~流浪の騎士・ナギ①~
「ハァ、ハァ、ハァ……」
足が痛い。
息が苦しい。
汗が止まらない。
元々体力があるほうではなかったわたしは、ずっとずっと走り続けてきたこともあって既に疲弊していた。
足は鉛のように重く、前に進ませることはおろか、ただ立っていることすらもう億劫だ。
肩を大きく上下させ、膝に手をついて荒い呼吸を繰り返すものの、一向に気分はよくならない。それは肉体的な疲労以上に、精神的な摩耗も大きい要因だっただろう。
無限とも思えるような森の回廊。木々が生い茂り、緑が自然の営みを行うその場所は、動物たちの姿がないことを除けば、他の森と何ら変わらぬ空間だった。
土の匂い。花の香り。太陽の輝き。木の葉の囁き。
そこは不快感など微塵も感じさせず、むしろ心地よさすら感じさせるこの場所はしかし、自分以外の『生』を全て拒絶しているかのような違和感を放っていた。
それに気づいたときは、もう遅かった。
すでに自分は、捕えられて(、、、、、)しまっていた。
――逃がさないよ、可愛い子――
どこからか声らしくものが響き、わたしに語り掛ける。しかしそれはひどく歪んだ低いもので、人が出すものとは全く違う異物だった。
耳に入るたびにゾクリと寒気が走り、身の毛がよだつ恐ろしさがある。
人ではない、姿も見えぬ恐ろしい何かが、自分にまとわりついて離れない……そんな言いようのない不安を感じさせる何かがあった。
――どこへ行くの?――
――もう出られない。僕らの許しなしにここへ出ることは出来ない――
――私は許さぬ、一生涯許すことはない。君は俺のものだ、何があろうと私のものだ――
じゅぶり。じゅぶりと。湿った何かが地を這いずるような気味の悪い音とともに、それは現れた。
真っ黒な泥水。形容するならば、それが一番近いだろう。
草木の隙間を通り抜け、形を変えながらこちらに近寄ってくるそれは、明らかに人間とも動物ともかけ離れたおぞましい物体だった。
鼻が曲がりそうな異臭を放つそれは、じわじわとわたしとの距離を詰めていく。
決して動きは速くないというのに、わたしはそれから逃げることが出来ずにいた。
――あなたの、お名前は?――
「あ……ぁ……!!」
声を通して伝わってくる、純粋で邪悪な意思。
子供のように無邪気でありながら、それゆえに残酷なことを口にし実行してしまえる脅威にまみれた声音。
――まだ君は受け入れていないのか――
――まだお前は私に屈服していないのか――
――僕の問いかけに返答してくれぬとは――
――ならばお前の心を、丁寧に折ってあげよう――
――君があがけばあがくほど、君は嫌でも理解する――
――俺から遠ざかることすらできないことを、この森から抜けることは出来ぬことを――
――ゆっくり、ゆっくり、小枝に徐々に力を込めていくように――
――雨粒が、岩に少しずつ傷をつけて穴を穿つように――
――時間をかけて理解させて、君の意思を壊してあげる――
「う……うぅぅ……」
泥水のような何かは、やがて私の目の前にまで到達すると足に絡みつき、徐々にわたしの身体を登ってくる。
生暖かいそれは肌に触れるとねばねばとして引っ付き、わたしの生理的な嫌悪を引き起こす。
しかし、それに抵抗するだけの余力も何も、もうわたしの中には残っていなかった。
いつまでもどこまでも続く森の中を、ずっと追いかけられてきた私は……肉体も、精神もすでに疲弊しきっていた。
……もう、やめて。
わたしを、追いかけないで。
追いつめないで。
誰か助けて。
もう……解放して。
――楽になりたければ、私の問いに答えておくれ――
――楽園へと招待しよう。俺のものとなれば、全てから解放しよう――
――悲しみから――
――不安から――
――痛みから――
――苦悩から――
――絶望から――
――ありとあらゆるものから解き放ち、ただ快楽だけがある場所へといざなってあげる――
――さあ、答えて――
――あなたの、お名前は?――
そんなわたしの心を読んだかのように、泥水はわたしへと優しい声音で語り掛けてくる。
足から腰へ。腰から胸へ。胸から、首にまで。
湿った水音を鳴らしながら、それは這い上がる。
そしてゆっくりと、今度は泥水から人のような姿へと形を変える。それに表情はなく、口や耳といったものだけが張り付くのっぺりとした顔だけがあった。
泥水は、わたしの耳元でもう一度囁く。
――お名前は?――
それが悪魔の甘言であると、わかっている。応えてしまえばわたしの全てが壊れてしまうとわかっている。
それでも、抗えない。もう楽になってしまいたい。
終わりの見えない苦痛の連続に、私のわたしはもう折れかけてしまっていた。
――さあ答えて。お名前は?――
「……………………」
父が娘へとかけるような、優しく温かな言葉。
固く閉ざしていたはずのその口を、やがてわたしはゆっくりと開けて――
言葉が喉から外へと出ようとしていたその瞬間、わたしの上に乗りかかっていた黒い人間は腹を蹴り飛ばされた。
「……え?」
ブジュウ!! と弾けるように腰と腹を形成していた黒水が飛び散り、崩れて地面に吸い込まれていく。
完全にわたしから黒水が離れたその途端、誰かが腕を掴んでグイッと強く引っ張った。
乱暴に立ち上がらされると、誰かの腕がわたしを抱きしめた。
まるで、わたしを守ろうとしているかのように。
「……さっきから道に迷っていたのはお前のせいか」
ボソリ、と囁くような声の大きさで、その誰かは呟く。
それは女性の声。苛立ちと怒り、嫌悪……それらを混合させた沸々と湧き上がる激情を込め、その人は黒水にしゃべりかけていた。
振り返れば、そこには凛とした顔立ちの女の人。
黒く長い髪を二つに束ね、首から下は黒いローブによって全て覆われている。
屈んでいるから正確にはわからないけれど、背丈は170㎝ほど。女性にしては大柄な方のその人は、汚らわしいものでも見るような目で黒水を睨んでいた。
「随分と嫌なヤツにつきまとわれたものだな。自分の気に入った人間に名を問い、返答をした者を永遠に隷属させる精霊……お前のようなヤツなどさっさと消えてしまえばいいのにな、『エールケニッヒ』」
忌々しげにその名を口にする女性。地面に零れ落ちた黒水は、まるで餌に向かって行進するアリのように一点に集まると、再び人としての形をつくって女性と対面する。
――あなたはどなた?――
――あなたは旅人?――
――迷ったの?――
――ならば歓迎しよう――
――名前を教えてくださいな――
「…………」
黒水がまとわりつくように迫り、次々と言葉を女性に投げかける。
が、女性は訊ねかけられた質問に一切答えることはなく、沈黙している。
チラとこちらを見ると、女性はわたしに向かって言葉をかけた。
「……知っているからこそ逃げ続けていたんだろうが……一応言っておく。あいつらの問いに答えるな。少しでも言葉で返答をすれば、永遠に隷属させられるぞ。あれはそういうヤツだ」
この時の女性の声は相変わらず厳格なものだったが、あのエールケニッヒに対して投げかける乱暴な言葉とは違う響きがあった。
――我らを知る者か――
――俺たちの問いに答えた者の運命を知る者か――
――だとしても何の意味もない――
――私たちの許しなしに、ここを出ることは出来ぬ――
――餓死するもよい。遺骸であっても、我らは拒まぬ――
――腐敗させることなく、死んだそのままの身体で永遠に愛で続けよう――
――クヒ、クヒヒッ――
女性の言葉を聞くと、それをあざ笑うかのようにエールケニッヒは呵々と哄笑する。その笑い声を聞くわたしは、悔しげに歯噛みするしかなかった。
エールケニッヒ。一部の国では魔王とも呼ばれ、恐れられている森の精霊。
森に迷い込んだ旅人を気に入れば結界で閉じ込め、その者に付きまといいつまでも問答を投げかけてくる。その問いに応えてしまえば最後、その者はエールケニッヒの奴隷とされ、永遠に服従させられてしまう。
助かる手段は一つ。このエールケニッヒの質問に一切答えることなく、こいつを殺すこと。
だが、それは一介の旅人などでは不可能に近い芸当だ。エールケニッヒは邪悪な存在であるとしても、紛いなりにも『精霊』。その肉体は霊体に近く、手で触れることも出来るが物理的手段で傷を負わせることは不可能。『魔導』に秀でた者が同じ精霊の力を借りなければ、その存在を消すことはおろかヤツに一矢報いることすら敵わない。
何の力もない者が迷い込んでしまえば、道は二つに一つ。服従か死か。それだけしか、ないのだ。
――いつまでも問い続けよう――
――死ぬまで。魂がその肉から離れるその時まで、ずっと問い続けよう――
――お名前は?――
――お名前は?――
――お名前は?――
――お名前は?――
――お名前は?――
――お名前は?――
――お名前は?――
――お名前は?――
――お名前はぁ?――
――クヒ、クヒヒッ――
「……っ」
人によって助けられたことで振り払われた絶望が、再びわたしの心を侵蝕してくる。
逃げても意味はない。結果は同じ。
……いつまでもずっとこんなことが続くのだったら、いっそ……
「……おい、おまえ」
そんな思考が脳裏をよぎった瞬間、唐突に女性に呼びかけられたわたしはハッとしてその人の方を見る。
「……危ないからちょっと下がってろ。ちょっと荒っぽいことするから」
「……はい?」
何のことかと思うよりも前に、目の前の女性は素早く行動に移った。
引き剥がすように、全身を覆うローブを脱ぎ去る女性。そしてそれとともに彼女の全体像が露わになる。
「……え……」
ダークブルーを基調とした上着、そこに赤いリボンと白のシャツ。膝までの長さのスカートと、黒のニーハイソックス。
シンプルにデザインされ整然としたそれは制服で、その女性の表情も相まって人物の厳格さを表している。
しかし私が目を奪われたのは一点。その制服の胸元。
獅子が描かれた紋章を目にしたわたしは、目を驚愕で見開くこととなった。
「――き、騎士の紋章!?」
仰天し呆気に取られるわたしだったが、驚くのはこれからだった。
女性の制服は突如として輝きだすと、その服装一つ一つが金属へと変質し、鎧を形成するためのプレートのように変化していく。
従来の騎士がつけるような分厚い鋼ではなく、まるでドレスのように薄い漆黒の鎧。
その右手には、彼女の身の丈に迫りそうなほど長大な白銀の剣が握られ、木漏れ日に照らされ眩く煌めいていた。