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 この町は夜が長い。駅前にある商店や飲み屋でさえ、深夜零時を回ると客足もまばらになる。零時半過ぎの終電が出てしまうと人影さえ見つけられないほどだ。無駄に明るいコンビニでさえ人の姿が見当たらないのだ。
 そんな町だから、二十四時間店を開けている古本屋なんて、夜中ともなれば猫一匹寄りついては来ない。バイトの分際としては贅沢は言えないが、ヒマなのだ。
「おーいバイト、少し休憩するから店番頼むぞ」
 僕の名前すら覚えられない先輩に、手元のスマホから顔も上げずに適当な相槌を返す。つまり誰も店番のことなんか気にもしていないのだ。本は好きだが、四六時中読んでいたいほどではないし、動くはずもない活字ばかりを睨んでいたら気が滅入ってしまいそうになる。この店でバイトをするまでは、自分を本の虫だと思っていたのだが、どうやら僕はそれほどの本好きではないらしい。
「防犯カメラのモニターはしっかり見ておけよ」
 先輩のいつもの口癖だ。わかっている。だけどそれは店の中に人がいる時のことだ。もう二時間近く入口のドアは一度も開いてさえいないのだから。
カーテンだけで仕切られた奥の部屋から微かにいびきが聴こえる。
(もう寝たのかよ)
 羨ましいくらいの寝つきの速さに、つい笑いが漏れてしまう。
「呆れたブタだな」
 僕はその声にはっとしてスマホから顔を上げた。だがカウンターからは誰の姿も見当たらない。それに店のドアに取り付けられたカウベルも鳴ってはいない。僕は慌ててカウンターの下にある室内カメラのモニターに目を走らせた。背の高い本棚と本棚の間にいく筋も走る狭い通路のどこにも、ゲームやフィギアが陳列されたショーケースの前にも、ドアの横にある壁一面に吊り下げられたコスプレ衣装の回りにも人の姿は写ってはいない。やはり気のせいだったのか。
「どこを探してるんだ。俺はここだよ、ここ」
 僕は声の主を探してカウンターの中をキョロキョロと見回した。僕の視界に入ってきたのは夕方に持ち込まれた数十冊の本の山だった。だが本が喋る訳がない。
「探してみろ。俺はここだ」
 その声は積み上げられた本から聴こえているとは思えなかった。それはまるで僕の頭の中に響き渡っているように感じられたからだ。これは夢じゃない。だが現実に声は聴こえている。僕は意を決して積み上げられた本の一番上にある一冊を手にした。
「そこじゃない、ここだ」
 僕は手にしていた本を床に落とし、二冊目、三冊目と払うように本の山を崩していった。そのうちの幾つかが自分の足の上に落ちても、痛みさえ感じられなかった。そして僕はそれを探し当てた。古めかしい装丁の本は日本語で書かれたものではない。もちろんその表紙にも見覚えがない。明らかに今日持ち込まれた本ではない。僕はこんな本を買い取った記憶などないのだ。  いや、馬鹿な先輩でさえ判断出来るはずだ。間違いなく売り物になどならない。
 植物の蔓が表紙いっぱいにうねり、その中心にはみどり色をした小さな少年のような姿が……いや、人間ではない。鼻は醜い鷲鼻で、大きな帽子の左右には尖った耳が突き出ている。それはまるで魔法使いか悪魔を思わせる異形の生き物だった。
「カラーボールはどこに置いてある?」
 僕は頭の中の声に驚いた。次に聴こえてくるのはもっと怖ろしい言葉だと想像していたからだ。
「カラーボール?」
「防犯用のだよ。あるんだろう?」
 僕の視線はカウンターの後ろの棚の辺りをさまよった。
 不意に店のドアのカウベルがけたたましく鳴り響き、僕の意識は現実に押し戻された。次の瞬間、黒い塊のような何者かがカウンターの前にあるショーケースを叩き割り、中にあったフィギアを掴み、店の出口に向かって走り出した。その一連の動きは驚くほど素早く、あっと声を上げる間もないほどだった。
「ボールを投げろ!」
 僕は頭の中の声に反応した。カラーボールは見事に窃盗犯の右の肩口で弾けた。辺りに飛び散った蛍光塗料のような液体は……いや、それは黄色でも緑色でもなく真っ赤な色をしていた。 窃盗犯は低く長く呻きながらその場に倒れ込んだ。そいつの右腕は不自然な角度に曲がり、うつ伏せのまま不規則に肩で息をしている。まるで何かで思い切り殴り付けられたか、あるいは映画で観た銃で撃たれた死体のように見えた。
「おいバイト、どこへ行ったんだ?何だよこれ、人が死んでいるじゃないか!」

 それから数時間のことを僕は良く覚えていない。まるで時が止まって何一つ記憶に刻まれていないかのように。
僕はあの時、バイト先の古本屋に現れた窃盗犯にカラーボールを投げつけた。だがそこから先の事が分からない。いくら努力しても何も思い出せない。
 もしかすると……そう、何もなかったのだ。始めから何もなかったのだ。僕はそこにはいなかった。僕はあれこれと思い巡らせながら歩いた。もう全てがどうでもいいことに思えた。耳に届くのは足元で落ち葉の爆ぜる乾いた音だけだ。木々の間に垂れ下がる蔦を払うように先へ進む。
 僕は以前にもここに来たことがあるのかも知れない。記憶の片隅で、いつか誰かに呼ばれていたように感じるのだ。まるで何かに導かれるように僕は歩いた。
「探してみろ、俺はここだ」
 声のする方へと歩く。落ち葉を踏みしめながら。
「ここだよ」
 僕の視線の先に、みどり色をした小さな少年のような姿が……いや、人間ではない。鼻は醜い鷲鼻で、大きな帽子の左右には尖った耳が突き出ている。それはまるで魔法使いか悪魔を思わせる異形の生き物だったーー。



続く





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