(4)
七時二十五分。ケイタからの電話が鳴った。
「今どこだよ」
「渋滞で動かないの」
「はあ? 仕方ないな……もう始まるから中入るけど、ついたら電話しろ」
「わかった」
通話時間十五秒。これでも長いほうかもしれない。
「大丈夫ですか」
「ええ、大丈夫です」
もう降りる必要はなくなった。ゆっくり乗っていこう。
「今日、ニューオータニで何かあるんですか。何人か乗せてましてね」
「ええ、政治家さんのパーティがあるんです」
「そうなんですか」
「運転手さん、長いんですか? タクシーは」
「五年ほど前にね。勤めていた会社が倒産しまして。それからです」
「独立するよ」
「これからどうするの? お金は大丈夫なの?」
ケイタは頷くだけで、それ以上は何も言わなかった。
五年前、ケイタは勤めていた会計事務所を辞め、コンサルタント会社を立ち上げた。会計士として優秀だったらしい。あっという間にクライエントをつけ、事務所は大きくなった。
主なクライエントは政治家。夫は『処理できないもの』を処理する会計士。
月に一回か二回、『先生方』のパーティに出席する。よほどのことがない限りは、夫婦同伴がルール。私達は、仲睦まじい、美男美女のセレブ夫婦を演じる。腕を組み、微笑み合い、時には夫が私の肩を抱く。
おきれいな奥様ですね、と言われケイタは満足そうに笑い、素敵なご主人ね、と言われ私も満足そうに笑う。ちっとも満足なんてしていないのに。ああ、でも、ケイタは満足してるのかな。だって、あの人が求めるのは見た目だもの。あの人が好きなのはサクラマスミではなく、サクラマスミの『見た目』だもん。
「妻のおかげで、仕事に打ち込めるんですよ」
そうね、私はいい妻。あなたの望む『いい妻』なのよ。
「大変でしたね」
「まあねえ。でも、嫁さんが言ってくれたんですよ。しばらくゆっくりして、子供と遊んでやってって。私がパートに出るからって。それまで結構忙しくて、子供と一緒に遊んでやることもなくてね。ほんと、感謝してますよ」
「いい奥さんなんだ」
「そうですねえ。いい女です」
ショウゴ、幸せなんだね。なんか安心した。
「つきました。時間かかってしまって、申し訳ありません」
「いいえ、渋滞は運転手さんのせいじゃないですから。おいくらですか」
「二千八百六十円です」
私は一万円札を出した。
「おつりは結構です」
ショウゴは少し怪訝な顔をし、ありがとうございます、と言った。自動でドアが開き、降り際に、ショウゴが手を握った。
「幸せか」
「……幸せだよ」
「そうか、そんだらええ」
ショウゴがどんな顔をしていたのか、それは見えなかったけど、きっと、笑ってたよね。だって、ショウゴはいっつも私に笑ってくれてたから。
ほんとはね、時々思うんだ。あの時、あの部屋を出て行かなかったら、ケイタと花火に行かなかったら、あの塾でバイトしなかったら……でも、もう二十年は戻ってこない。戻ってこないんだよ。バカだったね、私。ほんとバカ。
バイバイ、ショウゴ。幸せに、ずっと幸せでいてね。