「変わる覚悟」

「変わる覚悟」



「指、切るなよ?」

日向は、心配そうに百合の手元を見つめる。

「もーっ!そんなに不器用じゃないですー!」

百合は少し拗ねたように、頬を膨らませた。

日向と百合は、将悟の家の台所で朝食の準備をしていた。
泊めてもらっているお礼に、と言うと、将悟の祖母は快く台所を貸してくれた。
将悟の広い家は静かで、まだ誰も起きてきていないようだった。

台所には日向の軽快なリズムで刻む包丁の音と、
おそるおそる不器用にじゃがいもの皮を剥く、百合の可愛らしい唸り声が響いていた。

「日向君、裏の畑で茄子を取ってきたの。よかったら使ってね。」

振り返れば、将悟の祖母が、籠にたくさんの茄子を乗せて、ニコニコと立っていた。

「有難う御座います。」

日向は祖母から茄子を受け取り、礼を言う。
大きさも形も不揃いな茄子。
いかにも家庭菜園で作った野菜という感じだ。

将悟の祖母は、優しい人だった。
柔らかい物腰で、ニコニコとしていて、可愛いおばあちゃんという印象だ。
ある程度の日向の事情は、将悟から聞いているのか、日向には何も聞かず、
「気を使わないで、ゆっくりしていきなさい」と言ってくれた。

「わあ!何にするんですかー?」

百合は日向が受け取った茄子を見て、目をキラキラと輝かせる。
人数も多いし、亮太はよく食べるし、食材が増えるのは有難かった。

「煮びたしにでもするか。」

日向はそう言って、微笑む。
百合は少し不器用だから、簡単な料理の方がいいだろう。
いくら不器用な百合でも、茄子くらい切れるはずだ。

調理に取り掛かると、ふいに台所の扉が開く。
現れたのは、将悟だった。
足元に三匹の猫を連れて、将悟は台所に入ってくる。

「おはよ…って…っ!?」

言いかけた将悟は、日向を見て、絶句する。
そして、気まずそうに、目を逸らした。
その後ろから、大きな欠伸をしながら誠も顔を覗かせた。

「どーしたの?将君…」

そう言いながら、誠も日向を見て、一瞬唖然としたが、
すぐにニヤニヤと笑って、茶化すように言った。

「昨晩はお楽しみでしたね!」

「…え?」

日向は言われた意味がわからず、首を傾げる。
百合は日向の隣で、口元を手で覆って、笑いを堪えているようだった。
将悟の祖母も、相変わらずニコニコと微笑んでいた。

「お前…ちゃんと鏡見たか…?」

将悟は呆れたように、ため息を吐く。

寝ぐせでもついているだろうか。
いや、顔を洗う時に鏡を見たけれど、寝ぐせなんてなかった。

「鏡?」

不思議そうに首を傾げる日向に、将悟は目を逸らしたまま小さく呟いた。

「いいから、洗面所行って鏡見て来い…。」



そう将悟に促されて、日向は洗面所に向かう。
百合も後ろからニコニコしたまま、ついてきた。

みんな何故ニヤニヤとしていたのだろう。
茶化すように言った、誠の言葉の意味は何だろう。

そう思いながら、日向は洗面所に入る。
そして、鏡を見て、日向は絶句した。

「…百合。」

チラリと、後ろで微笑む百合を見る。
日向の首筋には、百合が残した赤いキスマークが、たくさんついていた。

「えへへー。日向先輩が、もっと、って言ったんですよー?」

百合は悪びれる様子もなく、首を傾げて微笑む。
そんなに幸せそうな笑顔をされると、怒るのも、呆れるのも、馬鹿らしくなる。
確かに「もっと」と、言ってしまったのは自分だし、
結局、日向は百合の笑顔に、絆されてしまう。

「なんか…恥ずかしいだろ…。」

日向は小さくため息を吐いて、両手で首元を覆って、キスマークを隠す。

どうして顔を洗ったときに、気付かなかったのだろう。
将悟や、誠や、将悟の祖母にまで、このキスマークを見られてしまった。
しかも、百合と一緒に眠った次の日、というのが、余計に生々しい。
いかがわしいことなんて、一切していないけれど、
あの誠のニヤケ面と、将悟の気まずそうな顔は、確実に勘違いされたと思う。

「そーゆーのは、ちゃんと隠しとけ。」

そう言って、将悟は洗面所を覗いて、日向にタオルを投げ渡す。
これを首に巻いて、キスマークを隠せと言うのだろう。
当然だ。こんな生々しいもの、恥ずかしくてみんなには見せられない。
それに、亮太に見つかれば、うるさく問いただされるだろう。

日向はため息を吐いて、首にタオルを巻くことにした。




朝食は賑やかなものだった。
日向と百合、将悟、誠、亮太、真紀、
そして、将悟の祖母も一緒に、食卓を囲んだ。
少し腫れた頬も、頬の傷跡も、首に巻いたタオルにも、
亮太は少し不思議そうな表情をしたが、何も言わないでいてくれた。

「ええっ!?これ日向が作ったのか!?」

「すごっ!女子力やばー!」

並べられた朝食に、驚きを隠せない亮太と真紀。
テーブルの上には、焼き魚に卵焼き、ポテトサラダ、
茄子の煮びたし、そして味噌汁。
日向が作り慣れた、ごく一般的な日本人の朝食だった。

「私も手伝いましたよ!」

百合はそう言って、誇らしげに胸を張る。

「あー、でも茄子の切込み雑!包丁下手だなあ!」

亮太は笑いながら、茄子の煮びたしをつつく。

「ホント、私の方が上手ね。」

真紀も、少し雑な切込みの茄子を眺めて、鼻で笑う。

「お前ら、作ってもらっておいて、文句言うなよ。」

将悟は粗を探す二人をたしなめるように、呆れた口調で言う。

「見た目はちょっとアレだけど、美味しいよねー。」

誠は、もうすでに食べ始めていた。

「やっぱ男の料理って感じだよなー。」

亮太は悪びれる様子もなく、そう言って、乱雑に切られた茄子を口に入れる。
味付けは日向がやったのだから、問題ないだろう。
けれど、みんなが笑う、その切込みを入れたのは、日向じゃない。

「…それ、百合が切ったんだ。」

「…え?」

ボソッと日向が呟くと、亮太はマヌケに口をポカンと開けた。
この少し雑な茄子の切込みを、まさか百合がやったなんて、
思ってもいなかったのだろう。

「…もう、坂野先輩なんて知らないですー。」

百合は日向の隣で、拗ねたように頬を膨らませて、そっぽを向く。

「ごめん!百合ちゃん~!」

両手を合わせて、必死に頭を下げる亮太。
それを見て、亮太の隣で、真紀は口元を手で覆って、笑いを堪えていた。

「ふん、いいですよーっだ。私には日向先輩がいますもん。
 日向先輩はお料理も上手だし、カッコよくて、優しいんですよ!」

百合は頬を膨らませたまま、隣にいる日向の腕にしがみつく。
その仕草が、やけに可愛らしくて、嬉しいけれど、
みんなの前では、少し恥ずかしかった。

「百合…。」

日向は照れて、百合の手を剥がそうとする。
けれど、百合は離れてはくれなかった。

「ちょっと…こんなところで惚気ないでよ…。」

日向にしがみつく百合を見て、真紀は頬杖をついて、ため息を吐く。
それでも百合は、嬉しそうに日向の腕にしがみついていた。

「日向君のココには、百合ちゃんのキスマークがいっぱいあるもんね~。」

自分の首筋を指さして、誠は茶化すように笑う。
首に巻いたタオルの下に隠した、百合の唇の痕。

「ええっ!?まじで!?」

亮太は驚いたように、口をポカンと開ける。
真紀も亮太の隣で、言葉を無くしていた。

「ちょっ…!誠さん…飯時に、そんな話しないでください…。」

将悟は慌てて、誠を制止しようとする。
けれど、誠は意地悪な笑みで、楽しそうに言葉を続ける。

「ホントのことだもんねー?」

照れて、恥ずかしそうに俯いている日向と、
ニコニコと微笑む百合を見つめて、誠は茶化すように、首を傾げる。

「ねー。」

百合は照れる様子もなく、誠に同調するように、首を傾げた。
肯定するような百合の仕草に、みんなの視線が、日向へと集まる。
その視線に、日向は何も言えず俯いたまま、さらに視線を落とす。

「日向…大人になったな…。」

亮太は、わざとらしくしみじみと呟く。

「…もう、やめてくれ…。」

日向は恥ずかしさで赤くなった顔を両手で覆って、小さく呟いた。



それから、みんなでいろんなことをした。
猫達と遊んだり、夏らしくスイカ割りをしたりした。
そして、みんなで昼食にカレーを作った。

日向の料理慣れした包丁捌きにみんなが驚き、
亮太の大胆で、不器用すぎる包丁捌きをみんなで笑って、
百合の危うすぎる皮むきに、みんなで肝を冷やした。
そんな二人にため息を吐きながら、
丁寧に包丁を教える真紀の、意外と面倒見がいい一面を知った。
将悟は、「指を切るのが怖い」と言って、一度も包丁に触れなかった。
ギターを弾く繊細な指を、傷つけたくなかったのだろう。
誠は、ただニコニコと猫を抱えて、みんなが料理をする様子を眺めていた。

出来上がったカレーは、野菜の大きさも形もバラバラで、不格好なものだった。
それでも、みんなではしゃぎながら、騒ぎながら、作ったカレーは美味しかった。
久しぶりに、賑やかで楽しい時間を過ごしたと思う。


けれど、そんな楽しい時間は過ぎるのが早かった。
夕日が照らし始める頃になると、亮太と真紀は家に帰ってしまった。
百合も、家に帰さなければいけない。

百合を駅まで送る道中は、ずっと手を繋いでいた。
一緒に一晩過ごした後だと、離れるのがとても名残惜しい。
繋いだ手を離したら、また百合が離れていってしまうのではないかと、不安になる。
駅のホームで電車を待つ間、このまま時間が止まってしまえばいい、とさえ思った。

百合は日向の少し切なそうな表情に気付いたのか、
繋いだ手を引いて、上目づかいで日向を見上げて、首を傾げる。

「日向先輩、ちょっと、しゃがんでください。」

その言葉に、日向は意味がわからずに、不思議そうな顔をした。
けれど、素直に膝を曲げて、少し腰を屈めて、百合と目線を合わせる。
百合は満足そうに日向を真っ直ぐに見つめて、日向の肩にそっと、手を添える。
そして、つま先を伸ばして、日向の頬に、軽くキスをした。

柔らかい百合の唇が、日向の頬に触れる。

「百合…こんなところで…」

日向は百合にキスされた頬を手で押さえて、顔を赤らめる。
いくら駅のホームには誰もいないとはいえ、ここは外だ。
誰に見られるかもわからないし、少し、恥ずかしい。

「えへへ。いいじゃないですかー。」

そう言って、百合はニッコリと微笑む。
その柔らかい笑顔が、好きだった。

「…恥ずかしいだろ。」

日向は照れて、顔を背ける。
すると、百合は小さな声で呟いた。

「…日向先輩が、寂しそうな顔をしてたから。」

「え…?」

日向の不安を感じたのか、百合は真っ直ぐな瞳で日向を見つめる。
その瞳は力強くて、不安なんて簡単に、溶かしてしまうほどだった。

変わりたいと言ったばかりなのに、
些細なことで不安になる自分に、少し恥ずかしくなる。
そんな自分に、百合はいつだって、優しく微笑んでくれる。

百合に気を使わせないように、不安にさせないように、
言葉だけではなく、ちゃんと強くなりたいと、日向は思った。

「大丈夫ですよ。みんな、日向先輩のこと、大事に思ってますよ。」

そう言って、百合はふわりと微笑んだ。





「俺も…家、帰るよ。」

百合を駅まで送って、将悟の家に帰ってきた日向は、白い子猫を撫でながら呟いた。

白い子猫のアンズは、腹を撫でる日向の手に、
気持ちよさそうに、首を伸ばして、首輪の鈴を鳴らし、小さく鳴き声を洩らした。
将悟より、誠より、何故かアンズは日向に懐いていた。
野良猫だった頃の孤独感が、日向と少し似ていたのだろう。

「…は?帰ってどうするんだよ…。」

日向の言葉に、将悟は驚いたように、怪訝そうな顔を日向に向ける。
俯いてアンズを見つめる日向の表情は、昨日までの暗いものではなかった。

「もう母親も、家にいないかもしれないし…」

強い決意に溢れた、真っ直ぐな瞳。
膝を抱えて、俯いて黙っていた昨日までとは違う。

「それに、俺はもう、大丈夫だよ。」

そう言って、顔を上げた日向は、小さく笑った。
その笑顔は、迷いなんてない、朗らかなものだった。

「…なんか変わったな、お前。」

将悟は、小さく微笑む日向をじーっと見つめて、呟く。

自分が知らなかっただけかもしれないが、日向は百合の前では、よく笑う。
いつもクールに澄ましていると思っていたが、照れたり、恥ずかしがったり、
拗ねたり、困ったりと、意外と表情がコロコロ変わる。
そんな風に日向を変えたのは、きっと百合だ。

「そうか?」

日向は、自分を見つめる将悟に不思議そうな顔をして、首を傾げる。
そして、少し照れたように呟いた。

「…まあ、でも…百合のおかげ、かな。」

そう言って、眼を逸らして、恥ずかしそうに頬を掻く日向は、
すっかり暗い表情も消えて、スッキリとした顔だった。

麻丸。
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麻丸。

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