14
外は夜の一歩手前という時間帯で西の空には残照があるが灯りの少ない校内では足元さえ覚束なかった。
校舎の窓からぬっと顔を出した丸い月は若干赤みを帯びていて妙に禍々しく印象的に見える。
先ほどの陽平の凶暴な行動を目の当たりにして僕の神経が過敏になっているからだろうか。
月明かりに照らされた佐伯は右の肘辺りを左手で抱えるようにしている。
「職員室、行く?」
僕は目撃者として言わなくてはいけないことを口にした。「行くなら一緒に行くよ」
美術室での出来事は犯罪というカテゴリーに含まれる可能性が高い。
だとすれば被害者である佐伯は陽平を公に糾弾する権利があるし、青臭く言えば教師を通じて陽平の親や警察に連絡を取ることが今回の場合の社会的に正しい手続きのように思う。
佐伯を病院に連れていって検査し怪我があれば治療を受けさせてやることも必要だ。
しかし校舎の階段を降りながら僕が考えていたことはもっと別のことだった。
はじめから佐伯について美術室まで行けば良かった。
僕の頭はそれに固執していた。
もしそうしていれば陽平が過ちを起こすことも佐伯が傷を負うこともなかったのに。
今さらそんなことを考えても無意味だということや、あのとき僕がついていくと言っても佐伯に即却下されていただろうということも分かっている。
しかももし仮に今日はそれで事件を防ぐことができていたとしても陽平が佐伯に心を奪われている以上、遅かれ早かれこういうことになったのだろう。
しかし、それでも僕は何とかして今回のことをなかったことにしたかった。
可能であるのなら時空の狭間に飛び込んで時間をさかのぼり事が起こる前の佐伯か陽平と出会って話をしたかった。
そして何度考えてもそれができないという現実にぶち当たって下唇を噛みしめた。
だが、僕のわずかに残されていた冷静な思考の回路が被害者に付き添って行くべきところには行かなくてはいけないという当たり前の行動を何とか思い起こさせた。
それが事件に間接的にでも関わった僕の務めだった。
俯いた佐伯の顔はよく見えなかったが立ち止まった彼女は確かに大きくゆっくりと首を横に振った。
それを確認して僕はホッと胸をなで下ろしていた。
提案しておきながら僕は決して職員室に行きたいわけではなかった。
いいのか、ともう一度訊ねる僕は卑怯な人間だ。
全てを佐伯の判断に委ねてしまい、その意思を尊重するような顔つきで実のところは責任逃れをしている僕は偽善者だ。
どうしてだろう。
この期に及んでも僕は何とか陽平の進学とこれからのサッカー人生を守れないだろうかと考えていた。
本来的には身体と心に傷を負った佐伯のことが今は一番であるべきなのに。
「肘、痛いの?」
「平気」
空に浮かんでいる仄かに赤い血の滲んだ眼球のような満月。
罪深いお前の心の中は全てお見通しだと凝視されているようで僕は天界の目にも見える今日の月から慌てて顔を伏せ佐伯の隣を黙々と自転車置き場に向かった。
できることならこのまま佐伯が目を閉じ、口をつぐむことで今回のことは三人だけの秘密にしておきたい。
そして時間の流れに身を委ね現実だったのか夢だったのか分からない曖昧な程度になるまで今日の記憶をはるか彼方におしやってしまいたかった。
身体がふらふらするから、と自転車を押して歩きだした彼女の横を同じようにして僕も並んで歩いた。
彼女の家は歩くと二十分ほどかかるらしいが、今日は彼女を一人にするわけにはいかない。
しかし、並んで歩いても沈黙だけが重苦しく続いてしまう。
腕が触れ合うほどそばにいるのに会話がないのは息が詰まった。
「佐伯は絵を描くのが本当に好きなんだな」
絵の話題なら今の佐伯でも話せるかと思った。
「好きだけど、なんで?」
佐伯の目に少し力が戻ってくる。
「絵を描くのがもっとうまくなりたくてK高目指してるんだろ?それで苦手な勉強もあんなに真剣に取り組んで、いつもすごいなと思ってるんだ」
正直な感想だった。
自分の夢のためなら嫌だと思うことでも音を上げずに黙々とこなす佐伯のひたむきな姿を目にして僕はたびたび心を揺り動かされている。
この年齢で将来の夢をしっかり見据え、それに対して努力を惜しまない。
そういう姿勢を目の前で見せられると僕はすごいなと感心するのと同時に自分がちっぽけな存在に思えてきて情けない気持ちになってしまう。
僕は将来、何になりたいのだろう。
今の時点でしっかり自分の未来像を描いていないとあっちへふらふら、こっちへふらふらと小さな帆船のように周りに吹き付ける風の影響次第で針路が狂い、振り返ればどうしてこんなところへと思うようなところに辿りついてしまうのではないだろうか。
「夢のためなら何だってできるだろ?」
中学三年生でこんなことを言う奴はなかなかいない。
そんな言葉を臆面もなく聞かされたらこっちが恥ずかしくなってしまう。
しかし、彼女のきりりと締まった声には冗談めかした色は微塵も浮かんでいない。
彼女のように夢を自分の視野の中心に据えている人には今の言葉は当たり前のものなのだろう。
だが、波間に漂うちっぽけな僕にとって夢という言葉は会話の正面に捉えるにはあまりに大きく眩しくて少し話題の方向性を変えた。
「その絵のモデルっているの?」
僕が拾ってきた紙袋には佐伯が描いていた絵が入っていた。
三面鏡で口紅を引く女性が描かれている。
「あたしが小さいときのお母さん。お母さんが鏡を見ながら化粧するのを見てるのが一番好きだったんだ。どんどんきれいになってくお母さんが鏡越しにあたしににっこり笑ってくれるのをいつも胸をときめかせながら待ってた」
「へえ。お母さんのこと好きなんだね」
「もちろん。あたしが生まれた時からずっと女手一つであたしを育ててくれてるんだから本当にありがたいって思ってる」
こんなに素直に親への感謝の気持ちを言えるなんてすごいと思った。
そして彼女に父親がいないことを初めて知った。
彼女の言葉の背景には、何があったの、とは簡単には訊けないような事情が垣間見えるようで僕は黙り込んだ。
彼女が普段見せている相手を威圧する鉄仮面のような表情の裏側には彼女のこれまでの生い立ちが大きく横たわっているようだった。
うちもいろいろあるけど佐伯の家にもいろいろあったんだろうな。
「あたし、もうすぐ父親ができるかもしれないんだ」
佐伯の声は複雑な色を帯びているようだった。
少なくとも単純に喜んでいる様子ではない。
「その人、あたしの本当の父親みたいなんだけど、なかなか……ね」
うまく言えないけど、と佐伯は呟いた。
いつも歯切れの良い佐伯が「なかなか」の後に続く言葉を見つけられないでいる。
きっとそこに収まる言葉は一つではないのだろう。
どんな国語学者だって心理学者だって十五歳の感情は簡単には表現できない。
「そっか」
簡単に「大変だね」と言ってしまいそうで僕は慌てて口を噤む。
僕みたいな半人前の人間が何か言葉を掛けられるような性質の問題ではないような気がしている。
佐伯も僕に何かを求めているわけではないだろう。
陽平とのことで傷を負って脆くなった心の壁からたまたま弱音のようなものが浸み出してしまっただけのことだ。
その人がどうして実の父親だと分かるのか。
実の父親だとしてその人は今までどこで何をしていたのか。
その人はいつから佐伯のことを実の娘だと認識していたのか。
全く知らなかったのか、それとも知っていながら事実から逃げていたのか。
佐伯はその人を実の父親として迎えることに抵抗がないのか。
訊ねたいことはいくつも出てくるが部外者の僕がおいそれと触れて良い問題ではない。
「この絵、結婚祝いにあげようと思って」
「きっとお母さん喜ぶね」
彼女は前を向いたまま満足そうに頷いた。
「大げさじゃなく今のあたしの家狭いから。あたしがどんな絵を描いてるかお母さんにすぐ分かっちゃう。今回はサプライズってことにしたかったから家では描けなかったんだ」
「だから美術室だったのか」
「そういうこと。でも美術室の方が集中できるってこともあるよ。うちは狭い上に騒々しいから」
何故騒々しいのだろうか。
佐伯には幼い弟か妹でもいるのだろうか。
しかし、たった今佐伯家の少し複雑な家庭環境を聞いたばかりではそれ以上のことを訊ねることも憚られた。
美術室の方が集中できるということの一面は理解できた。
僕も今回佐伯と図書室で勉強してみたら自分の部屋でやるよりもはかどっている。
僕らは秋の夜道をてくてく歩いた。
二人の自転車のライトが小さく道路を照らし揺れて交差する。
「光太郎もお母さんのこと好きでしょ?あたし、親を嫌いだって言う人、嫌いだからね」
彼女の眼の奥には炎が見えるようだった。
母親に対する強く熱い想いが覗いている。
「好きだよ。好きなんだけど……なかなかね」
僕も「なかなか」に思いを込めた。
母さんの事故から時間が経って、家に母さんがいないことが日常になってきた。
だけどそれに慣れてしまったわけじゃない。
こんな状態を普通だとは思えない。
思えないけど、非力な僕に母さんのためにしてあげられることは限られている。
母さんが元気を取り戻すことが僕自身のためでもあることは分かっているのに。
「あ、ごめん。あたしのせいで今日病院に行けなかったね。今からでも行って。あたしもう大丈夫だから」
「うん。でも、今日はもういいんだ」
僕が言うと佐伯は今にも何かが零れ出しそうな哀しそうな目で僕を見た。
「面会時間終わっちゃった?それならちょっと今から病院に電話してよ。お母さんにあたしから謝らせて」
「本当にいいんだって」
僕は苦笑した。
今から病院に向かっても眠りの中にいる母さんに独り言のように話しかけることしかできない。
今まで前もって知らせることなく見舞いを休んだ日はなく、母さんに心配を掛けたかもしれないが、今さらどうしようもない。
やはり時間はさかのぼれない。
僕が首を横に振ると佐伯はまるで駄々っ子のように自転車を止めて立ち尽くした。
「光太郎がよくってもあたしがよくないよ。入院してるならなおさらお母さんとの時間を大切にしてもらいたいのに。お母さん、どこの病院に入院してるの?」僕が口を開かずにいると彼女は携帯電話を操作し始めた。ネット検索し病院の電話番号を探そうとしているようだった。「この辺りで大きな病院って言えば……」
僕も立ち止まって佐伯を振り返った。
僕が、母さんの見舞いに行く、と言い残して突然立ち去ったのを受けて佐伯が楽しみにしていた観覧車に乗るのをやめたことを思い起こしていた。
彼女にとって母親という存在に対する思い入れは僕が想像するよりも深いようだ。
彼女は今日の出来事で僕が母さんの見舞いに行けなくなってしまったことをとても重い罪悪と感じているのだろう。
だが病院に電話しても今の時間に母さんが受話器を取ることはない。
「もうこの時間には寝てるんだ」
「そうなんだ。病院って消灯時間早いって言うもんね」
佐伯は僕の腕時計を覗き見て少し皮肉っぽく軽い口調で言った。
まだ七時を過ぎたところだ。
生活リズムを大切にしなくてはいけない入院患者もこんな時間に寝付けるはずがない。
佐伯は僕が冗談を言っていると思っているのだろう。
でも僕が母さんのことで冗談を言うはずがない。
僕は再び足を前に出した。
しぶしぶといった感じで佐伯が横に並んでくる。
「あそこがあたしんちだよ。ゆかりってお店」
佐伯の指の先に目を向けると二十メートルほど行ったところに小さな間口の入り口に白い暖簾が掛かっている定食屋のような店構えがあった。
店舗の壁に設置してある小型の電光掲示に「台所 ゆかり」と表示されているのが読める。
佐伯の家が騒々しいというのが何となく理解できた。
お酒を出す店なら酔客が騒ぐこともあるのだろう。
「佐伯のお母さんがゆかりさん?」
「あら、良く分かったね」
佐伯は完全に僕を小ばかにしている。
今度は少し角度を上げて再び指をさした。
「二階の角があたしの部屋。上がってく?」
突然の申し出に僕は反射的に首を振った。
平然と誘ってくるのは僕をからかっているのかもしれないし、クラスメイトの女子の部屋に上がるにはそれなりに勇気がいる。
僕たちはしばらく佐伯の家を目前にして自転車のハンドルを握ったまま黙ってしまった。
ここまで来て部屋に上がらないとなるとここでサヨナラとなる。
どちらかが「じゃあ」と手を振ればそれで終わりだ。
しかし、互いにそうはしないのは佐伯はまだ自宅の扉を開けるには自分の身体や心に残っている先ほどの感触が生々しすぎるのかもしれないし、僕は佐伯に母さんの状態について中途半端な知識を与えたままにしておくのは落ち着かなかった。
ここで僕が自転車に乗って帰ってしまったら佐伯は仕事をする母親の邪魔をしないために一人寂しく自分の部屋で膝を抱えて時間を過ごすのだろう。
後から歩いてきたおじさんが僕たちを追い抜いていくときにチラッとこちらを見たのが分かった。
道端で言葉を交わすことなく俯いて突っ立っている男女の中学生はどのように映っただろうか。
そのおじさんは立ち止まることなく慣れた感じで「台所 ゆかり」の暖簾をくぐっていった。
佐伯がまだ一人になりたくないのなら。
今はそのことを佐伯の口から言わせては可哀そうだという気持ちが急に萌して僕は慌てて口を開いた。
「あのさ」
彼女の瞳に僕の袖をつかまえたいような寂しさが浮かんでいる。「ちょっとここら辺を一周しよっか」
「いいよ」
光太郎がそうしたいのなら、という調子の返事だったが、それが虚勢でしかないのは間髪入れないタイミングだったことから分かる。
今日の佐伯はやはり傷を負っている。
僕たちは再び自転車を押した。
佐伯の母親がどんな人かと「台所 ゆかり」の前を通り過ぎる時に店内の様子を窺おうとしたが暖簾が邪魔をして木製のカウンターと幾つか並んでいる椅子しか見えなかった。
二人の自転車のライトが僕たちの気持ちを示すようにゆらりゆらりと近付いたり離れたりする。
少しずつ佐伯の家は遠ざかり、それにつれて僕の心は凪いでいった。
「俺の母さんは二年前に交通事故にあったんだ」
僕は自分の記憶を整理するようにゆっくりと言葉を選んで話した。「母さんが自転車に乗っていて相手は信号無視のトラック。母さんは十五メートル以上ふっ飛ばされた。民家の塀に頭を強く打って丸五日間こん睡状態。六日目に医者が、このまま目を開けずに遷延性意識障害、俗に言う植物状態になる可能性が高いです、って父親と俺に告げたときに母さんは奇跡的に目を覚ましたんだ」
「よかった」
母さんが生きていることを知っているのに佐伯は僕の言葉にホッとした息をもらす。
「その後すぐにまた眠っちゃったけど、母さんは死んでいないってことが実感できてすごく嬉しかった。次の日、また同じ時間に母さんは目を覚まして、その時は一時間ぐらい起きていられた。その次の日は起きていられる時間が十分ぐらい延びた。その次の日も十分ぐらい延びた。そうやって毎日徐々に起きていられる時間は長くなっていったんだ」
僕の話を聞く佐伯の顔に、もう安心だね、という言葉が浮かんでいる。
そうやって少しずつ健康を取り戻して事故の前と同じ状態に戻っていったんだね、と。
だったら今日まで入院しているはずないじゃないか。
「だけど、二時間起きていられるようになってからは時間が延びてないんだ」
佐伯は僕の言ったことが理解できていないようだった。
「どういうこと?」
「母さんはこの二年間毎日決まって午後四時半頃に目を覚まし、大体二時間ぐらい経つと眠ってしまう。それ以外の時間に起きることはないんだ」
「そんなことって……」
「あるんだ。何が原因か分からない。いろんな医者に診てもらったけど誰も答えられないんだ」