~流浪の騎士・ナギ②~
「シッ――!!」
掛け声とともに女性は駆け出して接近し、肉薄すると白銀の切っ先が横へと走る。
その速度はまさに縮地の如し。数瞬のうちに行われた斬撃は目にも止まらぬ勢いで繰り出され、黒い人型の泥水に一文字を刻もうとする。
エールケニッヒは、自身にとって全く意味のない斬撃が迫るのをただ傍観していた……かと思いきや、寸前のところで人の形を解いて液体状になり、回避する。
小さく、しかし腹立たしげに舌打ちすると、女性はその視線を分散した黒水へと移す。
今までの動きが嘘のように黒い泥水は機敏に動き、女性から距離を取ると再び人型に戻った。
――怖いな、その剣――
――肉を持たぬ魂の存在すら斬り捨てる魔導の剣か――
――忌々しい輝きを放ちおって……魔導騎士ぶぜいが……!――
苛立ったように、慄くようにエールケニッヒは口々に呟く。
それは歓喜と狂気以外に見える、初めての感情だった。
津波のように押し寄せる怒り。
何者も阻むことが出来ぬはずの自分の前に立ちふさがり、何者も傷つけることが出来ぬはずの自分を斬り殺そうとする彼女の存在に、邪悪な精霊は激昂した。
それほどまでに、恐怖を感じているのだ。
人間である彼女を。
光を放つ剣を握り、漆黒の鎧に身を包むその女性のことを。
エールケニッヒから罵声を浴びせかけられ、心底うんざりしたようなしかめっ面で女性は言葉をかける。
「……選べ、死ぬか失せるか。お前と鬼ごっこするつもりもくだらん問答をするつもりもないんだ」
一方的に投げかけられた選択肢。その黒い人型に顔はないのに、どこか苦々しい表情を浮かべてエールケニッヒは唸る。
繰り広げられたのは、一瞬のうちの攻防。しかしそれだけであっても相手の実力を測るには十分なものだった。
精霊すら斬り殺すことのできる魔導の剣、間合いを瞬時に詰めて肉薄できるだけの素早さ、対峙する相手の特性を熟知しその上で最善の行動を取る知能。そして何よりも、その特性により一部では『魔王』とすら呼ばれるエールケニッヒを相手取っても乱すことのない冷静さ。
しかも随分と余裕な態度を取っていることから、まだまだ全力を出し切ってなどいないということがわかる。
それが真実かプラフなのかはわからないが、しかし相対するエールケニッヒにとって彼女と『鬼ごっこ』を行うのは少々危険な賭けだった。
そよ風が吹き、木の葉が揺れて騒めく音だけが響く静寂。
ほんの少しの時間――その場に居合わせた私にとってはそれでも一時間が経過したようにすら思える時間――が経過して。
――……あーあ。欲しかったのにな、その娘――
悪戯に失敗した子供のようにエールケニッヒはそう呟くと、周囲の空間に異変が起こる。
なんというか、空気が違った。この世のものではない、命ある者の存在しない空間から、現世へと戻ったという感覚をどこかで覚えた。
……結界を、解いたの?
「ようやく外に出られるな」
やれやれというように嘆息する女性。
ごくごく自然体で振る舞っている彼女と違い、未だに私は今起こったことを信じることが出来ないでいた。
……自分が助かったのだと。この女性によって助けられたのだというその事実を、認識することは出来ても理解が追い付かない。
そんな中で、エールケニッヒは悔しげに言葉を漏らす。
――まさかまた逃がしちゃうなんてなぁ――
――こんな偶然もあるものなのかねぇ――
――惜しい。実に惜しい。どちらもとても美しかったのに――
「……『また』だと?」
ふと気になったように、女性はエールケニッヒがふとつぶやいた言葉を反復する。
――あの人は真っ白だった――
――そう、透き通るような眩しい白だった――
――髪も、服も、肌も、全てが色なし――
――あの人……男かしら、女かしら。いや、まず本当に人間だったのかしら? 美しくて煌めいていて、とっても素敵だった。何が何でも手に入れたかったわぁ――
相変わらずその表情こそ窺うことはできないが、一人称と二人称が滅茶苦茶なその言葉には羨望と後悔の響きがあった。
――でもダメだった。あれは手に入れられない――
――見つめられて分かった。言葉をかけられてわかった――
――あれは、無理だ。あの人は、手に負えない――
わたしは、目を点にした。
エールケニッヒが、隷属を諦めた。それは、あり得ないことだから。
彼らは一目見て気に入った人間がいれば、どこまでも付きまとって追いかける執念深さを持つ。今回は自身の生命の危機があったからこそ渋々身を退いたのだろうが、基本的に何があっても手に入れたい奴隷は手に入れる。それが目の前にいる邪悪な精霊の性質だ。
その精霊が。ただ言葉を交わしただけで、諦めた。
只事であるはずがない。
「………………その男、何処に行った?」
と、わたしが驚愕して言葉を失っていたそのとき。女性が、エールケニッヒへと問うた。
その声を聞いたわたしはふと女性の顔を見やって……視界に表情を収めたその途端、思わず総毛立った。
なぜなら。女性の目つきは目の前の邪悪な精霊に向けていたものよりも、遥かに鋭く殺意で尖り、そして冷め切っていたから。
人がしていい表情ではない。人間としての温かみが完全に消え去り、ただその思考に存在するのは、絶対に殺すという己自身への誓約のみ。
それはまるで……怒りに駆られた修羅の如き顔つきだった。
「……答えろ。その男、どこに行った? それはいつの話だ?」
声音は、努めて平坦であろうとしていた。しかし、その裏で膨れ上がる憎悪と憤怒の情が溢れ、語尾がかすかに震える。
――知り合い? それとも探し人?――
――あれはやめておけ。あれはもう――
――人じゃない。本物の、死神だ――
それだけを言うと、黒い泥水は元の液体へと姿を戻して土に沈んでいくように消える。
すぐ近くで感じていた気配……身の毛がよだつような寒気を感じさせるものは、だんだんと私たちから遠ざかり……やがて、エールケニッヒはどこかへと去っていった。
「ふあっ……」
身の危険が去ったという事実に安堵して私はつい足の力が抜けてへたり込んでしまう。ずっと走ってきたせいですでに足はボロボロで、本来ならもう立つことすらできなかったのだろう。
「いたっ……!」
それと同時に、恐怖で麻痺していた足の痛みが戻ってきた。
自分の目と鼻の先にあったはずの絶望。夢のように消えてなくなったそれはしかし、過ぎ去ってなおもわたしの心に不安と言う名の影を落としていた。
もう大丈夫だというのに、わたしの身体はいつまでもカタカタと震えたままだ。
立たなければならないと頭ではわかってはいても、身体は言うことを聞いてくれない。
「うっ……」
ズキズキと痛む足に声を漏らすわたし。すると、女性は私の方へと歩み寄って語り掛けてきた。
「大丈夫か?」
何時の間にか、彼女が身に纏っていたはずの漆黒の鎧は元の制服へと戻り、剣もどこかへと消えていた。
彼女自身も、修羅の如き表情から代わって――もはや豹変と言っても過言ではないが――母親が娘を、あるいは姉が妹を慈しむような優しいものになっている。
あまりの変わりぶりに目を白黒させながらも、わたしはどうにか口を動かした。
「……ちょっと、立てそうにないや……アハハ」
苦々しく笑うわたしを見て、女性は屈みこんで傷だらけの足を見る。
しばらくジィッと傷ついたところを眺めていたけれど、女性は懐から小瓶を取り出す。
中は青色のどろりとした粘液が入っていて、女性は人差し指につけると私の足に触れた。
「に゛ゃっ!?」
その途端、ヒリヒリとした痛みが走って悲鳴をあげた。
しかし、女性はそんなことなど聞こえていないかのように指先を動かし、薬品らしき液体を広げる。その度に傷口がズキズキと痛み、泣きそうになるのを必死に堪えなければならなかった。
一通り塗り終わると、女性は小瓶を仕舞い込みながら優しい口調で話しかけてきた。
「よく我慢したね」
そう言うと、彼女は屈んだまま私に背中を向けて、上体を前に傾ける。
まるで、わたしをおぶさろうとしてくれているかのように。
「いいの?」
「その足じゃまだ歩けないだろ? ここを抜けたら街まですぐだし、いいよ」
手を後ろにやり、おいでと言わんばかりに手招きする女性。
恐る恐る手を伸ばし、わたしは彼女の首に両腕を回して体重をかける。
すると、わたしの重みなど何も感じていないかのように女性はすぐに立ち上がった。
「わっ!」
騎士であるとはわかっていても彼女の身体の線は細く、とてもではないが力があるようには見えない。なのにこの女の人は、軽々とわたしを背負って立った。
見た目とのギャップや急に身体が浮遊するような感覚を覚えたのもあって、わたしは驚きの声をあげる。
「足に障るようなら言ってくれたらいいよ」
肩越しに振り返って私に声をかけると、森の中を歩き始める。
先ほどのエールケニッヒとの会話からして、彼女もこの森に少なからず閉じ込められ、彷徨っていたはずだ。疲労だってしているはずなのに、まるで何でもないかのようにわたしを助け、そして介抱してくれている。
今まで出会った大人たちの中でも、彼女はとてもわたしに優しく接してくれていた。
――どうしてそこまでしてくれるんだろうと、そんな疑問を抱かずにはいられないほどに。
「……ねえ」
「ん?」
生い茂る草木を掻き分けながら、女の人はわたしの声に反応を示す。
「どうしてそこまで良くしてくれるの?」
「騎士の本分は、戦って人を守ることだろう?」
「今時そんな騎士らしい騎士もいないよ。なんだか胡散臭いって思っちゃうくらい優しいもん、お姉ちゃん」
「んー……」
返答に困ったように唸る女の人。
どう答えるべきか戸惑っている間、土を踏みしめる音と、木の葉が風に揺らいで囁く音だけが聞こえた。
少しの間の沈黙。やがて彼女は口を開いた。
「……昔ね、私が小さかった頃。故郷の村で私は子供たちの中で年長者だったんだ。男親が出稼ぎに出てて、母親も仕事に忙しかった時は……他の子供たちとよく遊びながら、世話をしたよ」
「つまり、みんなのお姉ちゃんだったわけ?」
「そうなるね。遊び盛りの子供ともなると、みんなやんちゃでね。ほんとに世話が焼けたもんさ。怪我なんてしたときはおぶったもんだよ……こうして、今みたいに」
「へえー」
昔を懐かしむように、女の人は可笑しげに語る。
でも、最後はどこか哀愁というか、悲しそうに声を落としていた。
どうしたのかな、と思って訊ねかけるよりも先に、彼女は次の言葉を紡ぐ。
「だからかな。みんな、ちょうどお前くらいだったから……お節介にも助けたくなった、っていうのが本音かな」
「……そっか」
……なんとなく、言葉を交わして思った。
彼女は騎士で、とっても強くて、きっととっても厳しい人だと思う。
エールケニッヒ相手に悪態をついたり、嫌悪を隠したりしないところもそうだし、それに最後に見せたあの表情。
とても怖い人だと思っていた。
だけど……ホントのホントは、とっても優しい。
戦う時だって、わたしを守るために下がらせたり。
こうして歩けなくても薬を使って、背負ってくれたり。
……悪い人なんかじゃないんだって、思った。
「……シャオ」
「え?」
「わたしの名前! お姉ちゃんの名前は?」
唐突な自己紹介と、名前を訊ねられたことに目を点にする女の人。
けれど、すぐにフッと笑って、
「……ナギだよ、シャオ」
私に、教えてくれた。
これがわたし、シャオとナギお姉ちゃんとの出会い。
この時のわたしはまだ気づくことはなかった。お姉ちゃんの心に存在する、復讐の執念の深さに。
ただこの時は……母のような、姉のような頼もしく温かい背中に全てを任せて……心地よさを感じながら、わたしは眠りについていた。