰を下ろした。
すると、肩に彼方が凭れかかってきた。

「なんかいいね、こういうの。」

そう呟いた彼方の体を、京子はこっそり見つめた。

彼方の体には、古い傷がいくつもある。虐待を受けていた名残だろう。
古い切り傷や、薄くなった痣。骨の浮いた細い体。
明るい場所で見るのは、初めてだった。
可哀想になるくらい、その古傷は未だに彼方の色白の肌に色濃く残っていた。

「なーに?見蕩れちゃって。もしかして欲情しちゃった?」

自分の考えていることを知ってか知らずか、彼方は意地悪そうに笑う。
まるでいらずら好きな子供の笑みだ。言っていることは、子供らしくはないけれど。

「そんなわけないでしょ。馬鹿なこと言わないでください。」

「冗談だよ。そんなに怒らないでよ。」

彼方は、楽しそうにふわふわと笑う。
そして、京子の手を取って、指を絡めた。

「本当は、温泉なんてどうでもよかったんだ。ただ、京子ちゃんと二人っきりで、誰も知らないところへ行きたかっただけ。」

その言葉に、不覚にも京子の胸は高鳴った。

「何言って…。」

「あ、今ドキってしたでしょ。京子ちゃんかーわーいーいー。顔真っ赤だよ?」

天邪鬼になりそうだった自分の言葉を遮って、彼方は茶化すように笑う。

「へ、変なこと言わないでください!」

無邪気な笑顔に、京子はなんだか恥ずかしくなって目を背けてしまう。

「京子ちゃんってさ、ホント素直じゃないよねえ。ま、そういうところも可愛いけど。」

「もうやめてください…。」

あまりの恥ずかしさに、京子は口元まで温泉に浸かった。


入浴を終えて、夕食の時間になった。
机の上には、アワビ、伊勢海老、牛肉のステーキなど豪華な料理が並ぶ。
テレビでしか見たことのないものばかりだ。会席料理というのだろうか。
どの料理も上等な食材を使っているらしく、飾り付けも色とりどりに輝いて見えた。

室内露天風呂付きの綺麗で広い部屋に、目を瞠るほどの豪華な食事。
もしかして、とんでもなく高級な旅館に来てしまったのではないか、と京子は思った。

「彼方さん、ここって…いくらくらいなんですか?」

「んー、内緒。」

「内緒って…。私、そんなにお金持ってきてないんですけど…。」

「何言ってるの。京子ちゃんにお金出させるわけないじゃん。安心して。僕、結構稼いでるって言ったでしょ。」

そう言って、彼方は可愛らしくウインクをしてみせる。

「でも…。」

「それに、もうお金なんて持ってても意味ないし。」

ボソッと、小さく彼方は呟いた。

「え?」

「ううん、なんでもない。それより食べなよ。こんな御馳走、なかなか食べられないでしょ。きっと美味しいよ。」

取り繕うように、彼方は笑う。
京子は、人生で初めてアワビに箸を伸ばした。

「美味しい…!」

あまりの美味しさに、思わず声が洩れる。
そんな自分を見て、彼方は満足そうに微笑んだ。

「よかった。京子ちゃんって、お菓子とかご飯食べてる時は幸せそうな顔するよねえ。」

「その言い方じゃ、まるで私がいつも機嫌悪いみたいじゃないですか。」

「そんなこと言ってないでしょ。ほら、これも食べて。あ、これも。」

そう言って、彼方はあれもこれもと京子に勧める。
彼方が言った通り、どの料理も頬が落ちそうなほどに美味しかった。
その彼方はというと、食事にはほとんど口を付けずに、酒ばかりを煽っていた。
京子も一口飲んだが、やっぱり日本酒は苦手だ。
自分には、甘い酎ハイがちょうどいい。

素敵な旅館に、広い露天風呂。豪華な食事と、甘い酎ハイ。
今日はなんていい日だろう。こんな経験なかなかできない。
「美味しい」と言って料理を食べる自分を、彼方はただニコニコと見つめていた。

食事を終えて、二人は部屋で酒を飲みながら寛いでいた。
彼方は廊下の自動販売機で缶ビールを買いに行き、自分にも缶酎ハイを買ってきてくれた。
最初は抵抗のあった飲酒も、すっかり何の罪悪感も感じなくなってしまった。
兄に見つかったら、怒られてしまうだろうか。
でも、バレなきゃいいんだ。

「本当は下呂温泉とか草津温泉でもよかったんだけど、あっちには海がないから…。
 でも、うーん、やっぱりここもちょっと違うなあ。」

窓の外を見つめて、彼方は呟く。

「何が違うんですか?」

「海。こっちの海は静かすぎて、なんかこう…上手く言えないけど違うんだよなあ。」

京子も、窓の外を眺めてみる。
波一つさえない。どこまでも静かで穏やかな海だった。
彼方が住んでいた町の海は、少し荒っぽくて、でもとても優しい海だった気がする。
彼方の言う通り、同じ海でも、日本海と太平洋とでは少し違うようだ。

「ご不満ですか?」

「いや?そういうわけじゃないけど、僕が好きなのは、やっぱりあの地元の海だなあ。」

少し切なそうに、彼方は目を細めた。

彼方が海を好きだということは、京子も知っている。
けれど、以前彼方と話したことが気になって、海が見えるこの旅館は、逆に京子を落ち着かなくさせていた。

―どうせ死ぬなら、海に還りたい。

確かに彼方は、そう言っていたんだ。

「あ!そういえば、すっかり忘れてた!」

急に大声を出して、彼方は荷物を置いてある部屋の隅に駆けだした。
どうしたんだろうと京子は首を傾げる。
彼方が手に持ったのは、お気に入りのカメラだった。

「写真!はしゃぎすぎて一枚も撮ってないや…。」

「ああ、見ないと思ったら、鞄の中に入れてたんですね。」

「気付いてたんなら言ってよ~。あーもう、もったいないことしたなあ。」

「いつもみたいに首から下げてないから忘れるんでしょ。」

「だって、電車の中じゃ邪魔になると思って…。」

彼方は、残念そうに肩を落とす。
それほど写真を撮れなかったことが悔しいのだろう。

「いいじゃないですか、明日もあるんだし。」

「そりゃそうだけどさー、今日っていう日は、今日しかないんだよ。」

そう言って、彼方はしょんぼりと落ち込んでしてしまった。
ついさっきまで、あんなにもふわふわと笑っていたのに。
今は、まるで叱られた子供のようだ。
写真を撮れなかっただけでそんなに落ち込まなくてもいいと思うのに。
けれど、そんな彼方の姿が、少し可哀想に見えた。

「まだ今日は終わってないでしょう?」

「え?」

彼方は、顔を上げて京子を見つめる。
アルコールのせいか、今日はやけに気分がいい。
普段なら絶対言わないようなことを、言ってもいい気分だ。

「しょうがないから、モデルになってあげるって言ってるんです。」

「え、ホント?」

彼方は、意外そうに眼を瞬かせる。
京子は小さく頷いた。

「でも、えっちなのは駄目ですからね。」

「うわーい。京子ちゃん大好き。」

そう言って、彼方が抱き付いてきた。
無邪気で屈託のない子供の笑み。
そんな顔を向けられて、悪い気はしなかった。

それから、彼方のお気に入りのカメラでの撮影会が始まった。
自分を窓際に立たせてみたり、畳の上に座らせてみたり。彼方は、上機嫌でシャッターを押した。
ガラじゃないとはわかっていても、京子はレンズに向かって、笑顔を振り撒いてみせる。
酒のせいか、羞恥はほとんど感じない。今日は特別サービスだ。

「綺麗…。」

ファインダーを覗いて、彼方は呟く。
今、自分は彼方の視線を独り占めしている。
日向なんかじゃない。今は、今だけは、自分だけを見てくれている。

ファインダーを見つめる彼方の目は、真剣そのもので、その瞳に京子は息を飲んだ。

「どうしたの?」

彼方は、顔を上げて、不思議そうに首を傾げる。

「な、なんでもないです!」

急に酔いが醒めたみたいに、頭はすーっと冴えていく。
同時に、胸が高鳴って、頬が熱くなるのを感じた。
彼方は卑怯だ。ふいに、そんなにも真剣な表情を見せるなんて、卑怯すぎる。
ドキドキと鼓動を打つ胸。軽いめまいのような感覚に膝をつきそうになる。
これ以上見つめられたら、どうにかなってしまいそうだ。

「きょ…今日は、ここまでです!私も疲れちゃったから、もう終わりにしましょう…っ!」

照れているのがバレないように、京子は両手でバツ印を作った。
浴衣の袖がちょうど自分の顔を隠してくれる。
彼方は不満そうに「えー。」と声を洩らした。

「せっかくいいところだったのに。仕方ないなあ。じゃあ、明日も撮らせてよ?」

しぶしぶ、という様子で、彼方は首から下げていたカメラを机に置いた。
京子は、安堵して溜息と共に腕を下ろす。
その瞬間、彼方に抱きしめられた。

「わっ!そんな急に…」

そう言いかけた言葉を、唇で塞がれた。

久し振りの感触。それは、優しい、優しいキスだった。
角度を変えて、彼方は何度も唇を求めてくる。
最初は戸惑っていた京子も、そっと彼方の体を抱きしめ、やがてそれを受け入れた。
甘く、蕩けるようなキスに流されて、いつの間にか、京子は布団に押し倒されていた。

「…ダメ?」

そう言って、彼方は京子の浴衣の帯に手を掛ける。

「…好きにしてください。」


空がうっすらと明るくなるまで、二人は何度も何度も互いを貪り合った。
自分を抱く彼方は、少し意地悪で、でもすごく優しくて。
口ではなかなか素直になれない京子は、精一杯彼方を抱きしめて愛を伝えた。

「…妊娠したら、どうするんですか。」

情事を終えた後、まだ彼方の熱が残る体で京子は問いかける。

「えー?結婚しちゃう?僕、結構稼ぐよ?」

茶目っ気たっぷりに、彼方はお道化てみせる。

「馬鹿なこと言わないで、ゴムくらい用意してくださいよ…。」

「はいはい、ごめんね。でも、嫌とは言わないんだね?京子ちゃんも好きなんだ、こういうの。」

彼方は反省している素振りなんて見せずに、自分を抱くときと同じ、少し意地悪なことを言う。
京子は恥ずかしくなって、彼方から目を逸らした。

「そんなこと言うなら、もうしてあげませんよ…。」

「ええー、そんなこと言わないでよ。京子ちゃんって、してる時はあんなに可愛いのになあ。さっきだって…」

「それ以上言ったら、怒りますよ。」

「ええっ、ごめん。」

本気で機嫌を損ねると思ったのか、彼方は素直に謝った。

「ふふっ。でも、京子ちゃんとこういうことできて、幸せだなあ。」

自分を抱きしめて、彼方は幸せそうに笑う。

しかし、京子は気付いていた。
まるで、以前の彼方のように明るく振る舞っているようにみえるが、その笑顔には、どことなく影が付きまとう。
無理して笑っているようにも見えるような、そんな不自然さを京子は感じていた。

麻丸。
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麻丸。

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