12
月曜日、僕は登校してくる陽平を教室前の廊下で待ち伏せした。
観覧車の前で突然帰ってしまったことを詫びたかったからだ。
彼は怒るどころか珍しく神妙な顔で僕に向き合った。
「いや、こっちこそ悪かったなって考えてたんだ。俺も母親がずっと入院してたらデート気分で観覧車乗って騒ぐなんて気にはちょっとなれないと思う」
陽平は勘違いをしたままだったので曖昧に小さく頷くことで僕はそれに合わせた。
しかし頭の中にはまたあの映像が蘇ってきて土日の間に考えていたことが堂々巡りを始める。
談笑する親父と坂本先生。
二人の関係はどういうものなのだろうか。
そのことが気になって僕は土曜日からうまく眠れていない。
仮に二人が今も僕を介した上での関係でしかなく一生徒の父親と担任教師の間柄から深化していないのであったとしても、僕はあの風景をさらりと、まるであのとき二人が乗った車が僕の脇を過ぎていったように、一つの何でもない日常として記憶の片隅に消化することは絶対にできないと思う。
それはやはり親父が母さんのことを疎かにしている印象につながるからだ。
母さんが入院しているときに何やってるんだ、と無性に頭にくる。
坂本先生だってうちの家庭状況が大変だってことを知っていながらあんな風に無邪気に親父との会話を楽しむなんて分別が足りないように思えて僕は本当に良い気がしない。
だが、二人が何でもない関係であるという想定のもとでは親父や坂本先生に対する感情は僕が飲み込みさえすればそれで済む話だった。
それは転んだ時の膝にできた擦り傷のようなもので、一時は苦痛を伴うがやがてかさぶたとなりいつの間にかどこにあったのか分からなくなるぐらいに時間の経過とともに消えていってしまう。
問題は、やはりおぞましいことだが二人が不倫という仲に陥っている場合だ。
あるいは、これからそうなろうとしている過程の段階であるケース。
胸糞悪い最悪の場合だ。
こんなことをいくら考えたって想像の域を出ないのだから考えるだけ無駄で精神衛生上良くないとは分かっている。
しかし、あの二人を見てしまった以上僕はこのことに目を瞑ることができないでいる。
考え過ぎなのかもしれないがあのときの親父と坂本先生が作り出していた空気に夏の汗臭い肌が絡み合ったあとのような熟んで汚れたにおいを嗅ぎ取った気がしてならない。
もし二人がそういう関係になっていたとして、僕は彼らを非難する前に、正当化まではできないにしろ何かしらその罪を軽くするような情状酌量の余地はないかと考えていた。
不倫は世間一般的にも法に照らしても良いことのはずがない。
目を血走らせ肩を怒らせて不行跡をあげつらう非難の言葉はいくらでも出てきそうだ。
しかし、親父が根っからの悪い人間ではないことを僕は知っている。
だから、肥溜めに手を突っ込むようなことでもそこに親父がいるのなら僕は何とか救いの手を差し伸べたいような気がしている。
陽平に相談したら「親父と担任教師である前に男と女なんだから理由なんかない」などと鼻で笑われてしまいそうだ。
だけど、僕はあの親父が不倫の道を進んでいるのならその選択肢をとってしまったよんどころのない事情がその胸に大きく横たわっているように思うのだ。
一つは、仕事の行き詰まり。
喜び勇んで取りかかった発掘の仕事が一年かけても成果らしい成果を見せないまま規模が縮小されているという現実は聞かされなくても想像に難くない。
リーダーの大役を任され自負と期待を胸に秘めて臨んだ現場から何も出てこなかった失望感はいかほどか。
僕には知りようもないが晴らしようのない欝憤が親父の胸には充満しているのだろう。
もう一つは母さんのこと。
親父にとっての妻の状況が事故以来全く好転していない。
入院が長期化していて母さんが家にいない日々はいつ終わると知れない。
そんな生活を送り続ける中で息子である僕は少しずつその閉そく感に息苦しくなり、全身に疲労を感じてきている。僕がそうであるのなら、夫である親父の苦しみとなると如何ばかりだろうか。
母さんのことでは僕も目を背けていることがある。
それは母さんがこのまま本復することがないかもしれないということだ。
怖いこと、本当に恐ろしいことだが、この二年間の現実を客観的に見れば僕だってやっぱりその可能性は低くないということぐらい分かる。
正直言えば完治を期待していながらも、頭のどこかでは今の状況が続くうちはまだ良いのではないかと理解していた。
そして今の状況が永遠ではないことも。
僕はただ、そういう考えに行きつく自分に無理やりストップをかけてそこから先の思考をうやむやにしているだけなのだ。
毎日毎日わざと思考の一部分を麻痺させている。
この二年間の看病生活を送るなかで都合の悪い想定を直視しないで時間を過ぎさせる術を身につけていた。
発掘の仕事で忙しく立ち回っている間は親父も妻の状況を忘れることができていたのかもしれない。
忙しさに気を紛らわせていたのが、急に考える時間を与えられ不意に現実に立ち戻ってしまった。
物事の先を追ってひとりでに走っていく思考にストップをかけるのが間に合わなかった。
そのとき親父は妻の遠くない死を強く予感したのではないか。
未来を想像するとき、現実にがっかりしなくてすむようにあらかじめ悪いケースを想定し自分に言い聞かせておくことがよくある。
太古の昔から人類は本能としてその能力を備えていたからこそ未だに繁栄の途にあるのかもしれない。
その本能に従って妻に先立たれることを想定したとき、自分を守るためにはどうするか。
誰だって失望の程度は最小にしたい。
だとすれば妻を想う気持ちを今のうちに小さくしておこうとするのは当然の帰着点だ。
その結果親父の心には余った部分ができてしまうだろう。
悟りでも開かない限り心を空白になんかしておくことはできない。
その余分の心は妻以外のどこかに向いてしまうことになる。
そこに誰かが現れればどうなるか。
仕事と家庭に行き詰まりを覚えたがゆえに不倫に走ったのだとしてもやはり親父を僕は罵倒する権利はあるだろう。
しかし、ただそれだけのことで良いのだろうか。
いくら罵っても何の解決にもならない。
現実はそんな短絡的なものでは済まないし、実の子である僕には他に担うべき役目があるように思えた。
「光太郎はよく頑張ってると思うよ、俺は。今の頑張りはきっと将来お前にとって深い意味を持ってくるだろうな」
何も知らない陽平にそう言われても逆につらいだけだ。
僕は黙って首を横に振った。
僕は何も頑張れていない。
母さんに対しても親父に対しても自分自身に対しても。
毎日、毎日を無意味にだらだらと過ごしている。
その時、壁にもたれて話している僕と陽平の前を佐伯が通り過ぎていった。
気づいているのかいないのか僕らには挨拶どころか顔を向けることさえしなかった。
「佐伯に訊かれたんだよ。光太郎のお母さんはいつから入院してるのかって」
陽平は佐伯の背中が教室のドアの向こうに消えてからこちらに顔を向けた。「だから二年前に交通事故にあって、それからずっと身体の調子が良くないんだって言っちゃったんだけど。……まずかったか?」
「いや、いいよ」
本来なら病院にいる母親のところへ行くと言った僕自身がその説明までして帰るべきだったのだろう。
あんな別れ方をしたら誰だって気になって当然だ。
「結局、佐伯は観覧車に乗らなかったんだ」
「え?」
僕の心は不意に大きく揺さぶられた。
「次に俺たちが乗る番ってところまできて突然、あたし帰る、ってすたこらさっさ。引きとめようとしたんだけど、係員に、早く乗って、って急かされて仕方なく沙織と二人きりで乗るはめになっちゃってさ。あいつ、向かい合って座ればいいのにカップルみたいに横に並んで、高いところ怖いの、とかなんとか言ってくっついてきて。観覧車が終わったら無理やりカラオケボックスに引きずり込まれて延々と恋愛ソングを聞かされてさ。俺の目を見て、好きだの愛してるだの歌ってきて、どうしたもんかとほんと困ったよ」
他の男子が聞いたら滂沱たる涙を流して羨むような沙織とのシチュエーションだ。
疎ましげに語る陽平に僕は呆れつつももう一度謝った。
教室に戻ると佐伯は自分の席で窓の外を眺めていた。
佐伯が観覧車に乗らなかったことは驚きだった。
彼女が垣間見せていたあのメルヘンチックな乗り物に対する並々ならぬ意欲を僕の言動が減退させてしまったのなら本当に申し訳なく思う。
団体行動を乱さないことが部活動では大事なのだ、と偉そうに説いていた僕が独りよがりの行動をしてしまったことも詫びなくてはいけないところだ。
しかし、教室で見る佐伯の横顔からは何人も話しかけてくるなというオーラがビンビン伝わってきてどうにも彼女に声をかけることができない。
とりあえず昼休みに先に沙織に謝りに行った。
沙織に話しかけると、周囲の男子からの殺気の籠った視線が痛いの痛くないのって。
「お母さんのことで大変な仁科君にはこんなこと言って本当に申し訳ないんだけど……。あの後、すっごく楽しかったの。充実したって言うか弾けたって言うか。文字どおり猛アタックできたの。だから図らずもだろうけど、あんな場面を提供してもらえて仁科君にはものすごく感謝してる」
本当にありがとう。
感極まった様子で沙織が僕の手を取って頭を下げると僕はもう火あぶりにされているようないたたまれなさを感じて、ほうほうの体で逃げるように沙織のクラスを後にした。
放課後になって漸く僕は佐伯のもとへ向かうことにした。
彼女はきっと今日も美術室にこもり買ったばかりの絵具でキャンパスに新しい色彩を施していることだろう。
そこへずかずかと乗り込み作業の邪魔をするのは非常に勇気のいることだが、今日を逃してはもう二度と謝るタイミングは来ないような気がしていた。
三階は教室のドアも廊下の窓も全て開け放たれている。
近づいていくと部屋の中から夏の余韻が残った少し生ぬるい風に運ばれて絵具のにおいが漂ってきた。
長年にわたって美術室の床や壁や天井に浸みこんだ決して強くはないが濃く深いにおい。
懐かしいような、それでいて肩身の狭い寂しい感情が胸に訪れる。
僕は確かに美術部に籍を置いていたが、部活動のためにここに来たのは本当に数えるほどしかない。
当然上達するはずもなくろくに作品を仕上げることもなくそれでも少し生真面目な性格で時折義務感に突き動かされて顔を出したこの教室。
こそこそと廊下から中を覗き見る。
美術室には二人の生徒がいるだけだったことに僕は少しほっとする。
そのうちの一人、奥の窓際で黒板に向かって座っているのが佐伯だった。
いつにも増して険しい表情。
この暑さのなか、他を寄せ付けない圧倒的な雰囲気を醸し出してキャンバスに正対して鎮座している。
もう一人、廊下側で行き詰った感じで少し小首を傾げキャンバスを眺めている女子生徒の顔に僕は覚えがなかった。
あの鬼気迫る形相の佐伯と同じ空間でよくも平然と作業ができるな、と半ば呆れてしまうが、それはそれで感嘆に値する胆力だとも思った。
僕は小さく、「失礼します」と口の中で言って足を踏み入れた。
廊下側の女子生徒が軽く僕に会釈する。
僕のことを知っているのだろうか。
彼女の目に少し親しみがこもっているように見えた。
放課後に美術室に来る人間は美術部に関係しているだろうと思ってお辞儀をしてくれたのかもしれない。
僕も軽く頭を下げて彼女の前を通り過ぎる。
「ちょっといいかな」
キャンバスを挟んで向かい合う位置に立っても顔色一つ変えずに筆を走らせている佐伯に僕はおずおずと声を掛けた。
目の前に立っていて聞こえていないはずがないし、視界に入っていないはずがない。
しかし、佐伯から返事はない。
佐伯は本当にキャンバスの四角い枠以外に視野が及んでいないような様子で作業を続けている。
詫びを入れに来たのに邪魔はできない。
僕はその場で立ち続けているしかなかった。
暑くてじっとしているだけで額に汗がにじんでくる。
手持無沙汰で窓の外に目を向ける。
土埃の舞うグラウンドで野球部員が監督のノックを代わる代わる受け、走り高跳びの練習をする陸上部がいて、サッカー部員がいろんな角度からシュート練習を行っている。
目を凝らすと陽平もそこで一緒に汗を流していた。
陽平の動きは他の生徒と比べると歴然とした違いがあった。
パスを受けるときのトラップの安定感。
縦にドリブルすると見せかけての鋭い切り返し。
速い振り抜きからの強烈なシュート。
ここまでは聞こえてこないがゴール裏で見ている女子生徒たちが歓声を上げているのが分かる。
あの男前があんな動きを見せたら、そりゃうっとりしちゃうよな。
「何?」
「へ?」
気がつくと佐伯が怪訝な顔つきで僕を見上げていた。
「あたしに用があるんでしょ?」
射るような眼差しでずどんと訊かれると心構えがあってもまごついてしまう。
「そうなんだ。あの、その、土曜日はごめん。急に、その……」
何て話せば良いんだろう。
母さんの顔が見たくなって何も言わずに帰っちゃった、などとは言えないし。
「そんなことよりさ」
佐伯はおもむろに絵具を仕舞いだした。
今日の活動はもう終わりなのだろうか。
「K高校って難しいの?」
「受験のこと?そうだなぁ。うちの学校からだと上位三十ぐらいまでかな」
「三十!」
佐伯は一瞬目を見開くと、途方に暮れたように腕を組み口をへの字に曲げた。
「K高に行きたいの?」
「K高には楠木って先生がいるんだろ?」
「そうなの?知らないな」
そう言うと佐伯は僕を蔑むような目で眺めた。
「光太郎、美術部のくせにK高のクスクス知らないのかよ」
「知らないよ。そんなに有名なの?その先生」
知らないものは知らない。
しかし、僕は何となく自分の返答が失敗だったような嫌な予感を覚えた。
佐伯は椅子の背もたれに身を預けて顔を廊下側に向けた。
「部長、この人こんなこと言ってるよ」
佐伯に声を掛けられた廊下側の女子生徒が困ったような顔で僕の方を見た。
部長?
彼女が僕に責任を追及してきた西堀だったのか。
「仁科先輩、K高の楠木先生はこのあたりの学校の美術部員のあこがれの存在ですよ。私の学年の部員は楠木先生の指導を受けたくてみんなK高を目指してます」
「光太郎。それでも少しは美術を志してるのか?」
試すような口ぶりの佐伯に僕は足もとから怖気が這いあがってくるのを覚える。
「ま、まあね」
とうとう化けの皮がはがれようとしている。
僕は佐伯の手によって拷問にかけられ、この絵具の飛び散った美術室の床は僕の血でさらに一つ染みを増やすことになるのか。
「ま、いいけど」
佐伯は組んでいた腕をほどき頭の後ろで指を交差させた。「光太郎ってこないだの実力テスト、学年で何位だった?」
突然、佐伯が僕のプライベートに足を踏み込んでくる。
テストの順位は受験生にとって神経質になる分野だ。
「何でそんなこと答えなきゃ……」
「何位だった?」
佐伯の眼は威圧的だった。
聞きだすまで引き下がらないという意思表示が顔に現われている。
彼女の傲慢な態度の前には僕の抵抗など空しい。
「……九位だけど」
「九!」
佐伯は目を見開いて再び西堀の方に顔を向けた。「部長、九位だって」
「すごいですね。羨ましいな」
「光太郎はK高受けるの?」
「まあ、そのつもりだけど」
佐伯は明らかに僕を見る目の色を変えた。
「さっきも部長と話してたんだけどさ、あたしたち勉強が苦手で。非常にまずいことにあたし九十位。部長はあたしより少しよくて七十位」
「ちょっと、佐伯先輩。内緒って言ったじゃないですか」
「まあまあ」
二人は打ち解けた様子だった。
佐伯が部活に対する姿勢を改め、美術部員も彼女のことを認めたということだろう。
そのことに自分が一役買えたということなら少し誇らしい気持ちになる。
「光太郎」
「何?」
佐伯の僕を見る目にいつの間にか蔑みが消え、信じられないことだが少し媚びているような印象がある。
佐伯がこんな視線を送ってくるとは思ってもみなかった。
何か嘘くさい。
「勉強教えてくんない?」
「それはいいけど」
「ほんと?よし、じゃあ早速」
「え?今から?」
「そ。今から」
「俺、あと一時間ぐらいしたら用事があるんだけど」
もちろん今日も病院に行くつもりだ。
「じゃああと一時間」
佐伯は僕の用事が何かを訊くことなく、テキパキと後始末を終わらせた。「部長。悪いんだけどこの絵、乾いたら準備室にしまっといてくれる?」
そう言ってイーゼルごと美術室の隅に動かした絵には女性が描かれていた。
三面鏡の前に座り口紅を引く女性の後ろ姿。
彼女は背後に立った誰かに気づいたようで鏡越しに目で微笑んで見せている。
これは佐伯の母親だろうか。
何気ない生活の一風景に現れた母親の愛する我が子への深い慈愛の情が表現されているように僕は受け取った。
「行こ」
佐伯が僕の袖を引っ張るように掴む。
「どこへ?」
「図書室。別にあたしんちでもいいけど、どっちがいい?」
何かを試すように僕の顔を覗き見る佐伯にどぎまぎしてしまう。
僕は慌てて答えた。
「図書室で」
廊下に出た僕らの背中に西堀が、「ごゆっくり」と声を掛けたので僕は振り返って思いきり睨みつけた。
しかし、西堀は首をすくめて小さく舌を出しただけだった。