「椅子取りゲーム」

「椅子取りゲーム」



その日の日向は、元気がなかった。

いつものように、日向はバイトが終わったら、
学校の近くの駅まで、自分を迎えに来てくれる。
そしてどちらかともなく手を繋ぎ、日向の家までの距離を歩く。

しかし、その日の日向は、いつも以上に無口だった。
落ち込んでいるというよりも、どこか上の空のような様子で、
何かを考えるかのように、ぼーっとしていた。
そして、時折どこか遠くを見つめたまま、辛そうな顔をして、
ぎゅっと、いつもより少し力強く、手を握った。

日向の家に着いて、隣り合ってソファーに座り、
手を繋いだまま、何をするわけでもなく、テレビを見て過ごす。
静かな時間を共有するのが、二人の日課だった。

けれど、日向はテレビを見つめているのか、どこか別のところを見ているのか、
その視線は遠くにあるように見えた。
繋いだ手は力強くて、まるで自分の存在を確かめているかのようだった。

日向はわかりやすい。隠し事ができない人だ。
何か悲しいことや、辛いことがあれば、口を噤む。
誰にも言わず、だた黙って独りで抱え込む。
それが日向の悪い癖だと、百合はわかっていて、何も聞けなかった。
支えてあげたいと、守りたいと、そう思っていても、
日向は、その心の内を見せようとはしない。
無理に聞き出そうとすれば、その脆く儚い心が壊れてしまいそうで、怖かった。

ふいに、その遠くを見つめる長い睫毛が揺れたと思えば、日向は静かに百合を抱きしめた。
肩口に顔を埋めて、愛おしそうに背中に手を回す。
短くなった髪が、チクチクと肌を掠めた。

「百合…好きだよ。…百合が一番、好きだよ。」

その声は、縋るような声だった。

―何かあったんですか?
百合は、そう問いたい気持ちを押し込める。
余計な詮索は、日向を戸惑わせるだけだ。

「私も、日向先輩のことが、一番大好きですよ。」

そう言って、日向の背中に手を回す。

最初は猫のようだと思った。
素っ気なくて、あまり構われるのが好きじゃなくて、気まぐれ。
けれど、日向のことを知っていくうちに、全く真逆であることに気付いた。
素っ気ないのは、言葉が不器用だから。
構われるのが好きじゃないのではなくて、上手く甘えられないだけ。
気まぐれなんてことはなくて、ただ言葉にする勇気がないだけ。
誰よりも孤独を怖がるのに、傷付くことが怖いから、独りになりたがる不器用な人。

しかし、それも、将悟の家に泊まったあの夜から変わった。
日向本人が「変わりたい」と、そう望んだ。
こうやって、甘えるように、日向から抱きしめることも多くなった。
照れながらも、自分の気持ちを素直に伝えることも多くなった。
百合は日向に求められることが、嬉しかった。

けれど、今日の日向は、何かが少し違った。

「…あのさ、今日…泊まらない…?」

日向は、躊躇いがちに、甘えた声を洩らす。
肩口に顔を埋めたままで、表情は見えない。

「え?いいんですか?」

百合は日向の言葉に、嬉しく思いながらも、少し戸惑った。
日向からそんなことを言うのが、意外だったからだ。
いつもは、帰り際に名残惜しくなっても、
「ちゃんと待っててくれる人がいるんだから帰らないと駄目だ」とか、
「女の子が遅くまで出かけるのはよくない」と、寂しそうな顔で口に出すのに。
今日はどうしたのだろう。

「うん。…まだ、一緒にいたい…。」

先程よりもギュッと、強く抱きしめられる。
甘える子供のような仕草に、百合は少し戸惑いつつ、
日向が『まだ傍にいたい』と、言ってくれることが嬉しかった。
けれど、そんな珍しいことを言うのは、やっぱり日向に何かあったからだろう。
聞きたい。けれど、困らせたくない。
百合は無理に聞き出そうはせずに、日向から話してくれるのを待とうと思った。


それから、いつものように一緒にスーパーに行って夕飯の買い出しをした。
「今晩のメニューを何にしようか」と、スーパーの中でうろうろ悩みながら、
「簡単なものにしよう」という日向の提案で、豚のしょうが焼きに決まった。
材料を買って、家に帰って一緒に調理をする。
不器用な自分の包丁捌きを、日向はチラチラと心配そうに見つめて、
そのころには、落ち込んだ様子ではなくなっていた。

料理慣れしていない自分と違って、
日向は手際よく、豚のしょうが焼きの下ごしらえをしながら、
付け合わせのサラダ、大根の煮物、味噌汁を、慣れた手つきで器用に作り上げる。

日向の家庭事情を知った時に気付いたのは、
日向は「料理が好き」とか「料理が趣味」というわけではなく、
ただ、彼方と二人で生きる術として「料理が得意」になったのだ。
家に帰らない母親の代わりに、毎日二人の食事を作っていたのだから、
料理慣れしているのも、手際がいいのも、当然だろう。

出来上がった夕食を食べながら、
たまたまテレビを付けたらやっていたクイズ番組を見た。
常識問題から四文字熟語や難解な問題などいろいろあって、
二人であーでもない、こーでもない、と、そのクイズ番組に夢中になった。
意外と日向は、難しい漢字や、問題を、涼しい顔で答えていた。
日向曰く「成績はそんなによくないけど、こういうのは本で読んだことがある」らしい。
そういえば、図書室ではいつも本を読んでいた。
「本が好きなんですか?」と問えば、「そんなわけじゃない。ただの、暇つぶし」と答えた。

百合が最初に見た日向は、どこか寂しい人だった。
どうしてそう思ったのかと問われれば、それは答えに困る。
図書委員会の仕事で、一人でカウンターに座っていた日向は、
ニコリとも笑わず、ただ事務的に返却や貸し出し作業をしていた。
暇があれば本を開き、視線を上げることは、ほとんどなかった。
最初に本の貸し出しをしてもらうために声を掛けた時、
目も合わせない素っ気なさに、少し怖い印象を受けた。
けれど、長い睫毛の先の、伏し目がちの瞳が、何故か妙に気になった。
「この人は何を見ているんだろう」
「どこか自分と違う世界を生きている気がする」
そう思ったのを覚えている。

今思えば、こんな家庭環境のせいだと納得できる。
頼れる人もいなくて、甘えられる人もいなくて、
彼方とたった二人きりで生きてきた、
子供なのに、子供でいられなかった子供。

一つ、一つと日向のことを知るたびに、
自分は、日向の手を離してはいけない。
傍にいなくてはならないと、そう思った。
そんな日向を、たくさん甘やかしたい。たくさん満たしてあげたい。
幸せだと、感じられるようにしてあげたいと思っていた。

夕食を終えて、食器を片付けて、テレビを見ながらだらだらして過ごした。
時折、日向は愛しそうに自分を抱きしめて、切ない溜息を洩らす。
その溜息の意味を、百合は聞けずにいた。

時間も遅くなり、そろそろ寝る準備をしようと、シャワーを借りた。
着替えは日向がTシャツとハーフパンツを貸してくれた。
シャワーを終えて、体を拭いて日向のTシャツに袖を通すと、
思った以上に体格が違いすぎて、大きすぎるくらいだった。
日向は男子の中で特別に背が高いわけでも、体格がいいわけでもない。
けれど、貸してもらったTシャツは、襟元もぶかぶかで肩が出てしまうし、
裾が太ももの真ん中くらいにまでかかって、まるでワンピースを着ているかのようだった。
「ハーフパンツは必要ないか」そう思って、そのままリビングに戻ると、日向は驚いた顔をした。
頬を少し赤くして、目を逸らしながら、「ちゃんと服着て…」と消え入りそうな声を洩らした。
そんなこと言われてもハーフパンツのウエストはぶかぶかだし、
例え着たとしても、すぐにずり落ちてしまう。
そう告げると、日向は「ちょっと待ってて」と言って奥の部屋へ行った。

日向は過保護だ。
まるで年頃の娘を持つ父親のようなことを言う。
いや、たまに自分の父親より、父親っぽいことを言うと思う。
「人前でそんなに肌を出すな」とか「あまり短いスカートを履くな」とか。
ソファーに座っていても、さりげなくブランケットを膝に掛けてくれる。
そんな日向に、過保護だと思いつつ、ああ、大事にされているんだな、と嬉しくなる。

けれど、恋人同士なんだから、そんなに気にしなくてもいいと思う。
胸元の開いたキャミソールも、ふわふわのミニスカートも、
日向に可愛いと思ってほしいから、着ているのに。
もっと見てくれてもいいのに、とは思っているけれど、口には出さない。
いや、恥ずかしくて、そんなこと言えない。

しばらくして、日向がリビングに戻ってくる。
手には、綺麗に畳まれた服を持っていた。

「俺の中学の頃の服だけど…。」

そう言って差し出された服は、仄かに湿っていて、消臭剤の香りがした。
きっと、箪笥の奥の奥からひっぱり出して、慌てて消臭剤でもかけたのだろう。
几帳面な日向らしい。

その服を受け取って、脱衣所に戻って着替える。
まだ少し大きいけれど、先程よりは様になったと思う。
百合が着替え終えてリビングに戻ると、日向は百合の姿に、安心したような顔をした。
そして、入れ替わるように、日向もシャワーを浴びに風呂場へ行ってしまった。

そういえば、さっきまでのぶかぶかのTシャツも、今着ているTシャツも、半袖だった。
制服でも、私服でも、常に長袖の服しか着ない日向が、
半袖の服も持っていることに、百合は驚いた。
日向の腕や体に付けられた、無数の痣と傷。
その傷だらけの体を隠すために、学校でも、外でも、
自分の前ですら、長袖を脱ぐことも、肌を晒すこともない。
けれど、多分、彼方の前でだけは、隠すことなんてしないのだろう。

噛み跡と共に、ほのかにチラつく彼方の影。
日向にとって、彼方は、かけがえのない存在であることは、わかっている。
人間にとって、大切なものが一つだけとは限らないことも、わかっている。
それでも、自分だけを見ていてくれたらいいのに、とも思ってしまう。
そんなことを言ったら、日向を困らせてしまうのに。

―なんだか、彼方と日向のことを取り合っているみたいだ。

そんなことを思う。
彼方は日向の双子の弟で、
自分は日向の彼女であることは、覆りようがない事実なのに。
日向だって、自分のことを大切にしてくれている。
双子の弟に嫉妬するなんて、馬鹿みたいだと思うのに。
自分は日向の傍にいるけれど、日向の一番近くにいたのは彼方だ。
日向が一番大切だと思っているのは、自分と彼方、どっちだろう。

そんなことを考えながら、百合はリビングで日向がシャワーを終えるのを待っていた。
よくリビングを見渡せば、部屋の中にはあまり物がないことに気付く。
年頃の男の子なのだから、漫画やゲーム、プラモデルや趣味のものくらい、あってもいいのに。
話を聞いてある限り、日向に趣味らしい趣味はないことは知ってるけれど、
この家には家具や家電、服など、生活できるだけの必要最低限のものしかなかった。
この部屋で、日向はどうやって育ったのか。
彼方がいない今、どうやって一人で過ごしているのか。

なんて思っていると、日向がシャワーを終えてリビングに戻ってくる。
まだ髪は仄かに湿っていて、石鹸のいい香りがした。
着替えた服も、やはり長袖で、肌を隠していた。
やっぱり自分には、見せないのか。


夜も更けてきて、そろそろ寝ようということで、日向の部屋に案内された。
いつもはリビングで過ごしていたし、日向の部屋に入るのは初めてだった。
案内された部屋も、あまり物がなく、がらんとしていた。
綺麗に片付けられている、と言えば聞こえはいいが、クローゼットと箪笥、
小さな本棚、膝くらいの高さの小さな机と、シングルベッドが一つ。
とても年頃の男の子の部屋とは思えないほど、殺風景だった。

「日向先輩のお部屋ですか?」

わかりきっていることを聞く。
それ以外に、誰の部屋だというのだ。
けれど、この寂しい部屋を見たら、そう聞くしかできなかった。

「うん。俺と…彼方の部屋。」

そう言って、日向は表情を曇らせる。
寂しそうに、切なそうに長い睫毛を揺らした。
よく見れば、壁の縁には、制服の学ランが二着掛けられていた。
日向のものと、おそらく彼方のものだろう。

「ここで、ずっと一緒に眠っていたんだ。」

日向はベッドに腰掛けて、切なそうに布団をなぞった。

「一緒に?」

どう見たってシングルベッドだ。
男子高校生が二人で眠れる広さではない。
こんな狭いベッドで、二人は身を寄せ合って眠っていたのか。
幼いころからずっと、変わることなく、二人きりで眠っていたのか。

「うん。彼方は寝相が悪いから、ベッドから落ちないように俺がこっち側。
 まあ…彼方が寝返り打って、何回か落とされたことはあるけど。」

思い出すように、日向は切なそうに笑う。
こっち側、と言うのは、壁側ではなく、その反対。
彼方がベッドから落ちないように、日向が壁になっていたのだろう。

百合は部屋の真ん中で立ち尽くしたまま、日向の話を聞いていた。

「最近さ、…一人で眠るのが、怖くて…。」

日向は目を伏せて、小さく呟く。

「怖い?」

「眠る時も、目が覚めた時も、『ああ、独りなんだな』って、…思って。」

夏休みが始まってから、彼方はアルバイトでこの町を離れていると聞く。
それ以前からも、日向を避けるようになったと聞いた。
そういえば、電車の中で会った彼方は、少し変わった気がした。
髪を切ったからではない。染めたからではない。
何かが、根本的に違った。
それが何かと聞かれれば、答えに困るのだけれど。

「日向先輩は独りじゃないですよ。私がいます。」

そう言って、百合は日向の隣に腰掛ける。
ぎゅっと、ベッドを撫でる日向の手を握れば、日向の顔が綻んだ。

寂しがり、怖がりなこの人は、誰よりも人の体温を求めている。
人に受け入れられることを、望まれることを願っている。
すぐに凍えそうになる心を、温めてあげないと。

長い睫毛が上がったと思えば、そっと日向に抱きしめられる。
体温を感じながら、日向は百合の長い髪を梳いて、愛おしそうに指で遊ぶ。

「同じシャンプーの匂い…。」

肩口に顔を埋めて、日向は切なそうな溜息を漏らす。
こうして触れ合うことが、日向は好きみたいだ。
自分の小さな肩に寄り掛かるように凭れて、甘えるように温もりを貪る。
そんな日向の、自分だけに見せる子供のような姿が、好きだった。

すっかり短くなった髪の隙間から覗く日向の首筋には、
自分が付けた赤い印が、未だ色濃く残っていた。
それはまるで、首輪のように日向を縛るもののようで、百合は優越感に浸る。

この人は自分のもの。他の誰のものでもない。
手を繋ぐのも、こうして触れ合うのも、照れながら甘えてくるのも、自分だけだ。
弱くて、脆くて、繊細で綺麗な日向は、自分だけの恋人だ。

百合は満足げな笑みを浮かべて、日向の首筋の印を指でなぞる。
一つ、二つ、三つ…無数の印を、確かめるように数える。

「くすぐったい。」

日向は肩を震わせて、顔を上げる。
くすぐったいと言いながらも、その表情は嬉しそうだった。

「えへへ。だって、日向先輩は私のもの、っていう印ですもん。」

そう言って微笑む百合は、日向の首筋をなぞる手を止めなかった。
日焼け一つしていない、滑らかな白肌に咲いた、赤い花。

こんなに綺麗な肌を傷をつけるなんて、どうしてそんなことができるのだろう。
日向の母親は、日向のことを愛してはいないのだろうか。
親は無条件に、自分の子供を大切にするものではないのか。
そんな当たり前な愛情ですら、日向には与えられないのか。
ずっと愛情を与えられることもなく、ほったらかしにされて、
たまに母親が帰ってきたかと思えば、暴力を振るわれるなんて、可哀想な人だと思う。
しかし、これが同情かどうかも、わからない。
けれど、自分と日向は、性格も趣味も、育ってきた環境も、何もかもが違いすぎる。
だからこそ、惹かれたのだ。

赤い印から視線を上げると、日向は切なそうな瞳で自分を見つめていた。

「…ね、俺も痕つけたい…。」

そう言って、百合の肩に手を添える。
日向の角張った指が、少し不安そうに震えた。
痛いほどに自分を見つめる日向に、百合は戸惑った。

「え…?」

いつもの少年の顔ではない。切なそうに情欲に染まった男の顔。
それが何故か、あの日の彼方に重なって―鳥肌が立った。

「…いや…っ!!」

百合は、日向を拒絶するように、突き飛ばした。
無意識だった。反射的だった。
日向を拒む理由なんか、ないのに。

日向は明らかに傷付いた顔をして、百合の肩から手を離す。
そして、辛そうに瞳を揺らして、目を伏せた。

「…そっか。ごめん。」

日向の残念そうな小さな声に、すぐに後悔が押し寄せる。
日向を拒みたくなんか、ないのに。
傷付けるつもりも、なかったのに。
どうしてこんなことをしてしまったのか、罪悪感でいっぱいになった。
なんで今更、彼方に乱暴されたことを思い出したのか。
なんで、今。

「あ…。ご…ごめんなさい…。」

百合は慌てて、隣で目を伏せる日向に声を掛ける。
日向は肩を落として、少し背中を丸めて俯いていた。

「ううん。…百合の嫌がることはしないよ。」

小さな声を洩らして、日向は膝の上で手を組んで、額を押し付ける。
綺麗な黒髪の隙間から見えた表情は、泣きそうだった。

「俺さ…、百合に嫌われるのが…一番怖い…。」

日向は辛そうに自分の手をぎゅっと握って、眉を寄せて、唇を噛む。
そんな顔を、させたかったわけじゃないのに。
孤独から守ってあげたいと思っていたのに。
日向には、幸せそうな顔で笑っていてほしいのに。

「あ、あの…嫌だったわけじゃなくて…その…」

百合は必死で言葉を探す。
『彼方と重なって見えて、怖くなった』なんて、言えるわけがない。
そんなことを言ったら、更に日向を傷つけるだけだ。
けれど、上手い言葉が思いつかない。
言い訳がましい言葉を並べても、きっと日向の不安は拭えない。
下手な言い訳を並べても、きっとモヤモヤと日向の心に残るだろう。

言いかけた百合の口は、何も紡げず、俯いて押し黙ってしまう。

「…彼方のこと、…思い出した?」

百合が何も言えないままでいると、躊躇いがちに、日向が口を開いた。
視線を向けると、チラリと窺うように、日向は横目で百合を見ていた。

「え…えっと…。」

どうしてわかってしまったのだろう。
自分では『平気だ』『大丈夫だ』と思っていたのに。
亮太や将悟にも、そう言えたのに。
それの言葉は、自分でも気付けなかった『強がり』で、
案外、心の奥底に嫌な記憶として残っていたのか。

日向と彼方は、全然違う。
双子なだけあって、やはり顔は似ているけれど、日向は日向で、彼方は彼方だ。
自分は日向のことが好きで、日向のためなら、なんだってしてあげたいのに。
日向を拒絶するなんて、とんでもないのに。
どうして重ねてしまったのだろう。重なってしまったのだろう。

下手に隠すのはよくない。隠し事もしたくない。嘘なんて吐きたくない。
百合は唇を噛んで、小さく頷いた。

自分を見つめる日向の長い睫毛が揺れたかと思えば、日向は顔を上げた。
そして、眉を下げて辛そうな顔のまま、真っ直ぐに百合を見つめる。

「…あの時は、何も知らなくて、…守ってあげられなくて、ごめん。」

日向の方が辛いはずなのに、日向は泣きそうな顔をしながら、自分に頭を下げる。
日向も、あの時のことを、気に病んでくれるのか。
気付けなかった、守れなかった自分を責めているのか。
日向が悪いわけじゃないのに。
日向じゃないと気付けなかった自分が、馬鹿だっただけなのに。
日向はこんな自分のために心を痛めてくれる、繊細で、優しい人。

「日向先輩…。」

愛しい。触れたい。抱きしめてほしい。
百合は手を広げて、日向を見上げる。
上手い言葉が見つからないのなら、抱きしめて好きだと伝えたい。
日向の体温で、全部塗り替えてほしい。

けれど日向は、触れていいのかわからず、迷っているようだった。
また拒絶されるのではないかと、怖がっているのだろう。

「ぎゅって…してください。」

その言葉に、日向は躊躇いがちに、百合に手を伸ばす。その手は少し震えていた。
そしてまるでガラス細工でも扱うように、優しい手付きで百合を抱きしめた。

「俺…ちゃんと百合の事、大切にするよ。だから…ずっと傍にいてほしい。
 何もしないから…何もしなくていいから…傍に置いて。」

耳元で聞こえる声が切なくて、百合は日向の背中に手を回す。
例え何があったとしても、絶対に離さないように、ぎゅっと力強く抱きしめた。

触れる体温が心地よかった。
縋るように、自分を抱きしめる日向の震えた手が、愛おしかった。
怖がりなこの人を、守らなきゃいけないと思った。
どんな日向でも、受け止めたいと思った。
自分だけが、日向を理解してあげたいと思った。
なんでもしてあげたい。なんでも言ってあげたい。
どんな我儘でも、叶えてあげたいとさえ思った。

「何しても、いいんですよ。」

ポツリと、小さな声を洩らすと、日向は百合を一層強く抱きしめた。

「…こうしてるだけでいい。」


自分より大きい、けれど小さな子供のような日向の背中。
百合はこの脆い背中を、大切に大切に、守りたいと思った。

麻丸。
この作品の作者

麻丸。

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