突然だが私には、私の魂を狙う悪魔が憑いている。
 その悪魔は今日も今日とて私の家で待ちかまえていて、身も心も疲れ果てている私に対して情け無用で呪いの言葉を紡ぐ。
  
「おい、今日の分の供物を寄越せ」
「……はい」

 逆らえば、文字通り命は無い。
 魂の代わりとなる供物が入った箱を素直に差し出せば、悪魔はその端正な顔をにやりと恐ろしく歪めて、目にも留まらぬ早さで私の手から箱を奪い取った。
 そしてその箱を開けて、中に並ぶ供物が目当ての其れだという事を確認すると目を爛々と光らせ、躊躇い無く供物の一つを鷲掴むと豪快にがぶりと牙を立てた。

「おお! このドーナツは新作じゃないか! よくやった!!」
「……どうも」

 黒い矢印型の尻尾をぶんぶんと振りながら満足そうに笑う、赤地に白ラインが入ったジャージ姿の男。

 ドーナツが大好きなこの悪魔が、私の魂の支配者だ。

 ***

 私、藤原祐子《ふじわらゆうこ》がこの悪魔に出会ったのは半年前になる。
 あの日の私は婚約寸前まで行っていた恋人に浮気されていた事を知り、一方的に破局を突きつけた勢いでやけ酒に溺れ、成人女性にあるまじき酔い方をしていた。
 飲み屋を何件も梯子しては酒を流し込み、挙げ句の果てには店先で追い返されてしまう程に酔っぱらった私は帰巣本能に従って帰路を辿っていた。
 しかし、酔っぱらった人間というのはどうしようもない。普段なら見逃したりなんてしない横断歩道の信号に見向きもしなかった私は、

「ーー……え?」

 見事、大型トラックに撥ね飛ばされた。
 そして視界は一瞬にして、ブラックアウト。

 普通なら此処でおしまいなのだが、どういった運命の悪戯なのか、何故か私はそうはいかなかった。
 次に私が気付いた時には不思議な空間にいた。多分海の中が全てダークグレーの油性絵の具だったら、あんな景色と感覚になるんだと思う。
 とにかく、そんな奇妙な世界に立ち尽くしていた私の目の前に、私と同じ歳くらいの男が一人現れた。

「貴様、未練だらけだな。まだ死にたくないだろう?」

 にんまりとした笑みで、男はそう言ってきた。
 普段の私だったら空間の奇妙さや唐突に現れた男の存在に混乱して、まともな会話すら出来なかっただろう。
 しかし一度死んだ身だったからなのか、その時の私は肝が胡座をかいて据わっていた。

「当たり前よ! 死んだ理由があんな男だなんて死んでも死にきれない!」

 そうだ、私はこれからまだまだ仕事だって恋愛だってやれる歳なのだ。あんな駄目男一人に引っかかったくらいで人生を終わらせたくない。
 その熱意というか執念というか、それを涙と鼻水混じりで怒鳴って主張した私に、男は「そうかそうか!」と愉快そうに手を叩いて笑った。そして囁いたのだ。

「じゃあ、もう一度生きてみないか? 悪魔の俺に魂を渡すなら生き返らせてやろう」
 
 今でも覚えている邪悪な笑顔。
 それに魅せられたように、私は頷いてしまった。
 
 ーーこうして私は悪魔と契約して、今に至る。

 ***

(……それにしたって)

 着替え終わって完全にオフモード(すっぴん+パーカー+スウェット)になった私は、目の前で某有名ドーナツチェーン店のテイクアウト用の箱をしっかりと胸に抱えながら、本日分のドーナツを次々に平らげていく悪魔を眺める。
 その表情は悪魔というよりも無邪気な子供だ。邪気だらけの悪魔がそれでいいのかとツッコミたい気持ちを堪え、私は自分の夜食用に一緒に買ったフランクパイ(悪魔はドーナツ以外は興味が無いらしい)をかじる。

(ドーナツをこんなに気に入るなんてね……)

 ふと、この悪魔がドーナツにここまで惚れ込んだ経緯を思い出す。
 魂の契約を交わした私は無事に現世に生還し、それでも重傷には変わりなかったので入院生活を余儀なくされた。
 その間に何人かの同僚がお見舞いに来てくれて、その差し入れの中にあったのがドーナツだった。
 そして数百年ぶり(悪魔は人間と契約しないと現世に直接関わることが出来ないらしい)に現世に降り立っていた悪魔は、甘い香りを漂わせて不思議な形をしたドーナツに好奇心から手を伸ばした。

 それが全ての始まりだった。

《こ、これは何だ!?》
《何って……ドーナツっていう食べ物よ》
《こんなに甘美で美味い物がこの世にあるのか!?》
《う、うん……》
《……よし分かった。これから先、貴様を俺が守る》
《はあ!? いや、でもアンタは私の魂を……》
 
《貴様が死んで魂を貰ったら、また俺は暫く現世に来れないだろう!? その間、ドーナツを食えないなんて耐えきれない! よって貴様をあらゆる災厄から守って、俺はドーナツを食い続ける!!》

 打ち切り寸前の少年漫画すら真っ青の急展開に混乱する私を余所に、悪魔はドーナツを口いっぱいに頬張りながらそう高らかに宣言してみせた。
 そして今、その宣言通りに悪魔は「私を守る為に」と現世に実体化して、いつの間にか私の家でドーナツを貪る居候と化している。

 ーーていうか、これは私云々っていうよりも完全に私利私欲の為に実体化したよね、このドーナツ馬鹿の悪魔は。

「……今、何か言ったか?」
「いいえー」
「ふん、貴様の魂は俺が預かっているんだからな。忘れるなよ」
「はいはい」

 その魂が無くなって困るのはアンタだろうに、という言葉は口の中にあったフランクパイと共に飲み込んでおく。
 私が今こうして生きているのはこの悪魔のお陰であることは違いないんだし、常に虎視眈々と魂を狙われるよりは、ドーナツに夢中になってもらっていた方が私にとっても都合が良い。
 ドーナツが気軽に買える時代で良かったと安堵する私の前で、悪魔は最後のドーナツをばくりと頬張った。その口の周りはチョコやシナモンでべたべたに汚れている。

「うむ、美味かった」
「あーほら、口の周り酷いよ。おいで」
「む……」

 悪魔の見た目は、私と同じくらいの成人男性だ。
 少し目付きが悪いけど顔立ちは良い。メンズ系ファッション雑誌とかで書かれたら、ワイルド系のイケメンという分類にされるだろう。
 悪魔曰く「外見的要素で人を誑かすのも悪魔だからバランスが良いのが大抵だ」らしい。ということは悪魔界はイケメンと美女の宝庫なのだろうか、少し見てみたい気もする。
 とにかくそんな外見の男が口の周りを汚しているのは放っておけず、私はティッシュを何枚かボックスから引き抜いて手招きをする。
 きっとべたべた感が悪魔本人も気にはなっていたのだろう、素直に顔を寄せてきた。

「もう少し綺麗に食べなよね」
「仕方ないだろう、美味いんだから」
「だからってこんなに汚す必要は無いでしょ。……はい、いいよ」
 
 役目を終えたティッシュを丸めて、壁際のゴミ箱へ投げ入れる。おお、ナイスシュート。壁に当たって見事に入った。
 一方の悪魔はいつものように礼の一つも言わず、空になった箱を名残惜しそうにじーっと見つめていた。

「……また明日まで食えないのか」
「少し残しておけばいいのに」
「日が経って固くなったらドーナツ本来の美味さが損なわれるだろう、馬鹿か貴様は」
 
 そう言い放った悪魔の顔は真剣だった。
 ドーナツに関しての論争はしたところで無意味だと分かっているので、私は肩を竦めて「はいはい」と受け流しておく。
 そんな私の反応に悪魔がムッとしたのが分かったけど、私は敢えて追求しないで台所に向かった。

(フランクパイだって美味しいんだから、食べてみたら良いのに)

 少し喉が乾くのが玉にキズだけども。

 ***

「お疲れさまでした」

 残っている同僚達に声をかけて職場を出る。
 外に出るとどんよりと重たい灰色の空が私を出迎えて、思わず眉間に皺が寄る。

(うわ、今にも降りそう)

 折り畳み傘という物がどうにも苦手な私に、急な雨を凌ぐ術は無い。
 こうなったら降る前に帰らないと。そう決意した私は力強く一歩を踏み出そうとして、あっと直ぐに足を止めた。

(ドーナツ買ってかなきゃ……)

 だけど、此処からいつものドーナツ店までは駅への道を少し逸れる必要があり、その間に雨に降られたら困る。今日はバッグに仕事の書類が何枚か入っているのだ。
 もし雨に濡れて汚れてしまったら、後々が面倒になる。
 対してドーナツは明日新作を買ってあげるからと言って、今日だけどうにか我慢してもらえば済むだろう。
 
「…………」

 そうして曇天の下で静止して考えること数秒間、私はうんと頷いてその場から早足で立ち去った。
 
 ***

 それから数十分後。
 
「は……っ、はあっ……!」

 私は人気の無い路地裏を全力疾走していた。
 息を切らしながら振り向けば、鬼のような巨大な化け物が此方に向かって一直線にやってきているのが見えた。

《待テ、美味ソウナノ、待テェェェ!!》
 
 脳味噌がぐわんぐわんと不快に揺れた。頭の奥にまで響いてくる声の恐ろしさにその場で吐きそうになる。
 だけど、それ以上に死の恐怖がかき立てる。
 思考は真っ白でも体がとにかく逃げ続けようとする。だから私はそれに従って足を前に動かし続けた。
 ヒールはとっくに何処かへ脱げていってしまっていて、擦り切れて破れたストッキングから覗く裸足にコンクリートの非情な堅さと冷たさを感じた。

(もう、何なのよ、何で……!?)

 どんなに走っても路地裏から出られない。あの化け物の仕業だろうか。
 
「あっ……!!」
 
 ぐらりと体が前に傾く。そのまま受け身も取れず、私は固い地面に勢い良く転がった。下になった右半身がずきずきと痛い。立ち上がりたいのに足が動かない。
 それでも震える腕で何とか上身を起こした時、私の視界が薄暗くなった。
 
《漸ク、食エル……ッ!》
「ひっ……!?」

 見上げたくないのに見上げてしまった。化け物は私を見下ろして、生臭い涎をぼたぼたと垂らしながら私にゆっくり近付いてくる。
 『窮鼠猫を噛む』なんて事は野生動物でもない私には無理なようだった。腰が抜けてしまって何も出来そうにない。
 
「や、やだ……」

 滲む視界。脳裏に浮かんだ姿が色濃く、鮮明になる。
 
「いや、死にたくない……」

 喉と歯が震えて上手く声が出ない。
 それでも私はなけなしの勇気を振り絞る為に拳を握り締め、最後になるかもしれない息を大きく吸い込んで、

「私を守りなさいよ! グリファー!!」

 途端、目の前に赤黒い煙が台風のように生まれた。
 涙に潤んだ目を見開く私が最初に認識したのは、黒い矢印型の尻尾と蝙蝠に似た羽。
 びりびりと皮膚を裂くような威圧感を放つその煙から姿を見せたのは、脳裏に浮かんだ姿と同じで、だけどずっとずっと強くて濃くて禍々しくて恐ろしい、赤ジャージの広い背中。

「ーー……俺を呼び捨てにした罰だ。新作ドーナツを用意しておくんだな」

 私の魂の契約者、ドーナツ狂いの居候、悪魔のグリファーが其処にいた。

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