「狡い人」
「狡い人。」
時刻は夜八時。
京子はリビングで、付けっぱなしのテレビを見ていた。
特にテレビが好き、と言うわけでもなく、面白い番組があるわけでもない。
優樹と誠は仕事に行ってしまったし、一人では何もすることがないのだ。
せっかく夏休みは兄のマンションで過ごしているのに、
兄と過ごせる時間は驚くほど少なかった。
仕事があるのは仕方ないと思うし、
その仕事も、自分とちゃんと学校に行かせるためだとも、わかっている。
だから京子は、「もっと一緒にいたい」なんてワガママは言わなかった。
そんな子供のようなワガママなんて言えない。
少しでも、ほんの少しでも、兄と過ごせる時間があれば、幸せだ。
けれど、兄のマンションは広すぎて、一人で過ごすには、少し寂しかった。
そういえば、彼方がまだ帰ってきていない。
昨日の仕事が終わって、寝ずに昼前に出掛けて行ったきりだ。
こっちで過ごしている時に、彼方が一人で出かけるのは珍しかった。
買い物にせよ、何にせよ、いつもは兄と行動を共にしていたから。
一人で出かける用事。兄や、誠に、内緒にしたい用事。
きっと、日向に会いに行ったのだろう。
あれだけ尻込みしていたのに、やっぱり彼方は日向のことが好きなのだ。
会うのが怖いとか言いながら、やっぱり日向に会いたいのだ。
最初は同性愛なんて、と思ったが、兄に恋心を抱いている自分が、
人のことをどうこう言える立場ではない。
愛の形は人それぞれ。愛の形は色々ある。わかってる。
彼方にとっては、日向がかけがえのない人間なのだ。
兄の携帯に、彼方から「今日仕事を休みたい」と連絡が入ったのは夕方。
それ以上は兄は何も言わなかった。
彼方が仕事を休むと言うことは、
日向と仲直りできて、一晩自分の家で日向と過ごすことにしたのか。
それとも、やっぱり思い通りにいかなくて、落ち込んでいるのか。
後者の方が可能性の方が高いな、と京子は頭の隅で考えた。
玄関の方からガチャ、という音がする。扉が開いた音だ。
彼方が帰ってきたのだろう。
仲直りできたにしては帰ってくるのが早い。
上手くいかなかったのだろうか。
その足音は京子がいるリビングには向かずに、手前の方で止まった。
そして静かに扉が開く音が聞こえ、閉める音がした。
優樹のマンションは3LDK。
京子がいるリビングダイニングが一番奥にあって、廊下を挟んで玄関までに3部屋ある。
優樹と京子の部屋が隣り合わせで、向かいに彼方の部屋と洗面所、風呂場、トイレがある。
いつもは帰ったらリビングに顔を出すのに、今日は真っ直ぐに部屋に入ってしまったのか。
相当落ち込んでいるのだろうか。
京子はリビングを出て、玄関に向かう。
玄関には、彼方の革靴が脱ぎ散らかっていた。
やっぱり彼方が帰ってきている。
それにしても、彼方も、優樹も、靴を揃えない。
横着と言うか、おおざっぱと言うか…そういうところは男だなあ、と京子は思う。
脱ぎ散らかった二人の靴を揃えるのは、いつも京子の役目だった。
いつものように、京子は彼方の靴を揃える。
そして、彼方の部屋の前に立った。
静かだ。物音一つさえしない。
「彼方さん?帰ったんですか?」
京子は扉越しに声を掛ける。
壁を挟んだ向こう側で、彼方はどんな顔をしているのだろう。
「…ごめん。…今は、誰とも喋りたくない。」
扉越しに聞こえた声は、弱弱しかった。
それは耳を澄まさないと聞こえないくらい、小さくて不安定な声だった。
やっぱり、何かあったのか。
「日向さんに、会ってきたんですか?」
「…。」
返事は、なかった。
おそらく図星だろう。
彼方が仕事を休むなんて、初めてだ。
こんなにも落ち込むのは、日向のこと以外にありえない。
「いきなり仕事を休むって言い出すから、お兄ちゃんも、誠さんも、心配してましたよ。」
「…ごめん。」
聞こえるか、聞こえないかくらいの小さな声が、扉から漏れる。
素直に謝るなんて、珍しい。
いつもは適当な言い訳でも並べるのに。
そんな気もおきないくらい、参っているのか。
こういう時の彼方は、危うい。
日向から離れるために、こうして夜の仕事を始めたり、
「自殺」と言う言葉を匂わせて、煙草を吸いだしたり。
またそんな馬鹿なことをしなければいいが。
一人で考えたいこともあるだろう。
でも今は、そっとしておくことができなかった。
「…入っても、いいですか。」
そう言って、京子はドアノブに手を掛ける。
硬く無機質な、金属特有のひんやりとした感触。
「…ほっといてくれないかな。」
拒絶の言葉が聞こえる。
けれど、彼方をこのままにしておいては、いけない気がした。
「ほっとけるわけ、ないでしょう。」
京子は、構わずに扉を開けた。
静かな部屋に、ドアノブを回す乾いた音だけが響く。
扉を開けると、灯りもつけずに、彼方は上着を着たまま、
両手で抱えた枕に顔を埋めて、ベッドに俯せになっていた。
ベッドの脇には、薄い処方箋袋のようなものが乱雑に置かれている。
その袋の口からは銀色の薬のシートが覗いていて、その中身は空っぽだった。
何の薬だろう。具合でも悪いのだろうか。
「ほっといてよ。…また、ひどいことするかもよ?」
枕越しの、くぐもった声。
彼方は枕に顔を埋めたまま、京子の方を見ようとはしなかった。
精一杯の強がりだろう。その声は震えていた。
「それで気分が晴れるなら、どうぞ。」
京子は、冷静な声で彼方に答える。
そして、彼方の部屋に入って、静かに扉を閉めた。
電気もつけていない暗い部屋は、どこか寂しかった。
「…なにそれ。…馬鹿なこと言わないでよ。」
「馬鹿なことばっかりしているのは、貴方でしょう?
見ていられないんですよ。彼方さんは本当にお馬鹿すぎて。」
京子はため息を吐きながら、彼方のベッドに近付く。
部屋は暗いけれど、カーテンを開けっ放しにしている窓からは、
外の街灯の灯りが漏れていて、全くの暗闇というわけではなかった。
彼方の部屋は、お世辞にも綺麗とは言えない。
脱ぎ散らかした服や、飲みかけのお茶が入ったペットボトルなどが床に散乱している。
足の踏み場がないほどではないが、もう少し片付けた方がいいと思う。
京子は、床に散らばる服や、ペットボトルを避けてベッドに腰掛けると、
彼方が肩を震わせて、浅い息を繰り返していることに気付いた。
息切れをしているような、ハッ、ハッという、息苦しそうな浅く速い呼吸。
「彼方さん…具合、悪いんですか?」
京子は心配そうに、彼方の肩に手を伸ばす。
その肩は夏休み前に比べて、ずいぶん細く、華奢になっていた。
「…平気だから…っ、構わないで…。」
「構わないでって…。」
浅い呼吸交じりの言葉は、苦しそうだった。とても平気そうには見えない。
何かの病気だろうか。命に関わるようなものだったら、どうしよう。
こんな時間に、近所の診療所はやっていない。
大きな病院も遠いし、京子一人では彼方を運べない。
どうしよう。どうしたら。どうすれば…。
京子は混乱した頭で必死に考える。
「そうだ、救急車…っ!」
京子は思いついたように声を上げる。
早く救急車を呼ばなくては。
携帯電話はリビングに置きっぱなしだ。
京子は彼方に背を向け、慌ててリビングに向かおうとする。
けれど、その手は彼方に掴まれた。
「馬鹿じゃないの…っ。救急車なんて呼んだら…全部バレちゃうでしょ…っ。」
掴まれた手はけして力強いものではなく、簡単に振り払えるほど弱弱しかった。
彼方の言っていることは正しい。
救急車を呼んで病院に行けば、保険証やカルテで彼方の年齢がわかってしまう。
そこまではいい。けれど、何かの弾みで、優樹にまでバレる可能性があるかもしれない。
それに、何かあった時に、カルテを辿って優樹のマンションの住所が、誰かに漏れてしまうかもしれない。
例えば日向に。例えば彼方の親に。それでもし、彼方が年齢を詐称して夜の仕事をしていることもバレたら…。
それはマズい。優樹の立場が危うくなる。
「でも…。」
振り返って彼方を見れば、彼方は京子の手を掴む手とは反対の手で口元を覆って、
肩を上下させて、顔を歪めて、苦しそうな浅い呼吸を繰り返している。
優樹に迷惑をかけるわけにはいかない。
けれど、彼方をこのままにしておけない。
京子は覚悟を決めて、携帯電話を取りにリビング向かおうと、彼方の手を振り払おうとする。
しかし、彼方は、京子の手を握る力を強めた。
「大丈夫…。ただの発作だから…すぐ…治まるから…っ。」
「発作…?」
彼方は息をするのも苦しそうなのに、必死に救急車を呼ばせまいと、京子の手に縋りつく。
上手く呼吸できないのか、不安定で曖昧な息を吸う乾いた音が、部屋の中に寂しく響いてる。
それでも、彼方は京子の手を離そうとはしない。
「本当に、すぐ治まるんですか…?」
そう京子が聞くと、彼方は声は出さずに小さく頷いた。
信じていいのだろうか。本人はそう言うが、すごく苦しそうだ。
けれど、ギュッと握られた手は力強くて、京子はどうしようもなかった。
どうにかして、彼方の苦しみを取り除いてあげたい。
自分に、何ができるだろう。
京子は、苦しそうに肩を震わす彼方の背中を撫でた。
子供をあやすように、優しく、優しく。
そういえば、自分も幼いころに、よく兄にこうしてもらった気がする。
悲しいこと、怖いことがあると、こうやって兄は自分の背中を撫でて慰めてくれた。
自分と違う兄の暖かい体温が、酷く心地よくて、安心したのを覚えている。
京子は、何度も、何度も、彼方の背中を撫でた。
苦しみがなくなるように。悲しみがなくなるように。安心して落ち着けるように。
優しく、ゆっくりと、体温が伝わるように。
京子の願いが届いたのか、しばらくして、彼方の呼吸はゆっくりと落ち着いてきた。
まだ少し顔色は悪いが、呼吸は安定しているようだ。
「落ち着きましたか?」
京子は背中から手を離して聞く。
覗き込んだ彼方の顔は、青白く、疲れているようだった。
「うん…。ごめんね。こんな姿見せて。びっくりしたでしょ?」
そう言って、彼方は取り繕って笑う。
ああ、下手な作り笑いだな、と京子は思った。
いや、まだ作り笑いをする余裕なんてないのだろう。
「…何かの病気なんですか?」
ベッドに散乱する処方箋袋を見つめる。
空っぽになった、たくさんの銀のシート。
何の薬だろう。知らない名前が書いてある。
大きな病気を抱えているのだろうか。
「ただの過呼吸だよ。別に命に関わるものじゃない。
だから…今日見たことは、誰にも言わないで。」
過呼吸。ああ、ドラマや映画でよくあるアレか。
だが、実際に目の当たりにしたのは初めてだった。
ドラマや映画とは全然違う。あんなに苦しそうで、辛そうなのか。
いつも悪態をついて、八つ当たりをして、
彼方なんてどうでもいいと思っていたのに、あんな苦しそうな姿を見て、
京子は彼方が死んでしまうのではないかと、不安になった。怖くなった。
「言いませんよ。お兄ちゃんが聞いたら、絶対大騒ぎしますもん。」
そんなことを思ったなんて悟られまいと、澄ました顔で答える。
悔しいから、心配したなんて、不安になったなんて、言ってやらない。
その強がりが、彼方にも伝わったのだろうか。
彼方は京子を見て、小さく笑った。
「…京子ちゃんは、意外と優しいよね。…日向みたいだ。」
伏し目がちの下手な微笑みで、彼方は寂しそうな声を洩らす。
本人は否定するが、やっぱり彼方は痩せたと思う。
元々体格がいい方ではなかったが、さらに華奢になった。
細くなった肩が、少し頼りなく見える。
日向と離れて、彼方は脆くなった。
いや、元々脆くて、弱い人間なのかもしれない。
「やっぱり、日向さんと何かあったんですか?」
そう京子が聞くと、彼方は悲しそうに顔を歪めた。
この質問は少し意地悪だったか。
口に出して聞かなくても、それ以外の理由なんてないだろう。
「…日向の傍に、僕の居場所はなかった。…もう、日向のところには…帰れない。」
長い睫毛を揺らして、彼方は小さな声で呟く。
ベッドの上で膝を抱えて、背中を丸めたその姿はまるで、
幼い子供が、孤独に怯えているようにも見えた。
「日向の傍に、いたかったな…。日向に、…愛されていたかった。
でも、もう…本当に無理なんだ…。」
彼方は目を伏せて、たどたどしい言葉を紡ぐ。
消え入りそうな小さな声は、今にも泣きだしてしまいそうに震えていた。
その姿があまりに切なくて、京子は何も言えなくなってしまう。
「…あーあ。馬鹿みたい。…僕、独りぼっちになっちゃった。
もう誰も、…愛してくれない。」
そう言って、彼方は自嘲気味に笑う。
その表情が、京子の心に深く突き刺さった。
なんて可哀想な人なんだろう。なんて不器用な人なんだろう。
この人は、ただ愛されたかっただけなのだ。
愛が欲しかっただけなのだ。居場所が欲しかっただけなのだ。
自分と一緒で、好きな人の傍に居たかっただけなのだ。
けれど、それが叶わなかった。いや、叶うはずがなかった。
けれど、心の隅で期待を持ってしまっていたのだ。
疑うことを知らない、純粋な子供のように。
期待を持ってしまった分、叶わなかった時の絶望は大きい。
彼方を支えられるのは、日向しかいなかった。
けれど、日向の傍にいられなくなった今、誰が彼方を支えられるのだろう。
支えを失った彼方は、どうやって生きるのか。
京子の目の前の、脆く儚い少年は、今にも壊れてしまいそうだった。
いや、もう随分前から、壊れてしまっていたのかもしれない。
京子はそっと、彼方を抱きしめる。
彼方は一瞬驚いたような顔をして、すぐに苦しそうに顔を歪めた。
「…京子ちゃん、僕のこと好きじゃないでしょ?」
自分でも、なんでこんなことをしたのか、わからない。
けれど、今はこうしないといけないと思った。
そうじゃないと、彼方が消えてしまう気がした。
「ええ。でも…嫌いではないですね。」
正面から腕を回して、体温を分け与えるように彼方を包み込む。
少しでも、彼方の寂しさが癒えるように。壊れてしまわないように。
そして、優しく髪を撫でた。傷んだ茶髪が、不安そうに指に絡まる。
彼方は拒絶しなかった。いや、できなかったのだろう。
誰かの温もりを欲しがる、寂しがりだから。
「やめてよ…。こういうの…一番ズルい。」
「それは貴方でしょう?」
「…馬鹿。」
彼方は、京子の肩に顔を埋めて泣いた。
幼い子供のように、みっともなく泣きじゃくった。
プライドや自尊心なんてなかった。
ただただ、恥を捨てて、情けないほど泣いた。
そんな彼方を、京子は幼子をあやす母親のように、優しく慰めた。
結局、日向は落ち込んでいる理由を話してはくれなかった。
何が日向を悩ませるのか、不安にさせるのか、百合にはわからない。
その不安を分かち合いたいと思っていても、日向は口を開こうとはしない。
心配させるのが嫌なのだろうが、自分はそんなに頼りないのだろうか。
日向の一番近くで、誰よりも日向を支えたいと思っているのに。
隣で眠る日向を見つめてみる。
眉を寄せて、低く唸り、うなされているようだった。
どんな夢を見ているのだろう。
怖い夢?悲しい夢?苦しい夢?辛い夢?
日向にとって、いい夢ではないことは確かだろう。
その夢の中に、自分はいるのだろうか。
夢の中の自分は、日向を救えるのだろうか。
この寂しい人を、癒してあげられるのだろうか。
「…かな…た…。」
眉間に皺を寄せて、小さく呟いた寝言は、自分の名前を呼ばなかった。
わかってる。日向に自分は必要だ。これは自惚れなんかじゃない。
けれど、同じくらい、日向にとっては彼方も必要なのだ。
自分が好きな寂しいこの人は、自分が嫌いな寂しいあの人のことも、必要としているのだ。
日向が大切にしてるのは、自分だけじゃない。
じゃあ自分には何ができるのだろう。
日向のために、何をしてあげられるのだろう。
自分がこうして傍にいることで、日向を少しでも癒せているのだろうか。
朝になって目が覚めたら、日向はいつもの小さな微笑みを見せてくれるだろうか。
百合は日向の手を握って、目を閉じた。