一章『鈴の音にて』
K市某所。
冬の乾いた風がアスファルトの上を吹き抜けて、どこから運ばれたのかも分からない土埃を舞い上げた。
電柱に付けられた付近の住居表示は『新白扇(しんはくせん)』。だがこれは昭和四十年代に幹線道路や鉄道が通った時期、いわゆる都市開発の名の元に付近が新興住宅地となった頃に付けられた新地名だ。それより以前の地名は『風穴闇(かざなぐら)』。明治よりも以前は狐狸狢や妖怪が住むと言われ、人もまばらな寂れた土地だったという。だが最早そんな時代を知る者は存在しない。
深淵たる暗闇も電灯に煌々と照らし出され、時代の海で浮き沈みを繰り返した怪異や物の怪たちも伝承やお伽噺の住人となってしまったのだろうか。
やけに派手な赤いコートの男が襟を立てて足早に通りを過ぎていく。男は鉄骨構造の住宅や小さな商店の並ぶ中に、やや不釣り合いな様相で佇む木造建築物の前で足を止めた。古家を改築でもしたような黒光りする木の扉。その脇にある小さな看板には木彫で『鈴の音(すずのね)』と書かれている。扉横に置かれた椅子の上には珈琲・紅茶や飲食品の名前とそれぞれの金額が書かれた小さな黒板。まるで時代からぷつりと切り離されたような、小さく古風な喫茶店だ。男がやや重い扉を開くと、ノブの内側に付けられていた鈴がチリンと愛らしい音が奏でた。
もしも、この時に男が入っていく姿を町角から見る者があれば、靄の掛かったぼんやりした影のようになり真っ暗な空間へと消えたように見えただろう。
「こんにちは、赤間さん。お食事はお済みですか? 」
店内のカウンターにいた二十代半ばとみられる女性が男に声をかけた。
「まだですよ、店長。ナポリタンとトマトジュースをお願いします」
「かしこまりました」
店主の女性はフライパンをコンロにかけてベーコン、続いて野菜を炒め始める。カウンター席に座ったこの男は赤間(あかま)トオルという。時々テレビ出演のオファーもあるプロのマジシャンだが、普段は近くの公園や児童施設、小さな舞台などを回って子供たちを楽しませている事が多い。
窓際の席に座って黙々とサラダを食べていた壮年の僧侶が顔を上げた。
「赤間さんや、今日はどうだったね?大きな会場でのイベントに行っておられたのだろう? 」
「ただの市民会館のイベントですよ。でも、なかなか楽しい催しでした」
振り返った赤間の目にサラダの横に置かれたビールグラスが映る。
「おや既に"一杯"ですか。寿海さん」
苦笑した赤間に僧侶・寿海は笑い返す。
「なんの、ほんの一杯だけじゃよ」
やがて店主が赤間の元に出来立てのパスタとトマトジュースを運んできた。どんな個人の好みにも答え、味も確かな彼女の料理は常連客に好評だ。一人暮らしの寿海や赤間がよくここで食事しているのもそのせいである。
「千鶴ちゃんや、こっちにビールもう一杯頼めんかね? 」
寿海の言葉に店主である千鶴は首を振った。
「駄目ですよ寿海さん。今日は一杯だけって先程おっしゃいましたよ?それから、またトマトを残してますね。好き嫌いはいけませんよ」
子供を叱る親のような口調で千鶴は寿海を諭す。
「いやあトマトは色々と理由があってですなぁ」
寿海和尚が言い訳していると、どこから現れたのか小学生くらいの年頃の痩せた少女が現れた。そしてサラダボールにぽつんと残ったプチトマトをひょいとつまんで口に入れる。
「こら花ちゃん、お行儀が悪いですよ」
千鶴に咎める言葉に少女は小さくささやくような、それでいて歌うような声で答えた。
「トマト。寿海と花、年間契約」
千鶴は呆れた表情で寿海と少女を見比べる。
「寿海さん……? 」
「いやそのだな、花ちゃんはトマトがお好きだというのでな。トマトもこの世に生まれたからには美味しく食べてくれる者の口に入りたかろうと」
「寿海さんもトマトを美味しいと思って下されば、私としてはとても嬉しいんですけれど」
千鶴はやや諦めた表情でサラダボールを片付け始めた。
「花ちゃん、トマトジュース一緒に飲みませんか?」
その言葉に少女は「飲む」と言って今度はカウンターの赤間の方へ小走りで向かう。子供好きな赤間は花を膝に乗せて、トマトジュースの半分をそばにあるコップに注ぎ小さな手に渡した。ぺろりと愛らしい口元には不釣り合いな長い舌が一瞬現れた後、実に美味しそうに花はごくごくと喉を鳴らした。
「ごちそうさま、赤間」
「皆、花ちゃんを甘やかせ過ぎなんですよ」
千鶴はサラダボールを洗いながらため息混じりに言う。カウンターの横にある大きめの観葉植物にぶら下がった飾りオブジェクトらしき物がふらりふらりと揺れた。
「もう。笑わないで下さいまし」
観葉植物に視線を向けて、千鶴はそう言った。
日暮れが近い時間になると『鈴の音』にもう一人の常連客が姿を見せた。
「いやいやいや、寒くなって来ましたねぇ」
やけに間延びした口調で呟きながら入ってきたのはずんぐりした小柄な男だ。作業着の上に茶色のジャンパー、首にマフラー代わりにタオルといういでたち。
両手を忙しなくこすり合わせながら、男は店内の他の者に向けてこう続けた。
「今夜辺り、雪になるやも知れませんよ」
「土橋さん、お疲れ様です」
「こんばんは、今日は遅かったですね、土橋さん」
千鶴と赤間が男に声をかける。寿海と花も軽く頭を下げた。土橋八則(どばし やつのり)は一同ににこにこと愛想の良い笑顔を見せる。
「はい、皆さんこんばんは。おやおや理沙ちゃんと波子さんは今日はいないんですねぇ」
「波子さんは今日はお仕事です。今の時間ならS駅周辺じゃないでしょうか。犬塚さんは、確かに今日は遅いですね」
「ああ、年末ですからねぇ、皆さん仕事でお忙しいんでしょうか」
そう言いながら上着を椅子の背にかけて、土橋は寿海の向かい側に座った。
「お食事はどうしますか?」
千鶴が尋ねると、土橋は小さな黒目がちの瞳をきょときょと動かしながら答えた。
「今日は駅前の、えーと、スーパーマーケットですかぁ。あそこで肉がとても安く出ていましてねぇ」
そこまで聞いて千鶴は苦笑いした。
「あら駄目ですよ、買ったばかり生肉を立ち食いなんかしちゃ。他の人が驚くじゃないですか」
「大丈夫ですよ。誰も何も言わなかったですからねぇ」
誰も見ていなかったのか、異様な光景に恐れをなして何も言わなかったのか。彼の言葉からは判別がつかない。
「せめてここに来てから食べて下さいな」
「いやいやいや、それでは千鶴さんに申し訳ないじゃあないですか」
(気にするべき事はそちらではなく、むしろ他人の目だ)と千鶴は思ったが、これ以上何を言っても土橋に意志が伝わると思えない。諦めて彼の前にたった今淹れた熱いほうじ茶を出した。
「おや、すみませんねぇ」
土橋は湯のみを両手で持ち上げ、背中を丸めてお茶をすすり飲む。まるで老人のような仕草だが、彼の見た目は寿海より若く、丸みを帯びた体も贅肉より筋肉が多い。身につけている作業着や靴も建築現場で使われている種類の物だ。
と、いきなり扉が勢い良く開けられて一人の若い女性が飛び込んできた。
「こんばんは、千鶴さん、雪ですよ!雪が降ってきました! 」
二十歳前後に見えるが化粧っけが全くなく、長い髪を無造作に束ね、服装もやや地味な灰色のダッフルコートにジーンズ姿だ。恐らくここまで走って来たのだろう、頬がピンクに染まり息を弾ませている。
「噂をすれば、ですね。犬塚さん、お疲れ様」
「おんやー、やっぱり降ってきましたか」
湯のみから顔を上げて土橋が言う。
「今日はバイクで来るのをやめて正解だったようですな」
寿海が言うと、赤間が苦笑した。
「和尚がビールを飲んでたのはそういう訳ですか。今日(きょうび)は飲酒運転も厳しい時代ですからね」
「ほっほっほ、免許取り上げられたら檀家周りが大変そうですからな」
笑う寿海に赤間は軽く首を振って言った。
「それよりも警察に取り調べを受ける方が厄介でしょう。寿海さんは戸籍お持ちでしたっけ? 」
「その点は"バッチリ"じゃな。本籍地は無難に皇居にしておいたんじゃが」
「ほーお、和尚は帝(みかど)と同じご住所なんですねぇ」
土橋が感心したように言う。
「本籍だけなら、この国はどこにしておいてもお咎めありませんからのう」
他の常連客がそんなやり取りしている間に、犬塚理沙は店内に入って来た。濡れたコートをハンカチで軽く拭いてハンガーにかけた後、カウンターの赤間の隣に座った。
「千鶴さん、特製超レア・ステーキ二人前。お肉ましましでお願いしまーす」
見た目は全く普通の体格に見えるのだが、どうやらこの娘はかなりの大食漢らしい。
「はいはい、いつも通りにんにくは抜きですね?」
千鶴は再び厨房へ戻り理沙のための肉の準備を始めた。特製超レア・ステーキというのは色づく程度に軽く炙るだけなので、調理にはさほどの時間がかからない。
「ああ、このまま雪がずっとずーっと降り続いてホワイトクリスマスになるといいのに」
理沙の楽しそうな様子に寿海と土橋が呟く。
「そうなると明日から仕事でバイクが使えまくなりますなぁ」
「いやいやいや、そんな雪ばかりでは私の仕事がなくなってしまいますよ」
と、それまでずっと黙っていた花が反応した。
「雪ずっとダメ。サンタ遅刻する」
「大丈夫ですよ、花ちゃん。サンタくんはトナカイのそりで空飛んで、ちゃんと夜のうちに来ますからね」
と、赤間が言うと花はちょっと不満そうに言った。
「プレゼント、もっと早く欲しい」
「でも、あまり早い時間だと人目につきますからなぁ。夜になるまで我慢してあげましょうな」
寿海にそう言われ花はふうっとやや大人びた顔でため息をついた。
「仕方ない、待ってやる」
理沙は自分の前におかれた、ほとんど生の肉の山に目をキラキラさせながら言った。
「んー、美味しそう!私、プレゼントは超レア・ステーキ四人前で良いや」
土橋が千鶴から二杯目のほうじ茶受け取りながら言う。
「そういえば三太郎さん、今年は見ませんねぇ。前は冬至が近いとよくここにも現れたのに」
赤間がこほんと小さく咳払いして、訂正を入れた。
「三太郎ではなくサンタです、サンタクロース。冬至というより、クリスマスがあるのでこの時期に活発なんですよ、彼は」
元々キリスト教世界のクリスマスも、ミトラ教など他宗教の冬至祭に合わせてこの時期になったという説がある。なので土橋の言葉もあながち間違いではない。とは言え、この国においてのサンタクロースという存在はクリスマスに由来する物なので、訂正しておく必要があると赤間は思ったのだろう。
「そうそう『くりすます』でしたっけ。どうも西洋の行事はいまいち覚えられなくて」
照れ臭そうに笑って土橋はまたお茶をすすった。
「そろそろ覚えてあげましょう。西洋文化が入ってきて随分立つはずですよ? 」
「ええ追々覚えますよ」
と、土橋はいつもの笑顔で赤間に答えたが、この調子では一体何年後にクリスマスを認識出来ることやら。
頬張った肉を飲み込む合間に、理沙が言う。
「サンタさんなら、さっき商店街で招き猫のぬいぐるみで歳末大売り出しの呼び込みやってたよ。今年は普通のお仕事が少ないのかな? 」
「この近辺の駅前でも昨今は真赤なミニスカートの女性が店頭で呼び込みしたりしていますからね」
商店街での仕事も数多くこなしている赤間が言う。
「確かに今日もあちこちで見たなぁ、サンタ風キャンギャル。今日は冷えるから寒そうだったよ」
どちらかと言えば寒さには強い理沙だが、今日はきっちりロングブーツを履いている。
「ほっほっほ。あれは、なかなか眼福な年末風景ですからのう」
寿海の言葉に、理沙と千鶴が顔を見合わせて苦笑いした。