君色の敗走ルート
止む気配がない雨の下、傘の中に男と女。ともすれば相合傘にも見えるが、ノボルもサナエも、そんな気分ではない。雨に濡れたノボルを見ながら、サナエは優しく微笑んだ。
「このままでは風邪をひいてしまう。家までついていってやるから、一緒に帰ろうではないか」
「そんなこと、できるわけないだろ」
「ん、どうした? 二人で歩くのは恥ずかしいのか? 一度二人きりで帰った仲ではないか」
「そうじゃなくて……」
依然として雨は降り止まない。サナエは大きくため息をついたが、すべて雨音にかき消された。
「まったく、まだ気にしているのか? 大体、私がヤスユキの彼女であったとしても、別にノボルと一緒に帰ってはいけないというルールはないだろう」
「それはそうだけど、やっぱり二人で歩くのはおかしいって」
「おかしくないだろう。単に恋人、彼女、そういった肩書が付いただけだ。だからといって、他の人と話したり一緒に行動したりしてはいけないという縛りを受ける理由にはならない」
「だけど……」
雨音に負けないほどの声で、ノボルはサナエに言い返そうとする。しかし、続く言葉が見つからず、言葉に詰まってしまった。
「なんだ、こんなところにいたのか」
突然、遠くから男の声がした。ノボルとサナエが振り返ると、傘を差したヤスユキが、ゆっくりとこちらに向かってきているのが見えた。
「なんだ、わざわざこんなところまで来たのか。帰り道はこっちではないはずだろう」
「そりゃ、彼女が飛び出ていったんだ、探さないわけにはいかないだろう」
「……そうか」
サナエは特に興味がないといった顔をして、ヤスユキから視線を外した。
十字路を一台の車がゆっくりと横切る。その車が通りすぎるのを見届けると、ヤスユキはサナエに言った。
「さあ、サナエ、一緒に帰ろう」
「どうして私がヤスユキと帰らなければならないのだ。大体、帰り道が別方向なのに一緒に帰るも何もないだろう」
「だから遠回りしてサナエの家の近くまで一緒に行こうと思ってるんだよ」
「不要だ。私は一人で帰れる。それに、ノボルもいるから」
そう言って、サナエはノボルの手を引っ張る。しかし、ノボルは動こうとしない。
「……? どうした、ノボル。そのまま風邪をひきたいのか?」
「ダメだよ。サナエはヤスユキと付き合ってるんだ。僕と一緒に帰ることなんてできるわけないだろう」
俯いて言うノボルを見て、サナエは言葉を失った。
「サナエ、今は俺と付き合ってるんだ。仲のいい女子と帰るならともかく、同じクラスの男子と帰るなら俺と帰るべきだろう」
「何故そうなるのだ。私は帰りたい人と帰るし、話したい人と話す。それでいいではないか?」
二人に必死に訴えるサナエだが、ノボルもヤスユキも首を振る。
「サナエ、付き合うっていうのは、そんな軽いことじゃないんだ。ましてや、わざわざ勝負までして決めたことなんだから」
「な、ノボルまで何を言いだすのだ?」
「だってそうだろ? 普通は、お互いのことをいつも思って、一緒に話をして、一緒に帰って、デートする、それが付き合うってことなんだ。相手のことを考えたら、そんなに簡単に異性と接触するべきじゃないんだ」
「そんな、それではノボルと話もできなくなるではないか。それは困るぞ」
「まったく話しちゃいけないってこともないけど……それでも、話す時間は短くなるかな」
「……」
サナエは黙ったままうつむいてしまった。ますます強くなる雨に半身が濡れているサナエに、ヤスユキは自分の傘をさした。
「で、どうするんだ? ノボルもサナエも、そういう覚悟があって勝負をしたと思うのだが、まさかここで約束を破るのか?」
ヤスユキに追い打ちをかけられ、サナエはため息をつく。数秒の間沈黙が続いたが、サナエは雨の中に飛び出し、カバンの中を探り始めた。
「わかった。約束は守ろう。私はヤスユキの彼女だ。これからずっと、私はヤスユキのことを考えるようにしよう」
そして、中から一本のカッターナイフを取りだした。
「だが、たとえどれだけ体を自由にされようとも、心まで自由にされることには我慢ならない。心まで相手の都合に合わせる必要があるなら、私は心を捨てる」
「さ、サナエ、何をするんだ! やめろ!」
「心配するなヤスユキ、私はお前の彼女だ。そして、お前は私の彼氏だ。恋人同士なのだから、相手がどんなことになっても、ずっと相手のことを思い続けるのだろう? なら、こうなってしまった私のことも、お前はずっと思い続ければいい」
「おい、やめろ!」
「いいじゃないか。どうせお前は、私の体が欲しくて私に近づいたのだろう? だから、体くらいは好きにすればいい。じゃあな」
そう言うと、サナエは躊躇なくカッターナイフの刃を出し、自分の左手首を切り裂いた。かなり深く切ったらしく、あたりに勢いよく血しぶきが舞う。その一部が、ノボルとヤスユキの体にもかかった。
「サナエ!」
ノボルは傘を放り出すと、慌ててサナエの元に駆け寄って体を抱きかかえる。そして何とか出血を止めようと、傷口から少し上の部分を強く握った。一方のヤスユキは、突然の出来事に動くことすらできない。
血しぶきが止まった後も、雨に流されて血が止まることはない。あたりが赤い色で染まり、側溝の穴へと流れていく。サナエは何とか顔を上げ、ノボルに話しかけた。
「ノボル……すまない……私には、こういうことしか……でき……」
「しゃべるな! だ、誰か、誰か救急車を!」
ノボルが大声で叫ぶと、通りかかった買い物帰りの主婦がそれを聞き、慌てて携帯電話を取りだした。少し聞き取りづらいが、どうやら救急車を呼んでくれているようだ。
「君ともっと、話が……したかった」
「わかった、怪我が治ったらたくさん話をしよう。だから今はしゃべるな」
「君は、やっぱり……やさしいな……私は……そんな君が……す……」
サナエが言いかけた時、ノボルの手が急に重くなる。サナエの全身から力が抜け、手足がだらりと垂れさがった。
同時に、雨がぴたりと止んだ。先ほどの主婦と、声を聞いた近所の人が、倒れたサナエの周りに集まってくる。ノボルはサナエをゆっくりと地面に置き、覆いかぶさるように泣きだした。それを見ていたヤスユキは、持っていた傘を落として肩から崩れ落ちた。
「な……何があったんだ? サナエは何をしたんだ? ノボルは何をしているんだ?」
ヤスユキは混乱しながら、頭の中に思い浮かんだ言葉をなんとか口にする。サナエの近くに向かおうにも、体が動かない。目の前では、集まってきた近くの住人が、必死にサナエに声を掛けている。電話で応援を頼んでいる人もいる。
そんな中、サナエのそばにいたはずのノボルが、ふらふらとヤスユキの方へとやってきた。ノボルの顔は、泣いた後ということもあって覇気がない。
「の、ノボル、サナエは一体……」
ヤスユキは恐る恐る立ち上がり、ノボルに尋ねた。ノボルは首を横に振る。
「あの出血、見ただろ? サナエはもう助からない」
ノボルの口から、重く低い声で告げられた。
「そんな……」
ヤスユキは両手をだらしなく前へ垂らし、肩を落とした。ノボルはさらに続ける。
「でも、心配はいらないよ。サナエは君の彼女なんだ。きっと、たとえ死んだ後でも、君のことを思ってくれる。だから、君も彼女のことをすっと思い続けるんだ」
「な、何を言って……」
「君はサナエのことが好きなんだろ? だったら別におかしなことは何もないじゃないか。これから先何年も、ずっと彼女のことを思い続ける。それが恋人なんだろ?」
そう言うと、ノボルは落ちていたサナエの傘を拾い、畳んで自分の家に向かって歩きだした。
「あ、そうだ」
数歩進んだところで、ノボルは立ち止まって首だけヤスユキの方へ向けた。
「サナエは浮気とか許さない性格だと思うんだ。せいぜい他の女の子に手を出さないように、注意しないとね」
最後まで言い終わると、ノボルは再び自分の家へと歩きだす。それを見て、ヤスユキはコンクリートの地面を両手でたたきつけた。
「どうして、どうしてこうなるんだよ! こんなのおかしいじゃないか!」
その叫び声と同時に、遠くから救急車のサイレンの音が聞こえる。それをかき消そうとするように、再び強い雨が降り始めた。
好きな気持ちを素直に伝えられなかった少女。
少女に好意を向けながらも、少女を得られなかった少年。
勝負に勝ったのに、少女の心を得られなかった少年。
本当の敗者は誰?