3
私はいつの間に眠っていたのだろうか。身体が重い。手足の先が痺れているように感覚がない。意識の命令はどこにも届かない。まるで布団から抜け出す気になれない休日の朝のように。だけど起きなければいけないと自分の中の何かが叫ぶ。
ようやく重い瞼を持ち上げても、頭を起こすことも出来ない。ガサガサ、パリパリと乾いた音だけが耳に飛び込んでくる。そしてまた眠気が意識を眠りに引きずり込む。繰り返し繰り返し、覚醒しかけてはまた暗い深みに落ちていく。
やがて全身の血管が息を吹き返したかのように、私は自分の身体を取り戻した。一体どれだけの時間を手放してしまったのだろうか。あの乾いた音は辺りに広がる落ち葉に身体を預けているからだった。私は地面の上に寝ていたのだ。身体を左に傾け、ゆっくりと上半身を起こしてみる。柔らかい落ち葉は耐え切れずパリパリと最後の悲鳴を上げる。私は不安を感じながら両手でそれらを払い落とす。それでも自分がどこにいるのかさえ思い出せない。確か駅を出て何処かに立ち寄った……そうだ、駅前の古本屋だった。そこで誰かに声を掛けられて、それから具合が悪くなって……。
「目が覚めたかい?」
まるで四方からいっぺんに聴こえてきたのかと思うほどに、その声は辺りに響き渡った。不安が私の頭の中を占領し、首を左右に振りながら目を見開いた。
その声は地面から聴こえてきた。
「ここだよ」
私は恐怖のあまり目を大きく見開き、口を両手で塞いだ。そして祈るような思いで強く目を閉じ、もう一度ゆっくりと開いた。
「誰もが驚く。だけどこれは現実さ」
その声の主は小さかった。
緑色をしたそれは、顔の割合からすると大きな鼻はかぎ爪のように醜く、帽子の左右から耳らしきものが長く突き出ていた。妖精という表現が正しいのかも知れないけれど余りにも醜く禍々しい姿だ。たとえ姿は小さくても恐怖は大きく覆い被さってきた。膝を曲げ、必死に両足を踏ん張りながら後ずさろうと足掻いた。
「逃げるところなどない。諦めてさっさと現実を受け止めることだな」
顎を上げ、空を見上げる。首を動かし周りを見渡してみる。空は見えなかった。落ち葉の中から上に向かって延びる茶色い樹々と、上から下がっている深い緑色の蔦がこの世界の全てのように思えた。
「お前はここで朽ち果てる。お前もその蔦を全身からぶら下げるのさ。そこらにある樹々はお前と同じ運命を辿ったお仲間さ。ほら、向こうの樹を見ろ。あれは『不満足』と名付けてやった。まだヒトの形を残しているだろう?」
枝のような小さな腕が指す方へ顔を向けた。その妙にくびれたシルエットをした樹には、天に向かって大きく口を開け、叫んでいる顔のような模様が見えた。いや、あれは模様だ。渇いた樹皮がねじれてできた単なる模様に決まっている!
「なんで、なんでそんなことになるの? 私は何も悪いことなんかしてないわ!」
私は訳もわからないまま目頭が熱くなり一気に言葉を吐き出した。
小さく不気味な生き物は、深い皺を刻みつけた顔の一部分をひときわ赤く光らせた。
「勘違いをするな。俺は正義ヅラをして罰を下す輩などではない」
その生き物がこちらに背を向けた瞬間、私は自分の中に殺意を覚えた。だがその方法が見つからなかった。
頭で思うことと感情の熱量は釣り合っていても、同じ頭で同時に全く違うことを考えてしまう。
「無駄さ。俺は最初から生きてはいない。なぜなら俺は悪魔だからな。お前に俺は殺せない」
まるで頭の中を見透かされているようだった。次第に不安は絶望へと変わっていく。両足が微かに震え出す。自分の意志で震えを止めることも、その場から逃げることも出来ない。
「意識しないままに他人の人生を妬みながら生きてきたんだよお前は。自分ではたいした努力もせず、羨ましいとか何とか言いながらな。まさに悪魔に転生する素質は充分だ。きっとこの木は成長も早いだろう。そうだ、名前をつけてやろう。お前の名は『妬みグセ』だ。さて次の人間を探すとするか。おや、これを読んでいるお前。こっちの世界に来るか? なかなかいいもんだぞ、悪魔になるのも」
完