「決意の朝」
「決意の朝」
「日向先輩、そろそろ起きないと。」
百合の声で、目が覚める。
窓からは、眩しいほどの朝日が降り注いでいた。
昨夜は夕方に少し眠ったせいか、百合の唇の感触に変な気分になったせいか、
なかなか寝付けず、遅くまで抱きしめた百合の寝顔を眺めていた。
百合の寝顔は、あどけなく無防備で可愛らしくて、
自分の隣で安心しきっている姿を見て、堪らなく嬉しくなった。
そんな百合は、日向に抱きしめられたまま、
眠そうな顔をした日向の頬を、指でつんつんとつつく。
日向は、まだ眠たい瞼を閉じ、うーんと低く唸って、百合を一層強く抱きしめる。
「…キスしてくれたら、起きる。」
百合が離れないように抱きしめて、日向は甘えるたような声を出す。
抱きしめた腕から伝わる優しい体温に、幸せを噛み締める。
日向は、こんな自分を受け止めてくれた百合が、愛おしくて仕方がなかった。
「もう、腕を解いてくれないと、キスできませんよ。」
ギュッと抱きしめられた百合は、身動きができずに、困った顔をする。
腕を解こうとしても、身をよじってみても、日向の唇には届かない。
「じゃあ、まだしばらくこのままだな。」
そう言って、必死にキスをしてくれようとする百合を抱きしめたまま、
日向は満足そうに微笑む。
そんな日向を見上げて、百合もまんざらでもないような笑顔を向ける。
「もー。日向先輩って、意外と甘えんぼですよね。」
百合はそう言って、日向の背中に手を回す。
ぎゅーっと抱きしめると、日向は幸せそうに、百合の額にキスをした。
隣に百合がいてくれることが、幸せすぎて、涙が出そうになる。
百合は、こんな自分の傍にいてくれる。
温かい笑顔で、抱きしめてくれる。
キスをして、好きだと言ってくれる。
真っ直ぐな瞳で、愛してくれる。
いつも自分は、救われてばかりだ。
自分だって、ちゃんと百合を守れるようになりたい。
もう二度と、百合を不安にさせたくない。
あの日のように、泣かせたくない。
そのためには、こんな弱いままじゃいられない。
ずっと、自分たちが守り続けた箱庭が、周りの環境が、
変わっていくことが怖かった。
彼方が変わっていくこと、自分が変わることが、怖かった。
けれど、日向は初めて、変わりたいと思った。
百合を大切にするために、強くなりたいと思った。
百合を抱きしめたまま、日向は百合の耳元で小さく囁く。
「百合、あのさ…俺、髪切ろうかな…。」
その言葉に、百合は驚いた。
以前、図書室で話した、
「髪を切ったら人は変わるか」という話を思い出す。
「髪を切ったから人が変わるのではない、変わりたいから髪を切るのだ」
そう百合が言えば、日向は髪を切ることを拒んだ。
「…変わりたいんですか?」
「…うん。」
窺うように百合が聞くと、日向は力強い声で答えた。
「私はそのままの日向先輩も、好きですよ。」
変わることを怖がって、伸ばし続けた髪。
百合は手を伸ばして、そのしなやかな黒髪に、触れてみる。
甘えるように指に絡む感触が、好きだった。
日向は髪を梳く百合の手に、自分の手をそっと添える。
そして、真っ直ぐに百合を見つめた。
「…情けない姿ばかり見せて、ごめん。
ちゃんと百合を守れるように、強くなりたいんだ。
百合を悲しませないように…強く。」
不安や、孤独に、怯えていた日向ではない。
迷いのない、真っ直ぐな瞳。
変わることを選んだ、強い決意。
百合はそんな日向に、心を射止められた。
割と熱い夏の朝。
目を覚ました京子は、洗面所で歯を磨いて、顔を洗う。
夏休み入って、ずっと兄のマンションに入り浸っている。
春休みとゴールデンウィーク、夏休みに冬休み。
毎年長期休みは、兄のマンションで二人っきりで過ごした。
学校が始まれば、自分のアパートに戻らなければいけないのだから、
夏休みくらい、ずっと兄の傍にいたいと、京子は思っていた。
しかし、いつもと違って、
今年は彼方も一緒に、兄のマンションに住み込んでいる。
最初は、京子は彼方が苦手だった。
ニコニコ、ヘラヘラ笑う、その仮面のような笑顔に、気味の悪さを感じていた。
でもそれは、何かを隠すような笑顔。
その笑顔の仮面の下に隠したのは、双子の兄である日向への恋心だった。
彼方は、少し自分に似ていた。
兄への想いを隠して、ただ黙って傍に居ようとする自分に。
だからだろうか。時々、辛そうに日向のことを話す彼方に、
無意識だけれど、自分を重ねてしまう。
兄に恋心を抱いてしまった自分は、馬鹿だと思う。
けれど、自分は彼方とは違う。
いつか兄が、自分以外の女性を選ぶことを、ちゃんとわかっている。
わかっていて、今はただ黙って、妹として、傍に居ようと思う。
それでいい。自分はそれで満足だ。
兄妹で結ばれることなんて、ない。
それが、有り得ないことだって、理解している。
いつか兄に、彼女ができたとしても、ちゃんと祝福できる。
今までもそうしてきた。これからもそうできる。
自分は、彼方とは違う。
京子は顔を拭いて、鏡を見つめる。
大丈夫だ。自分は間違えない。
ちゃんと聞き分けよく、「妹」として接しられる。
今日もちゃんと、優樹の「妹」として接しられる。
大きく息を吐いて、京子は洗面所を出た。
いつもこのくらいの時間には、優樹と彼方が仕事を終えて、
リビングでくつろいでいるはずだ。
リビングの扉を開けると、エアコンの涼しい風が頬を撫でる。
しかし、リビングには優樹の姿はなく、彼方一人がソファーに座っていた。
「お兄ちゃんは?」
京子が声を掛けると、彼方は振り返って答える。
仕事終わりのせいもあるのか、少し疲れた顔をしている気がする。
「部屋で寝てるよ。」
なんだか、甘ったるい香りがする。
部屋中を見渡すと、彼方は、煙草を燻らせていた。
兄の吸う煙草と違う、バニラの香り。
「あれ?彼方さん煙草吸ってましたっけ?」
自分の記憶では、彼方は非喫煙者だった気がする。
煙草を吸っている姿なんて、見たことがない。
「…気分転換、かな。」
彼方はテレビに視線を向けて、静かな声で答える。
「とんだ不良少年ですね。」
そもそも彼方は、未成年で高校生だ。
年齢を詐称して優樹の店で働くのも、飲酒をするのも、
煙草を吸うのも、許されてはいない。
「優樹さんの前で、そんなこと言わないでよ?」
横目で京子を見て、彼方は言う。
当然、そんなことを兄に言えるわけない。
兄に彼方を紹介した自分も、共犯みたいなものだ。
彼方の実年齢がわかるようなことは言わない、
それが、二人の中での暗黙のルールだった。
彼方は煙草に口を付けて、軽く吸うと、ケホケホと咳き込んだ。
煙草なんて、吸い慣れていないのだろう。
「咳き込むくらいなら、吸わなきゃいいのに。」
呆れたように京子は言う。
煙草の煙で苦しくなる呼吸を整えて、彼方は小さく息を吐いた。
「…煙草って、体に悪いんだよね。」
そんなの、わかりきったことだ。
それでも、自分の兄や誠のように、
好き好んで、煙草を吸い続ける人間だっている。
「当たり前じゃないですか。」
そう言って、京子は彼方の隣に座った。
彼方は何を思って煙草を吸い始めたのか。
ストレス解消とでも、思っているのか。
その割に、咳き込むし、口を付けることもなく、
ただ紫煙を燻らす煙草を持っているだけだ。
「日向が、本が好きで…僕は、そんなに難しい本とか読めないんだけど、
日向の読んでる本を…少しだけ、読んだことがあるんだ。」
彼方は長い睫毛を揺らして、ゆっくりと、たどたどしい言葉を紡ぐ。
紫煙が、ゆらりゆらりと、広がっては消えた。
「煙草って、ゆっくり自殺するようなものだ、
って、何かの本に書いてあった…気がする。」
小さく呟いた言葉。
それは、死にたいということだろうか。
だから、煙草を吸い始めたのだろうか。
「…彼方さんって、とことん馬鹿ですね。」
そう言って、京子は彼方を見つめる。
何かを考えるように、その表情は暗かった。
最近の彼方は、少し、情緒不安定だ。
自分の前では、あの気味の悪い作り笑いすら、しなくなった。
「…そうかな?」
「そうですよ。」
首を傾げる彼方に、京子は静かに答える。
馬鹿としか、言いようがない。
精神的にボロボロになるまで悩んでいるくせに、
何故か、見当違いなことばかりする彼方。
どうして、もっとうまく生きれないのかと、京子は思う。
「ねえ、僕さ、…来月も、…いや、ずっと、優樹さんの店で働こうかなあ。」
ボソッと、消え入りそうな声で、彼方は呟く。
長い睫毛が、切なげに揺れた。
彼方が優樹の店で働くのは、夏休みの間の今月末までだ。
当然、来月からは学校が始まるし、毎日通える距離ではない。
「学校はどうするんですか?」
「…やめる。」
京子が首を傾げて聞くと、彼方は煙草の煙を吸い込んで、
少し苦しそうに顔を歪めて、ゆっくりと紫煙を吐き出す。
そして、再びケホケホと咳き込んだ。
「卒業まであと半年じゃないですか。もったいない。」
咳き込む彼方を横目で見て、京子は呆れたようにため息を吐く。
今は八月だ。
あと半年で高校を卒業できるというのに、
どうして、わざわざ学校をやめるなどと、今更になって言いだすのか。
もったいないとは、思わないのか。
彼方は暗い表情のまま、ゆっくりと煙草を灰皿に押し付けて、火を消した。
「家に帰るのが、ちょっと…怖いんだ。」
煙が消えたと同時に、彼方は思いつめたように、小さく言葉を洩らす。
京子には、その言葉の意味が、すぐにわかった。
「それは…日向さんに会うのが?」
京子の言葉に、彼方は大きくため息を吐く。
おそらく図星だろう。
いつだって彼方を悩ませるのは、双子の兄の日向のことだった。
「…うん。…でも、日向に会いたい…。」
彼方は両手で顔を覆って、俯く。
京子には、彼方の表情が見えない。
けれど、きっと、辛そうな顔をしているのだろう。
「そんなに会いたいなら、会ってくればいいじゃないですか。」
静かに、京子は言う。
彼方は顔を隠して俯いたまま、泣きそうな声で呟いた。
「…会えないんだってば。」
鼻を啜る音が聞こえる。
彼方はまた、泣いているのか。
最近は胡散臭い作り笑いの代わりに、
辛そうな顔や、泣き顔ばかり見ている気がする。
一緒の暮らすうちにわかったのは、
彼方が不器用で、愚かで、寂しい人だということ。
「会えないなんて、自分で勝手に決めつけてるだけじゃないですか。
彼方さんは、会う勇気がないだけじゃないですか?」
京子の問いに、彼方は何も答えなかった。
何も答えない代わりに、彼方は肩を震わせた。
きっと、日向を想って、泣いているのだろう。
「…意気地なし。」
静かな部屋には、京子の吐き捨てるような言葉だけが響いた。