4

 混沌とした深い森の中に一陣の風が吹いた。
「何者だ?」
 その小さな生き物は黒い帽子の端を持ち上げ、幾重にも垂れ下がる蔦が揺れるのを口惜し気に眺めた。風に誘われるように樹々が果てしなく遠い天に向かって鳴いている。
「何をしに来た」
「気になるか」
 白い装束を纏った人型の影は、自分よりも小さな者を睨み据えながら応えた。その緑色の醜い生き物は、帽子から突き出た耳をヒクヒクと蠢かせた。
「黒い立烏帽子に白水干、まるで白拍子の女のようだが。いや、男か? くくくっ」
「何がおかしい」
「誰ぞ連れ戻しにきたか?」
 やがてその首のあたりの影がはっきりとした形を結ぶと、女の顔が浮かびあがる。唇の端が微かに上がり、手にした扇子でそれを隠した。その動きはまるで舞を舞っているように雅びで淀みない。その女は水干の袖の中から何かを取り出した。
「まあ、そのように願う者もおるようだ」
 女はくしゃりと手の中で音を立てると、白い塊を地面に落とした。緑色の皺だらけの生き物は、大きく醜い鷲鼻をさすりながら辺りの樹々を見回した。
「まさか誰ぞの嘆願でも聞き入れるために現れたか」
「嘆願などでやって来たのではない。お前の所業を確かめるために来ただけのこと」
 緑色の小さな悪魔はにやりと笑った。それはむしろ嘲りに近いものだった。そして近くに聳える一本の樹を撫でながら言った。
「こいつはいつも願っておったぞ。若いうちに患った病のため夢を諦めるしかなかった時に、神頼みをしていたが、どの神も救いの手を差し伸べてはくれなんだ。その末に、自分の周りの全ての人間を呪った。怨みの感情は美しいものだ。その一途さゆえに」
 白装束の女は扇子を下に振り下ろした。まるで小さな番人の話を打ち叩かんとでもするように。
「願いと運命とは重ならぬものだ」
「それが神々の答えか? ならばこやつはどうだ。幼い頃からただ一匹の虫さえ殺さず、正しいと思う道を真っ直ぐに生きてきた末に、通りがかっただけの理由で見知らぬ男に刺し殺された。これは何の罪か?」
 白拍子姿の女は扇子を自分よりも高くかざし、眩しそうな顔つきでふっと吐息を漏らした。
「前世のしがらみやも知れん」
 緑色の悪魔は鷲鼻をふん、と鳴らした。
「知ったことではない、か。人間とは愚かな盲だ。悪事に身をやつそうが、正しい知恵に触れようが、明日その身に起こることさえ知らん。神頼みと言っては仏にすがり、石の塊に手を合わせる。そこにはただ虚無が横たわるだけだと言うのに」
 女は白水干の袖を払い、扇子の先を醜い悪魔に向けた。
「お前の所業の言い訳にもならんことを!」
 小さな緑色の悪魔は枯れ枝のように長く細い指をゆらゆらと蠢かした。それはまるで拒絶を意味しているかのように。
「俺は人助けをしているだけだ。哀しみに打ちひしがれた者をその哀しみから解き放ち、人を羨むことしか出来なくなった者をそのしがらみから救い、この世界で新しい命を授けているのさ。人間を誰一人救おうとはしない神々とは違う」
「戯けたことを」
 白拍子が扇子を一度振り降ろすと、辺りに強い風が巻き起こり、地面に積もっていた枯葉を舞い上げた。
「おお、怖い怖い。怒らせた神々は悪魔よりも怖ろしい」
 立烏帽子がくるりと背を向け、小さな言葉を唱えると、その姿はすぐに見えなくなった。舞い上がった落ち葉がそのあとからハラハラと落ちては乾いた音を立てた。




「幸子、あったよこれ。パワースポットの写真集よ」
「こんな古本屋に?」
「凄い凄い、これいくらだろう。書いてないや」
 制服姿の女子高生が二人、本棚の前ではしゃいでいた。
「意外、去年の出版だよ。まだ新しいじゃん」
 幸子と呼ばれていた女の子が友人が取り出した本棚の隙間から見えるイラストに注意を向けた。
「何この本? 何語で書かれてるのかわかんない」
「どれ? いやだ薄気味悪い。そんな本ほっときなよ。あ、すいません、これいくらですか? ねえ幸子。あれ? 幸子? どこ行ったの、幸子?」



続く















 














 




















 













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