13
僕と佐伯はそれから毎日放課後に図書室で教科書や参考書を開きシャーペンを走らせた。
基本的には個別に自分の勉強を進め、分からないところがあれば佐伯が僕に訊くという感じだった。
前の日の夜に取り組んで間違えた問題の解き方を質問されることが多く、訊かれれば僕はできるだけ丁寧に佐伯に教えた。
佐伯は毎晩欠かさず問題集を解いてきた。
しかも結構な量を。
質問の数と内容からしておそらく僕以上に勉強に時間をかけている。
そして僕への質問は常に前傾姿勢だ。
佐伯が真剣にK高校を目指していることが意外にも僕には良い刺激となって集中力を向上させた。
人に教えることは思っていたよりも難しく自分のためにもなった。
佐伯に教えているようで自分の基礎を固めることにつながる場面が多々あって、はじめは乗り気でなかった僕も次第に二人で勉強することの意義深さを思い知った。
図書室は静かだった。
収められている本は古いものばかりで、かつ狭いので図書室を利用する生徒は少なく、しかし何故か空調は良くきいていて勉強するには好条件の穴場でもあった。
勉強に集中しているからか佐伯はぱったり美術室に行かなくなった。
あの三面鏡に映る女性は誰だったのだろう。
それを僕はまだ佐伯に訊いていない。
「やばっ。光太郎。もう五時だよ!」
向かいに座った佐伯の抑えてはいるが鋭い声が図書室の静寂を切り裂くように響く。
「え?もう?」
僕は顔を上げて壁の時計を確認する。「ほんとだ。じゃあ、今日はこの辺で」
僕らは机の上を急いで仕舞い始めた。
佐伯は僕が毎日母さんの見舞いに行くことを知っていて、時間になると気をつけて教えてくれることがある。
しかし、今日は二人とも勉強に集中していたせいか時計に気づくのが遅れたようだ。
今頃母さんは僕のいない病室で一人寂しく目を覚ましているに違いない。
僕らは競うように図書室から出た。
ツクツクボウシが鳴いている。
長かった夏も終わりだ。
明日からは中間テストが始まる。
「ねえ」
「何?」
「そのうちあたしもお見舞いに行っていいかな」
その提案に僕は一瞬返事が出来なかった。
もちろん佐伯が病院に来ること自体は母さんの病状に関して何も問題はない。
しかし僕が女の子を連れてきたとなったときの母さんのはしゃぎようが目に浮かんでどうにも面倒に思えたのだ。
「やっぱちょっと非常識だよね。忘れて」
僕の顔色を深読みしたのか佐伯が少し申し訳なさそうに頭を搔く。
「いや、全然そんなことないよ。喜ぶと思うし」
ぎこちなく笑いながら僕は母さんに頼まれていたことを思い出した。「そうだ、佐伯にお願いがあるんだけど」
「何?」
「お見舞いに来るときに麦わら帽子を買ってきてほしいんだ。もちろんお金は俺が出すからさ」
「お金のことはいいけど、何で麦わら帽子?もう季節じゃないよ」
「ちょっと前に散歩を勧めたときに母さんに日焼け対策用に頼まれてたんだ。日焼け止めぐらいならコンビニに売ってるからいいんだけど、麦わら帽子はどこで買えるのか分からなくて」
雑誌に載っているようなもので、つばが広くて花柄のリボンがついていて、と説明していると佐伯がクスッと笑った。
「お母さん、可愛い人だね」
佐伯は自分の胸を叩くような仕種を見せる。「お任せあれ。きっと気に入ってもらえるの見つけてくるよ」
「ありがと。これで母さんももう少し積極的に身体を動かしてくれるようになると思うよ」
「うん。それじゃ、ここで。あたしはちょっと美術室に寄るから」
僕と佐伯は美術室と校舎をつなぐ渡り廊下で互いに手を振り合った。
僕は佐伯の背中を見送りながら顔の横で振っていた手をゆっくり握りしめた。
彼女の姿が階段の上に消えたのを確認して僕は少し駆け足気味に自転車置き場に向かった。
あの佐伯とこんなに屈託なく話せるようになるとは思ってもみなかった。
佐伯はクラスの中では相変わらず仏頂面で通しており、僕と二人でいるときの口数の多さや柔らかい表情を普段見せることは全くない。
ここのところ図書室通いをしているうちに気づいたことは彼女は意外に人見知りで恥ずかしがり屋だということだ。
その性格が彼女の日常の鉄仮面のような感情を出さない顔や他を寄せ付けない雰囲気を作り出している面はあるのではないだろうか。
図書室で気分転換に手に取った本を借りるとき、図書委員に申し出て所定の用紙に必要事項を記入するだけなのに、顔を少し赤らめて僕に頼んだりする。
一度、西堀が他の美術部員と一緒に図書室に来たときに挨拶されると西堀ともろくすっぽ言葉を交わすことをせず、彼女たちが出ていくと大きく息を吐き出したり、うつむきがちにハンカチで額や首筋の汗を押さえたりするのだ。
あんな風に素の表情(僕が思っているだけだが)を僕の前で見せてくれるのはもしかして僕のことを……。まさかね。
自転車置き場にたどり着き、鞄を前かごに入れたときに僕は小さな悲鳴のようなものを聞いた気がした。
聞いたというよりそれは直接僕の心に訴えかけてきたような感覚だった。
しかも声の主は佐伯だったような。
錯覚だろうか。
少し佐伯のことについて考え過ぎなのかもしれない。
僕は校舎を振り返り美術室のあたりを仰ぎ見た。
校舎は僕の微細な第六感を否定するようにどっしりと静かな威厳を秘めてそこに佇んでいた。
美術室の窓ガラスが夕焼けを反射して茜色に輝いている。
佐伯はあそこにいるのだろうか。
僕は鞄を自転車の前かごに残したまま校舎に駆け戻った。
今から全力で自転車をこいでも母さんと話ができる時間はわずかしか残らないのにと後ろ髪を引かれる思いがしたが、どうにも先ほどの僕の心に届いた佐伯の声に胸騒ぎを感じずにはいられない。
ちょっと確認するだけ。
何事もなければそれですぐに引き返せば良い。
靴を脱ぎ、上履きを履く手間を惜しんで靴下のまま一気に三階に駆け上がったところで今度ははっきりと佐伯の声を耳で捉えた。
やっぱり錯覚なんかじゃなかった。
「やめろよっ!離せっ!」
美術室の中で床にイーゼルや絵筆などが転がったような硬質な音が廊下に響き渡る。
佐伯が誰かと揉み合っているようだった。
レイプという言葉が脳裏に浮かんで僕は階段の上で動けなくなった。
佐伯の身に何かあったのではないかという直感に従ってここまで駆けてきたのだが、その感覚が正しかったのが明らかになったのに、僕は立ちすくんでしまっていた。
怖かった。
僕は薄暗い廊下で得体の知れない恐怖に身体の自由を搦めとられていた。
何故だろう。
何が怖いのだろう。
佐伯が誰かに襲われているという事件に首を突っ込むことに面倒さを感じているのか。
その誰かの暴力的行為の標的になるという危険性が心を鷲掴みにするのか。
それとも……。
「触るな!マツ!」
そうだ。
僕は知っていた。
陽平が佐伯のことを好きだということを。
佐伯が飲みさしのジュースを僕にくれようとしたときに見せた陽平の嫉妬に燃えた眼差しを。
積極的に佐伯に話しかけるのだが軽くあしらわれて悔しそうに歯がみをしている彼の暗い表情を。
僕は怖かったのだ。
彼を失うことを。
彼の友人であるという僕の立場を失うことを。
僕なんて日陰の道端に生える名もなき雑草のようなものだ。
顔が整っているわけでもなければ、足が速いわけでもない。
面白いことを言ってクラスを楽しませることもできない。
そんな僕にとって陽平は光であり水でもあった。
みんなの邪魔にならないように汲々として毎日を過ごす僕は不意に訪れる彼とのたわいもない会話の間にだけはまばゆい光が全身を照らすのを存分に味わいかつ潤いを吸収しているような気がしていた。
その短い時間だけ僕は四肢を思い切り伸ばすことができる。
それは彼から照射されるものを身体中で受け止めることを許されている時間だからだ。
他のみんなにとっても大なり小なり陽平とはそういう存在なのだと思う。
僕は幸運にも彼と知り合いになれて友人と言えるぐらいに言葉を交わしている。
それだけで周りから見れば少し羨ましがられているはずだ。
陽平と冗談を言い合っている間に僕は周囲からの羨望の視線を疑いようもなく感じているのだから。
そして僕もそういう類の眼差しを気づかない振りをしながら肌に受け止め優越に浸り快感を覚えている。
僕が周囲に対して優越感を抱けるのは学校生活でその瞬間だけと言っても良い。
それなのに。
ここに一歩足を踏み入れれば僕は彼の全てと正面に対峙し彼の行動を厳しく指弾しなければならなくなる。
僕は校内一の人気者、学校の太陽であり慈愛の雨とも言うべき彼の不倶戴天の敵となってしまう。
僕の膝は激しく震えていた。
どうかすれば後ずさりしてしまいそうだ。
逃げ出すことができればどれだけ楽か。
しかしここで逃げれば佐伯はどうなってしまうのか。
こうしている今も佐伯の自由は少しずつ奪われ、そして最後には……。
「どういう意味なんだよ!」
陽平の荒い息づかいが聞こえてくる。
彼の声は怒りを露わにしていた。
困惑してもいるようだった。
今までに彼から聞いたことのないどす黒い響きだった。
「何がよ」
二人の動きが止まったようだ。
わずかな距離を保ちながら正対し睨みあっている様子が目に浮かぶ。
「光太郎なんかのどこがいいんだよ!」
「どうして光太郎が出てくるのよ」
「同情なんだろ?女子とろくすっぽ喋ることもできないダサいあいつが可哀そうだと思ったんだろ。それともいつも女子に囲まれてる俺への当てつけか?」
「何言ってんの?馬鹿じゃない?」
「馬鹿はお前だろ。いいから俺の言うこと聞けよ!」
直後、佐伯が発した短く甲高い悲鳴が僕の何かを引き裂いた。
左の肩口から右脇腹にかけて鋭利な刃物で両断されたような感覚があってから急に全身に力が漲った。
再び激しく動き出した美術室に僕は気がつけば足を踏み入れていた。
「やめろ、陽平!」
「光太郎、助けてっ!」
床の上に横たわり陽平に馬乗りになられて押さえつけられていた佐伯が僕に向かって手を伸ばす。
僕を振り返った陽平の顔。
西日がいつの間にか没した薄闇の美術室でも彼の表情がみるみる色を失っていくのが分かる。
彼は周囲に照射すべき内面からの光を失っていた。
陽平から僕は今、何も感じられなかった。何も受け取れなかった。
呆然としている陽平を振りほどき佐伯がスカートの裾が捲れ上がっているのも直さずに僕の方に駆けてくる。
彼女は僕の腕にしがみつくと陽平の視線から身を隠すように背中に回り込んだ。
僕のカッターシャツをつかむ彼女の手が震えているのが分かる。
佐伯が恐怖に戦いている。
あの佐伯が僕にすがっている。
僕は不意にこみ上げてきた思いの丈を目一杯吐き散らした。
「陽平!お前、何やってるんだよ。これがお前の人生にどういう意味を持つんだよ!」
佐伯に突き飛ばされたまま力なく床に座り込んでいる陽平が僕の言葉でどんな風に表情を動かしたかは見えなかった。
僕はまだ震えがおさまらず僕のシャツを破れてしまいそうなくらいに強く握っている佐伯の指を少しずつはがし、その肩に軽く手を置いて廊下に促した。
ドアを出るときに不意に佐伯が振り返り美術室の床に転がっている大きな紙袋をおずおずと指差した。
それは僕らと陽平の丁度間にある。
捨て猫のように弱々しい目で佐伯が僕を見上げる。
僕は佐伯の肩を軽く叩いてその袋を取りに陽平の前まで歩いていった。
紙袋を拾い上げても陽平はぴくりとも動かなかった。
暗くてよく見えないが鼻をすする音だけが聞こえた。