第2章 第6話 世界樹ユグドラシル
――|汝《なんじ》――|我《われ》に何を願う―――
声は静かに、かつ壮言に響いてきた。
聞こえるというよりは直接頭に響いてくるといったほうが近い。
同時に、それまで両手の先にあった樹の幹の感覚が、足元にあった冷たい水の感覚が、ゆっくりと周囲から失われていく。
暗闇の中に光の粒が映る。
真綿のように柔らかなその光は言葉とともに、かすかにその輝きを増したように見えた。
――ぼくの望みは
――大切な人を守りたいこと――
目を閉じ、辺りを包む柔らかな感触の中、青年は心に強く念じる。
――守るために力を必要とするのか――
所詮力は破壊のためのもの――
どれほど綺麗事を並べようがそれが真実――
――それでも、ぼくは力がほしい
大切な人を守れる力が
力は破壊だけじゃない
守るための力だってある
ぼくがほしいのは――守るための力――!
使うものの心次第――
それはこの世界で様々な書籍、文献に触れる中でジークの中に生まれた結論だった。
真に力あるものというのは、自身の力の使い方を理解しているもの。
心なき力が生み出すものはただの破壊。
力なき心が無力なように、心なき力もまた無力なのだと――
――汝には、その技量があるのか――
使い道を誤らないだけの、心の技量が――
――まだ、そんなことは分かりません
けれど、約束はします――
ぼくは決して、誤ったほうへ力を使ったりはしないと――
声は、答えなかった。
目の前の光が大きく輝きを増していく。
――ならば示せ
我が前に、汝の心を――
前方から吐き出される、強烈な光の波がジークを包む。
全身を貫くような衝撃の中で、彼は固く目を閉じたまま、ただひとつのことを考えていた。
――ぼくは生きて帰る――
ぼくを待ってくれている人がいるから――
守れるだけの力がほしいから――!
意識が次第に遠ざかっていく。
光の波は徐々に弱まる。
だがそのころには彼の身体はすべての力を使い果たしたように、ゆっくりと後方へ倒れ始めていた。
――!
不意に上がった水音と、腰から下をぬらす水の感覚に、ジークは一瞬にして我に返った。
すでに暗闇も、彼を襲った光も見えない。
ゆっくりと見上げる。目の前には巨大な樹木がそびえていた。
泉に囲まれた巨大樹。
その周囲を潤す、立てば膝の深さぐらいはありそうな泉の中に、彼は座り込んでいた。
「世界樹……ユグドラシル……。」
ゆっくりとその名を呼ぶ。
「あなたは、ぼくを認めてくれたのですか?」
フォルセティは言った。
ユグドラシルはこの森の一番奥、その頂は天にまでそびえる巨大樹だと。
だが決してそれ自身で何かを癒す力を持っているわけではない。
それは人間たちの伝承でよじれて伝わった事実。
真実はただひとつ。
ユグドラシルは自身と対話し、認められたものにのみその大いなる知識を、力の使い方を伝える、ひとつの神聖なる生命。
ジークはゆっくりと立ち上がった。
見上げるユグドラシルはどこまでも巨大で、その先ははるか遠く、空へと飲まれているようにさえ見えた。
「ジークフリード。」
背後からフォルセティの声がかかる。
振り向いたジークの目線の先に、衣服のすそをたくし上げるようにして泉に入る、森の番人の姿が見えた。
「……ユグドラシルと、話しました。」
ジークがゆっくりと語り始める。
フォルセティは何もきかない。
ただ無言で彼の次の言葉を待っている。
「……世界樹は言いました。
どんな力であっても使い方を誤れば、それはただの破壊に過ぎないと。
けれどもぼくが、それを理解したうえで力を使うのであれば、
ぼくがそのための知識を使うことを許してくれると。」
「ユグドラシルは生命の樹です。
それ自身が何かの力を持っているような存在ではなく、この世界のすべてを知り、世界のすべてにつながる大いなる知識の存在です。
その知識はときには人を守る力となり、あるいはそれを知る者に、望めばすべてを破壊するほどの力を与えることも可能なのです。」
「……。」
「あなたは、認められたのでしょうね。
彼のもつ知識を、その力を、決して誤って使ったりするものではないと。」
「……ぼくは、人を癒せる力がほしかった。
その力があれば、すべてを守れると思っていた。
けれど、世界樹と対話して、わかったんです。
癒すのも滅ぼすのも、みな一人の人間がすること。
責めるだけの力が力と呼べないように、癒しだけを守る力だと思うのも、また過ちなんだって。」
ジークの言葉に、フォルセティはやさしく笑みを浮かべた。
「そのとおりですよ。ジークフリード。
癒しは確かに守りの力です。けれど、それだけで守れるものは、そう多くは無い。
時には武器を取って戦ってこそ、守れるものもあるのです。」
「はい。」
「……ユグドラシルは、知識の後継者を見つけたようですね。
さあ、お行きなさい。
あなたには、それだけの力があるのだから。」
「……ありがとうございます!」
大きく頭を下げ、フォルセティに礼を言うと、ジークは森を駆け出していた。
その背中を振り向き見たフォルセティの表情にはそれまで見せていた笑顔ではなく、かすかな憂いが浮かんでいた。
「……約束でしたね……果たすときは、来ましたよ。」
吹き抜ける風が彼の髪を周囲へ乱す。
やがて突風が吹きぬけたとき、彼の姿は木の葉とともに風の中へとかき消きえていた。
精霊の森を抜け、孤児院の見える丘へ。
喜びと責任感に突き動かされていた彼は、しかしその瞬間、脳裏を完全に絶望と混乱に支配されていた。
――炎上する孤児院。
その両脚は絶望に震え、眼に映るものを否定しようとするかのように、彼は首を左右に振った。
やがて、
「シアルヴィさん!」
その名を口にすると、彼は猛然と駆け出していた。