「箱庭の外の世界」
「箱庭の外の世界」
「いい加減、観念したらどうです?彼方さん。」
「ちょっ…ちょっと待って!まだ心の準備が…。」
リビングで彼方は京子に押し倒されていた。
ソファーの上で組み敷くように、京子は彼方に覆い被さる。
「さっきからうるさいですね。男らしくないですよ。」
京子は静かな声で、そっと彼方の髪を掻き分ける。
染毛で傷んだ茶髪が、するりと指を抜けた。
「ホント僕…こういうの初めてだから…っ!ちょっと怖いっていうか…。」
髪を梳く京子の指に怯えるように、彼方はじりじりと後退る。
そんな彼方の肩をしっかりと掴み、京子は意地悪そうな笑みを浮かべる。
「大人しくしてないと、痛いかもしれないですよ?」
普段クールに澄ましていて、あまり笑わない京子の笑顔は珍しい。
京子の大好きな優樹の前ですらあまり笑わないのに、
今は心底楽しそうに、意地悪な笑みで彼方を見据えていた。
「痛いのは嫌だけど…。ていうか、なんで京子ちゃんそんなに楽しそうなの…?」
彼方は近付く京子の手を掴み、必死に抵抗しながら聞く。
「怯えている彼方さん見てると、楽しくて楽しくして。」
そう言って、京子は怯える彼方に、ニッコリとした笑みを彼方に向ける。
彼方は顔を背けて、迫りくる京子に、ぎゅっと目を瞑る。
「ちょっと悪趣味なんじゃない…?」
震える彼方の声に、京子はさらに楽しそうに笑った。
「いいから、早く覚悟決めてくださいよ。」
無理矢理に京子が彼方に迫ると、
ふいに、落ち着いた足音と共に、リビングの扉が開いた。
「ただいまー…って、お前ら何やってるんだ…?」
そう言ったのは、落ち着いた雰囲気で、背の高く、
ダークブラウンの髪にゆるいパーマを当てた、20代後半くらいの男。
彼は二人の様子に驚いたように、口をポカンと開けて、紙袋を床に落とす。
「優樹さん…。」
その声に、彼方は起き上がり、その男の名を呼ぶ。
すると、優樹の後ろから、優樹よりさらに背の高い大男が、顔を覗かせた。
「どうしたの?…って、うわーうわー!京子ちゃんが彼方君のこと襲ってるー!」
銀髪で襟足だけを肩まで伸ばし、両耳に無数のピアスを空けて、
袖や肩口からタトゥーを覗かせた、垂れ目の大男。
彼は二人を茶化すように、大はしゃぎをする。
「な…っ!?ち、違いますよ誠さん!」
京子は慌てて否定する。
「京子…お兄ちゃん悲しいぞ…。」
優樹はわざとらしく両手で顔を覆って泣くふりをする。
「優樹君、京子ちゃんも大人になったんだよ…きっと。」
誠と呼ばれた男は、芝居がかった口調で茶化すように、優樹の肩に手を置く。
優樹は京子の兄であり、彼方の働くボーイズバーの店長で、
誠は彼方と同く、優樹の経営するボーイズバーの従業員だ。
二人は昔から仲が良いらしく、仕事がない昼間も二人でよく出かけている。
「だから違いますって!そんなんじゃないんですって!」
話を聞く様子もない二人に、京子はさらに声を上げて否定する。
そして慌てた様子で、組み敷いた彼方の上から退く。
「京子…。お兄ちゃんな、無理矢理はよくないと思うぞ?」
優樹は誠と同じように芝居がかった口調で、
しゃがんで京子と目を合わせて、諭すように優しい声で京子に言う。
「だからお兄ちゃん!これ!ピアス!!」
京子は手に持ったピアッサーを優樹に見せる。
「ピアス?」
ピアッサーを見て、優樹は首を傾げて聞き返す。
「自分で空けるのが怖いから…京子ちゃんにお願いしたんです。」
少し恥ずかしそうに、彼方は言う。
京子もそれに続く。
「彼方さんがビビッて、なかなか空けられなかったの。」
ピアッサーに付いているファーストピアスは、
鮮やかな赤い色の石がついたものだった。
優樹はそのピアッサーを手に取り、ニッコリと微笑んだ。
「それなら俺が空けてやろうか?」
心なしかその優樹の笑顔は、いつも見せる自然なものではなく、
彼方の目には、少し意地悪そうに見えた。
「優樹くんはねー、いつも俺のピアス空けてくれるんだよー。」
そう言って、誠は自分のピアスを見せるように髪をかき上げる。
誠の両耳には、数十個もの銀のピアスが輝いていた。
「…痛くないですか…?」
おずおずと彼方が聞くと、誠は優しく微笑んだ。
「平気だって。優樹くん、ピアス空けるの上手いし。」
髪をかき上げながら、誠はウインクをする。
誠の耳に揺れるピアスは、綺麗に穴が空いているようだった。
「じゃあ、お兄ちゃんお願いね。
彼方さん、自分で空けてほしいって言うくせに、ビビッて逃げるんだもん。」
京子が小さくため息を吐きながら彼方から離れると、
優樹は楽しそうな顔で彼方にじりじりと近付く。
「よし任せろ!…誠!」
そう言って、優樹は誠に目で合図をする。
「オッケー!」
誠は彼方の後ろに回り込んで、彼方の腕をガッチリと掴んで固定する。
自分よりも大柄の男、しかもドラムを叩く力強い腕の筋力に、
彼方の腕はピクリとも動かない。
「ええっ!?なにこれ!?」
突然のことに彼方が驚いていると、
優樹はニッコリと意地悪な笑みを浮かべた。
「よーし!動くなよ~彼方~。」
優樹は片手で彼方の顔を横に向かせて、固定する。
そして右耳の耳たぶに、ピアッサーを挟み込む。
阿吽の呼吸で彼方を抑え込んで、二人はニッコリと意地悪に笑った。
歳の離れた二人にとって、彼方は可愛い後輩であり、楽しいおもちゃだった。
「あー、ちなみにね、優樹くんのピアスの空け方、酷いから。」
「え…ええっ!?ちょ、ちょっとやっぱりやめます!!」
誠は怯える彼方の耳元で、楽しそうに呟く。
その言葉に、彼方はジタバタと体を動かして、誠の腕から逃れようとする。
「へーきへーき。ほら、3、2、1、で空けるぞー。」
楽しそうにピアッサーを彼方に近付ける優樹。
抵抗してみても、大人の男二人に抑え込まれては、どうしようもない。
京子はそんな三人の様子を、楽しそうに黙って見ていた。
「ほら、彼方君、覚悟きめなよ~。」
楽しそうに笑う誠の腕の力は、強かった。
「待って待ってまだ心の準備が…」
そうは言っても、二人は彼方を離す気配はない。
迫りくる優樹に、彼方はギュッと目を瞑る。
「ほーら、さーん、にー、」
始まった優樹の楽しそうなカウントダウンに、
彼方は目を瞑ったまま、体を震わせる。
「いーち…」
ゼロ。
という言葉は、なかった。
「…え?」
カウントダウンは終わったはずなのに、痛みがない。
彼方はおそるおそる目を開けると、優樹は一層楽しそうな顔をしていた。
「…にー、さーん、しー、ごー、よーん、さーん」
再び始まるカウントダウン。
「こうやってね、何度もビビらせてくるの。」
そう言った誠も、意地悪そうな笑みを彼方に向けていた。
確かに先程言った通り、優樹のピアスの空け方は、ひどい。
「ええっ…もうやだ…。」
ピアスを空けるという痛みに、力んだ彼方の体から、力が抜ける。
その様子を、京子は口元を覆って、肩を震わせて見ていた。
おそらくビビッている彼方を、笑っているのだろう。
「冗談だって!次でちゃんと開けるから。ホント、彼方は可愛いな~。」
優樹はそう言いながら、彼方の頭をポンポンと撫でる。
その仕草は、まるで泣く子供をあやすようだった。
「もう一思いに、やっちゃってください…。」
楽しそうに彼方を可愛がる優樹とは裏腹に、
彼方はすでに半べそをかいていた。
「わかったわかった。いくぞー?」
その言葉に、彼方はもう一度体を強張らせて目を瞑る。
「さーん、にー、いーち…」
始まったカウントダウン。
「にー、さーん、しー、」
しかし、また、ピアスを空ける痛みはなかった。
「またぁ…?」
大きなため息を吐いて、彼方は肩を落とす。
目を開けば、優樹の意地悪な笑顔が目に映った。
「彼方君ビビりすぎー。」
誠は彼方の後ろでケラケラと笑う。
完全に彼方は、二人のおもちゃだった。
「次で本当にいくぞー?さーん、にー、いーち…」
迫りくるカウントダウンに、再び彼方は目を瞑る。
けれど、もう半分諦めていた。
きっとまた、ビビらせるだけビビらせて、空けないのだろう。
それでも、もしかしたら、と思うと、体を強張らせずにはいられない。
「にー、さーん、しー、」
思った通り、ピアスはまだ開かない。
彼方は脱力して、小さく声を洩らした。
「もうヤダあ…。」
弱音を吐く彼方に、誠は苦笑する。
「ほら、二度あることは三度あるって言うじゃん?」
誠は彼方の顔を覗きこんで、垂れ目をさらに垂らして、
ニッコリと、意地悪そうな顔をする。
何度も繰り返されるカウントダウンに、彼方はもう疲れ切っていた。
「そうですけど、でも…」
力なく弱弱しい声で彼方は抗議しようとする。
けれど、その言葉を遮って、優樹は一層楽しそうに叫んだ。
「ほれ、どーん!」
カチッという音と共に、一瞬の鋭い痛み。
「…っ!」
彼方は言葉にならない悲鳴を飲み込む。
右耳が、なんだか熱い気がする。
痛みよりも、右耳の耳たぶがじんじんと、麻痺しているような感覚。
「一番気を抜いてる時がちょうどいいかな、と思って。」
優樹はニコニコと笑って、空になったピアッサーを彼方に見せた。
そして、優樹が彼方から離れると、誠も彼方の腕を離す。
自由になった手で、じんじんとする右耳に触れてみると、
そこには硬い感触があった。
油断しているうちに、ピアスが空いたのだ。
「お兄ちゃん、いい性格してるよね。」
京子はクッションを抱えて、顔を半分隠しながら、肩を震わせていた。
笑いを堪えられなくて、クッションで顔を隠しているのだろう。
「ホント、優樹君ってば、エグいよね。」
誠はケラケラ笑いながら、ソファーに腰掛ける。
「優樹さん酷いです…。」
彼方は半泣きでため息を吐きながら、身を起こす。
じんじんと疼く右耳を手で覆うと、熱を持っているように耳たぶが火照っていた。
「でも、思ったよりは痛くなかっただろ?」
ケロッとした顔で、優樹は誠の隣に腰掛ける。
「綺麗に真っ直ぐに開いたみたいだしね。」
そう言って、誠と優樹は顔を合わせて笑う。
「なんか二人に犯された気分…。」
彼方はそんな二人を見て、ため息を吐く。
そして、耳を押さえて、肩を落として小さな声で呟いた。
「彼方君やーらーしーいー。」
誠は茶化すように、彼方を指さして笑う。
「ほら拗ねるなって。
シュークリーム買ってきたから、一緒に食べようぜ。」
優樹もケラケラと笑って、持っていた紙袋から大きな箱を取り出す。
箱を開ければ、クリームが溢れんばかりに詰められたシュークリームがたくさん入っていた。
二人にいじられて、茶化されて、なんだかんだいって、甘やかされる。
これが彼方の日常だった。
日向の手を払って逃げ出してから、一週間が経とうとしていた。
百合は後悔していた。
どうしてあの時、感情を抑えられなかったのだろう。
きっと日向は浮気なんてしない。
そんなことわかりきっているはずなのに、
自分勝手な疑いで、日向を傷付けてしまった。
きっとあの女性とは何もない。
首筋の噛み跡も、自分には言えない何かがあったのだろう。
自分には言えない何か。
自分は日向にとって何なのだろう。
彼女、ではないのだろうか。
彼女であっても、言えないことなのだろうか。
あの日から日向からメールも電話もなかった。
もしかしたら、嫌われてしまったのかもしれない。
あんな子供じみた嫉妬を日向にぶつけてしまって、
面倒な女だと思われたのかもしれない。
困らせたかったわけでも、
悲しませたかったわけでも、
傷付けたかったわけでも、なかった。
言葉を、感情を、抑えられなかった自分に、腹が立つ。
最後に見た日向の表情は、泣いてしまいそうな、苦しそうな顔をしていた。
戸惑いの中に、不安が渦巻いているように、瞳が揺れていた。
そんな日向の顔を思い出すたび、胸が締め付けられる。
日向の笑顔を守りたいと思ったのに。
ずっと日向の隣で笑っていたいと思ったのに。
どうして間違えてしまったのだろう。
どうして日向を傷つけてしまったのだろう。
ぐるぐると考えてみても、答えなんか出るはずがなかった。
もう一度、日向に笑いかけてほしい。
日向に手を繋いでほしい。抱きしめてほしい。
二人で笑い合っていたい。
鳴らない携帯電話を見つめても、ただ時間だけが過ぎていくだけだ。
連絡が来ないのなら、こちらから連絡をすればいい。
ちゃんと話をしなければ、何も伝わらない。
自分が不安に思っていること、日向が隠していること。
ちゃんと言葉にしなければ、伝わらない。
百合は大きく息を吐いて、携帯電話を握りしめて、日向へのメールを打ち始めた。