どん、どんどん、どんどん……
 雨乞いの太鼓が遠くで鳴っている。
 山深い祠に残された女はその身を横たえ、『それ』が現れるのを待っていた。
 どん、どんどん、どんどん。
 太鼓の音がまた遠くなる……

 時は徳川三代家光公の治世。江戸から遠く離れたこの村では、雨乞いのために生娘を鬼に差し出すという風習が残っている。
 千代は、三つの理由で今回の生贄に選ばれた。一つはもちろん、生娘であること。もう一つには年頃であること。そして、身寄りがいないこと……三つのときに母と死に別れ、おととしのはやり病で父親も死んだ。彼女が鬼に食われたとしても、それを嘆いてくれる親戚すらない。
 諦めた身とはいえ、冷たく軋む小さな堂の中に取り残されれば、恐怖ばかりが眦から流れ出す。ささくれ立った床板に染み込む涙が、この世に残す最後の形見となるはずだ。
 きゅうと目を瞑ってひたすらに念仏を唱えていると、堂の扉が軋みながら開いた。ぺたぺたと無遠慮な足音が近づく。
「また、雨乞いか……」
 存外に若く聞こえるその声に目を開けば、間近で自分を見つめている日焼けした男と目が合った。年のころは二十歳をやっと越えたところだろうか。クルリと黒目がちな瞳が、急に視線の合った驚きに見開かれている。
 だが彼の頭を見た千代のほうは、恐怖に目を見開いた。
 伸ばしっぱなしのざんばらを緩く麻縄で括った中、頭頂に程近い所に、にゅっと二本の角が突き出している。軽く開いた唇の隙間からは、牙がちらりと見えていた。
「人間なんか、もらっても困るんじゃがな。」
 言葉と共に、ふうっと暖かい呼気が鼻先にかかる。千代はびくりと身を固く抱いた。
「しかも、律儀に生娘を寄越しおったか。」
 困ったように眉根を寄せた顔が、千代から離れる。
 身を起こした彼は、深い溜息をついた。
「娘、そんなに恐れんでも、喰ろうたりはせん。人間はうるさい上に、不味いからな。」
「人を……食べたことがあるんですか!」
「わしは鬼じゃぞ。あるに決まっておろう。」
 にやりと上がる口から、大きく鋭い犬歯がぎらりと覗く。
「じゃが、今は喰わん。」
 眦を大きく下げて笑う表情は柔らかく、千代にはなぜか、それがとても寂しげに見えた。
「それより困るのは、お前のことだ、娘子《むすめご》。」
「私は……あなたへの貢っ……物でございます。全ての覚っ悟は……出来ております。」
「そんなに震えておるのに?」
「どうせっ……村へは帰れぬ身。あなたにまで見捨てられるのなら、自ら命を……」
「あああ、すまんかった。いじめすぎじゃな。」
 鬼は肉厚く、節のたった手でぽんぽんと千代の頭を撫でる。
「いくら貢物を貰っても、わしには雨を降らしてやれる神通力がある訳じゃない。確かに100年生きておってもこれっぽっちしか歳をとらんし、力だって人間からは考えられんほどにある。だが、それだけじゃ。それが口惜しくてな。」
「いい人……いえ、鬼なのですね。」
「鬼にいいも悪いもあるわけが無かろう。」 
 ふっと笑息を漏らす横顔は、やはり千代には、寂しいもののようにしか思えなかった。
「ここに居っても仕方がない。とりあえず、わしの住処に連れて行くぞ。」
 固いほどに筋肉《にく》づいた、太い腕が『貢物』を抱えあげる。微かに汗ばんだその感触に千代は、諦めとも安堵ともつかぬ複雑な気持ちでもたれかかった。

 鬼の住処と呼ぶには、そこはあまりにものどかなところだった。
 山奥を開墾した段々畑を背に、昔風のちいさな藁葺き屋根。軒では数羽の鶏がしきりに地面をついばんでいる。そして家の前の小さな庭先には、様々な花が植えられていた。
 今夜にも蕾を開きそうな、たおやかな夕顔。垣根に巻きついた鉄線。白い花を満開に纏った槿……中でも目を引いたのは、背の高い茶色と黄色の見たことも無い花である。
「これは?」
「向日葵だ。もっとも、丈菊と言った方が知れて居るがな。」
「随分と元気のいい花ですね。」
 茎は太く、葉は手のひらより大きい。そして頂に大きく開いた花も、千代の顔より大きなものだった。
「舶来の花でな。数寄物から種を分けてもらったんじゃ。」
「花がお好きなんですか。」
「花好きじゃったのは、わしじゃない。死んだ女房じゃ。」
 ひときわ寂しそうに瞳を伏せた彼が戸を開く。
「そこに突っ立って居っても仕方が無いじゃろう。何も無いところじゃが、入れ。」
 狭い家の中は確かにがらんとしていた。
 敷きっぱなしの布団に、くもの巣の張った竈。煮炊きの鍋は自在鍵に引っかかって、熾き火の上で湯気を上げている。
「やもめ暮らしじゃからな。」
 鬼が笑いながら布団をたたんだ。
「さて、おぬしのこれからを考えんといかんのう。」
 板の間に座らされた千代は、がばと額づく。
「どのような扱いをされても構いません。ここへ置いてください。」
 生贄として選ばれた時点で、村からは捨てられたも同然だ。いまさら帰されたところで、生贄の責を捨てて逃げ帰った女を、誰も許しはしないだろう。もう、どこにも行く当ては無い。
「わしとしても、飯炊きが居てくれるのはありがたい限りじゃ。じゃが、何時までもここに居られては困る。わしができるだけ離れた村に奉公を探してやるから、それまでじゃぞ。」
 鬼の言葉に、千代がさらに額を擦る。
「そんなことをせんでもいいから、名を聞かせてはくれぬか。」
「千代、でござます。」
「ふむ、おチヨか。わしのことは鬼童《きどう》と呼べばいい。」
 こうして千代は、鬼童の家に宿を借りることとなった。
けたたましい雄鶏の声と共に、鼻腔に流れ込む朝餉の湯気の香が鬼童の眠りを破る。妻が死ぬ前は、毎朝こうして目を覚ましたものだ。
 しかし、とんとんと小気味良く菜を刻む音は雑で落ち着きが無い。
 軽く身を起こした彼は、竈の前をパタパタと走り回るその後姿に、小さな笑息を漏らした。
(落ち着かん娘じゃ。)
 千代は、刻んだ菜をがっと鍋に放り込み、パタパタと何を取りにか走り出す。鍋蓋の熱さに驚いて、両手を振り回す……
「味噌はその水がめの横じゃ。」
 声をかければ、振り向いたその顔がちょっとバツが悪そうな笑顔を浮かべた。
(じゃが、愛嬌はある。)
 夕べは考えもつかなかったが、妻として娶るのもわるくはない。もともと自分に差し出された女だ。ここに置いたところで、誰が文句を言うわけでもなかろう。
 起き上がって軽く体を伸ばせば、庭先の夕顔の白が目に入った。夕べのうちに開いたそれは既にしぼみはじめ、花弁は悲しげに垂れている。
(あれは、夕顔のような女じゃった。)
 妻……お実《さね》は病弱で、千代のように騒々しい女ではなかった。菜の刻み方一つとっても、とん、とんと丁寧な音をたてる。何をするにもふわり、ふわりと優雅にも思える落ち着きがあった。儚く微笑む色の白い顔を、今でも忘れてはいない。
 人間であった彼女と連れ添った20年は永く生きる鬼童には余りに短い。病弱なお実と違って健康的なこの女は、長生きするかもしれない。だが、それはたった百年に満たないことだ。鬼の寿命とはあまりにつりあわない。
(この娘も所詮は人間……か。)
 妻を看取った瞬間の孤独感を思うと、鬼童はどうしても、この女を抱く気にはなれなかった。

アザとー
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アザとー

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