◆ 奪還
――集中する。
ミカノの足元から魔力による風が舞い起こる。ミナミの力とは違う、落ちついた力。それは彼女の髪をざわめかせ、ミニのワンピースの裾をばたばたとはためかせる。
「とにかく、あの風の壁に割り込む。風を巻きこむ」
自身に言い聞かせるように宣言する。離れたところではキーナも同じく準備に入っているのが見えた。ミカノよりもより濃く、深い魔力を練りながら。
「…………よしっ!」
何度も深呼吸を繰り返し、ひときわ大きく息を吸い込む。見開いたミカノの瞳は普段よりも濃く密に緑の輝きを放っていた。
――やることやんなきゃ、あの二人は助けらんない
思うと同時に、全てを吐き出した。
《こぉらぁぁぁぁっ! ミナミぃーっ!!》
『?!』
ガンッ、という衝撃的な効果音が似合いそうなほど、ミカノの叫び声は大きかった。彼女の傍にいたタヤクとハイネは、思わず両耳を押さえながら身を仰け反らせる。
耳元で拡声器を使って叫ばれたような、鼓膜を取っ払って脳に直接叩きこまれたような、そう思うほどにいまのミカノの声は常識外れに大きかったのだ。
ある意味“凶器”と呼んでも差し支えはない。
一方で、離れた場所にいるキーナは変わらず集中したままで、その傍にいるケイヤも微塵も気にする様子もなく、ただキーナの様子だけを窺っていた。
――鼓膜が破かれるかと思ったぞ?!
内心で毒づきながらタヤクは三歩ほど後ずさった。ハイネも同じく、しかしタヤクよりも遠くへ走って逃げる。もはや涙目であった。
《ミーナーミぃぃぃぃぃっ!!》
そんな周りの様子などお構いなしに、さらにミカノは叫び続ける。
《聞こえてんでしょーっ?! こらぁっ!!》
あまりの喧しさに耳を塞いだまま、タヤクはキーナへ顔を向ける。さすがにケイヤも煩くなってきたのか、微妙な表情で同じく彼女を見た。
「なぁっ、ミカノのあれ、なんなんだ? まさか地声じゃないだろう?!」
「……あれが地声だとものすごく嫌なことになるぞ」
そんな二人のことを「馬鹿なことを言わないで」と言わんばかりの目で見ながらキーナは口を開く。今は特に詠唱を行っているわけではないので問題ない。
「あれは風の系列の魔法ね。ミカノちゃん得意でしょう?」
「風? ミナミも風なのに?」
「同じだからむしろいいの。同じ風属性という特性を利用して、魔力を溶け合わせて干渉する。あとはもう、風に乗せて言葉を飛ばすだけ」
目線でミナミの様子を見るよう促し、それに引っ張られるように顔を向ける二人。たしかに先ほどまでとは違い、ミナミとマサアを取り囲む風が少し弱まって見える。
耳を塞ぎながらも、タヤクはじっと風を見つめ続ける。風の隙間に稀に見える、桃色の髪を探して。
《ミナミーっ! 聞きなさい! 風をっ、止めろーっ!》
ミカノの声が届いたのか。
彼女の声を辿るようにミナミがこちらへ視線を向けたのがタヤクには見えた。涙に濡れて泣き腫らした紫色の瞳は、どこか呆然としているようだった。
「……っ!」
その瞬間をチャンスと捉えたキーナは、練り上げていた魔力の触手を一気にミナミへと伸ばす。彼女から溢れる女神の魔力を誘導するために。
◆ ◆ ◆
ミカノが叫んでる
風に声が流されてよく聞こえない
わたしの叫び声も聞こえない
マサアしか見えない
血塗れマサア
傷だらけのマサア
どうしてこんなことになったんだろう
わたしはただ みんなの役に立ちたくて
マサアの役に 立ちたくて
なのにマサアはこんなにも傷ついて
叫ぶ声にわたしの喉は裂けて切れてしまいそうだった
それでもいい
マサア
ごめんなさい
◆ ◆ ◆
《ミナミーっ!!》
――何度目なんだろう。
ミナミはそう思いながら、ミカノの声がする方へと顔を向ける。強風に煽られて舞い乱れる砂の中にあっても、彼女の紅い髪は色鮮やかにたなびいていてすぐに分かった。
《風をっ、止めろーっ!》
「か、ぜ……」
緩慢ながらも声が出た。叫びすぎたせいか、はたまたこの砂嵐に喉をやられたのか、渇きに乾いた枯れた声。こんな状況ながらも「こんな酷い声をマサアに聞かれたくないな」などとミナミは思った。
《キーナちゃんに、力を、まっかっせってぇっ!》
言葉を切って大きく叫ぶのは、ミナミに声が届いていないと思っているからなのか。
たしかにミナミの耳元ではごうごうと風が唸りを上げていたが、聞こえないわけではなく、聞こえ辛さと言うのもあまり感じていない。
風の中心にいるミナミに気を遣ったのか。
それともただ単に、大きい声の方がいいと思っただけなのか。
――いいと思っただけなんだろうなぁ、ミカノだもん
泣いて泣いて疲れ切ったはずだったミナミの口元が不意に歪んだ。口の端を持ち上げたそれは、歪ながらもどこか笑っているようにも見える。
半年。
廃屋で出会ったマサア達五人とは二年以上の歳月を共にしたが、その生活の最中に現れたミカノとは、まだたった半年の付き合いなのだということを思いだす。
それでも、マサア達と同じようにミカノのことを信用している自分がいた。
――最初はあれだけ怖かったのに、わたし、ミカノのこともちゃんと好きだ
《ミナミぃ! あんたがっ、マサアをっ、助けるのーっ!!》
その声に反応してミナミの瞳が揺らいだ。
ミカノの声に押されたように、足元に横たわるマサアへ視線を向ける。その姿は誰が見ても明らかに重傷であった。
無数のナイフに貫かれた体は至る所から血が流れ、砂漠に大きな水たまりを創りだしている。無造作に投げ出された手足は指一本ピクリとも動かず、その瞳は緩く閉じられて瞬くこともない。
目を逸らしたかった。
自分が気を失っている間に何があったのか。
どうして彼がこんな目に合っているのか、いますぐ誰かに問い質したかった。
「マサアぁ……」
愛らしくも整った顔は何の感情も浮かべていない。太陽のように温かく優しかった笑顔は鳴りを潜め、そんな表情など一度もしたことがないと言わんばかりに固まっていた。
自分の名前を優しく呼んでくれた唇も、いまはただ半開きに開かれたまま……
「――え?」
……空耳だと思った。
風は相変わらず力強く吹き荒れ、横たわる彼に意識はない。
それでも。
耳に、呼吸をする音が聞こえた。
「!!」
ひゅっ、という浅く掠れた音だったが、たしかにマサアが呼吸をする音が聞こえたのだ。意識して耳を澄ませば、それはよりはっきりと聞こえた。
生きていて欲しいと願う自分の幻聴ではないかと疑いかけていたミナミの目から、大粒の涙がこぼれた。
――生きてる!!
涙は次から次へと流れて止まらなかった。泣き叫んでとうに枯れ果てたと思っていたそれは、かさかさの頬を伝って転げ落ちていく。滴はただ、風に飛ばされては消えていった。
「……風」
不意にミカノの言葉を思い出す。彼女は“キーナに力を預けろ”と言っていた。
その言葉にきょろきょろと顔を動かしてみると、砂漠の一点に見慣れた黒いワンピースを着た女性の姿を見つけた。風のせいでまともに立っていられないのだろう、ケイヤに支えられながらも必死にミナミへ向かって魔力の触手を伸ばしている。
意識して自分からもそちらに魔力を流してみると、自分から溢れている魔力をキーナの魔力が絡め取り、受け流そうとしていることに気が付いた。力がキーナのほうへと誘導されているのだ。
ゆっくりと、しかし確実にミナミの内に留まる女神の力がキーナへと移動していることが分かる。
「えっと、力を任せる……」
何をしているのかミナミには分からなかったが、それでもキーナが“自分の魔力をコントロールしようとしている”ことは分かった。
――だったらわたしはキーナの手伝いをしなくちゃ!
よりはっきりと意識して、自分に言い聞かせる。
自分にとっては分からないことだろうと、キーナが必要だと思ってしていることなのだ。それは間違いなくいま一番大切なことなのだとミナミは分かっていた。
説明ならばあとで幾らでも聞ける。いまはキーナやミカノに従って、マサアを助ける方が大事なのだ、と。
「ん……」
頭の中で、ホースをキーナに向けるイメージを思い浮かべる。
それはかつて廃屋で暮らしていたとき、キーナから教わった魔力のコントロール方であった。
『魔法――魔力をコントロールするときはイメージで動かしなさい』
出会った最初の半年くらいはそればかりをやらされていた。
イメージが力に換わり、流れを作り出す。それがきちんと出来れば、高位魔法の発動率や下位や中位の魔法の効果も上がると言い聞かされていたのだ。
蛇口を開き、ホースである自分から、水である魔力をキーナへ流し込む映像をイメージする。彼女から魔力を受け止めたキーナの体は大きく傾ぎ、それを力強く受け止めてケイヤが支える。
どうやらミナミの向けた力が強すぎたようであった。
慌てて頭の中で水道の蛇口を閉めるイメージを思い浮かべる。ホースを伝う水量は当然少なくなり、キーナへ向ける魔力の強さも合わせて抑えられていく。
――うまく、でも早く終わらせないと
ミナミも理解していた。
この風が邪魔となり、誰も近寄れないのだということを。
――早くしないと、ほんとにマサアが死んじゃう
――あせらないで、感情を動かさないで
心の内で必死に願いながら、魔力をキーナへと移していく。
腕輪の力を解放し、女神に体を乗っ取られかけたのだろうことは、ミナミもぼんやりながら分かっていた。
どんなことを思っていたかは曖昧にしか覚えていないが、どこか暗く、冷たいところに沈んでいたという感覚だけははっきりと残っている。
そして、風を発生させているのが自分ではないことも分かっていた。自身の魔力では、こんな途轍もない風を生み出すことは出来ないと知っているのだ。
腕輪に封じ込められていた女神の力。
それが制御出来なかったばっかりに、こんなことになっているのだろう。
――慈愛の女神さまは風を司る女神さまだから……っ
女神の力に自分では太刀打ちできない。
けれども、キーナやミカノならばきっとどうにかしてくれる。
そう信じて身を任す。
――お願い、生きて、マサア
《頑張って……って、なにすんのよっ?!》
ミカノの声が罵声に変わった。何かあったのだろうかと驚き、そちらを振り向こうとして、
《気に済んなぁっ、ミナミっ!!》
《だっ、タヤクっ!》
《オレは何にもできないけど、お前はマサアを助けられるんだっ! 頑張ってくれっ!》
ミカノの肩に手を乗せて叫ぶタヤクの言葉に胸を揺すられる。
彼がミカノの体に触れているのは、そうすることで魔法の影響下に身を置くためであろう。事実、タヤクの声はミカノの起こした風の魔法に乗って、ミナミの元へと届いたのだ。
「……っ!」
再び涙が盛り上がって視界が霞み、頭を振って雫を振り飛ばした。
――やれる やらなくちゃ
「……もう少し……っ」
額に汗を浮かばせながら、キーナはミナミから流れてきた魔力を練り替えて、再び彼女の元へ戻していく。その力はミナミの体に流れ込むことはなく、その腕に嵌められた腕輪へと注がれていった。
“女神”の力が還っていく。
それに合わせて風は収まっていき、数分後、ついにミナミの足は砂漠を踏みしめた。
名残の風が砂を巻き上げて、波紋のように広がった。