◆ 夜闇の逃亡
炎が夜空を貫いた。
赤く焼ける世界。
崩れ落ちる“鳥籠”。
自分たちをあんなにも閉じ込めていた場所は、こんなにも脆く崩れていく。
夜闇のなか深く続く木々を背に、燃え落ちていくコンクリートの建物をじっと見つめながら、少年は思った。
「タヤクっ!」
自身の名を呼ばれて視線を向けた先では、炎と同じ、燃えるような深紅の髪の少女が笑っている。高く結わえた髪をふらりふらりと揺らしながら、少女は自身が呼んだ少年――タヤクへと近付いてきた。空を呑み込みそうな勢いの炎や、それによって崩れていく建物など目に入っていないかのように軽い足取りだった。
「……」
タヤクが呼んだ少女の名はあまりにも小さく、爆ぜる炎の音に掻き消される。
二人のいる辺りはまだ炎の勢いも弱く、時折火の粉が頬を掠めてくる程度である。
炎の中心地には崩れた建物があったのだが、すでに影さえ見当たらない。
遠くには、人の声。
炎は少女の美しい顔も、タヤクの少し困ったような表情も、全てを浮かび上がらせる。
「――あいつらを頼んだからね」
言いながら、少女の細い指が煤けて汚れたタヤクの頬に触れる。彼の柔らかな茶色の髪は炎に照らされ、淡いオレンジ色にも見えた。
「お前、本当に……」
「タヤクっ!」
何かを言いかけたタヤクだったが、横から別の声に名を呼ばれ、びくりと肩が震えた。声が聞こえたほうを振り向く前に、少女はにっ、と笑って「行け」と言う。見慣れたはずの緑の瞳はいつものようにいたずらっぽく細められていて、それが妙に印象に残った。
そうして、タヤクが口を開くよりも早く、紅いポニーテールの少女は炎の中心地へと駆けだしていた。
◆ ◆ ◆
「タヤクっ!」
走り去る紅い髪が炎の色に混ざって見えなくなってから、ようやくタヤクは振り向いた。そこにいたのは、大きな目で自分を見つめてくる長身の少年であった。
「やっといた!! なんでこんな端っこに……っ!」
吐く息も切れ切れに、少年はタヤクの元へ駆け寄る。どうやらこの炎の中、彼を探して走り回っていたらしい。短く切った金色の髪も、長身の割に愛らしい童顔も、先ほどのタヤクのように煤けて汚れていた。
「……マサアか」
「あのなー、あそこが壊れたらそのまま逃げる、って言ってたじゃんか! なのにいきなり走ってどっかに行くなよ!」
「あぁ、悪い……」
額の汗を拭いつつ詰め寄るマサアの言葉を半ば聞き流しながら、タヤクは少女の走って行った方を見続けていた。
彼女が向かった炎の中心部。
そこで真っ先に燃え崩れ落ちたのが、マサアの言う“あそこ”であり、今までタヤクやマサア、それに先ほどの少女が暮らしていた“鳥籠”だった。
その姿ももはや瓦礫一つ残さず燃え尽くしている。
普通の炎ならばそんなことはないのだろうが、いまこの場所を舐めつくそうとしている炎は“普通”ではない。
――なにせあの炎は……
タヤクの脳裏には、先ほど去っていった少女の姿が浮かび上がっていた。
彼の傍に寄ったマサアも同じように、すでに影も形もない“鳥籠”と、その他の建物があった場所を眺める。
「……あいつに会った」
ぽつりと呟かれたタヤクの言葉に一瞬目を丸くし、「そっか」とだけ短く返す。
「なんて言ってた?」
「お前らを頼む、って」
その言葉に、マサアはにっかりと微笑った。
「あいつが一番大変なのになぁ」
「そうだな……」
炎の燃え盛る音が耳の中で暴れている。ごうごうと、それは全てのものを燃やし尽くすまで治まらないかのように。
「――行こう、タヤク」
いつの間にか顔を伏せていたタヤクの背をぱんっ、と叩き、マサアが促す。その表情はいつになく引き締まったもので、いつも緩い顔をしている彼にはなんだか似合わないな、とそんなことを思ったタヤクだった。
勢い衰えることを知らない炎は、風に煽られどんどんと燃やす範囲を広げていく。タヤク達のいるこの場所まで届くのも、時間の問題であった。
「あいつの代わりにおれらがちゃんと守ってやんないとなっ!」
「お前は言われなくてもそのつもりだったろうに」
「あったりまえじゃん! おれの大事な家族だもんっ!」
ふふん、とどこか誇らしげに鼻を鳴らしてタヤクに答える。
そして炎を背に、マサアは森の中へと走った。その後を追ってタヤクもすぐに駆けだす。
振り返ることはなかった。
◆ ◆ ◆
炎の赤も見えなくなり、わずかな月明かりだけが頼りの森の中。
前を走るマサアの金色の髪は、夜の闇に柔らかく浮かび上がって見える。
置いて行かれないよう真っ直ぐにその背を追いかけ、やがて他の場所よりもやや開けたところに人影が見えた。
一人は黒髪を肩で切りそろえた少女で、もう一人は彼女を護るように立ちはだかっている青年だった。
視力が悪いのか、二人とも縁なしの眼鏡をかけていて、青年はその奥からじっとタヤク達を睨むように見ていた。
「ケイヤっ、遅くなってごめんっ!」
青年の名を呼びながら駆け寄るマサアに続いて、タヤクも「悪かった!」と詫びながら三人の輪に混ざる。
ケイヤと呼ばれた黒髪の彼は何も言わず、マサアとタヤクを交互に見て静かに頷くだけであった。
「――怪我はない? 大丈夫?」
庇われるようにケイヤの後ろにいた少女が、不安げな視線を眼鏡の向こうから寄越してくる。それにも「なんともないよ」とタヤクは笑って返した。
精悍でありながら常に穏やかな表情の彼が笑うだけで、少女は安心したようにほっと息を吐いた。
「キーナにも余計な心配かけちまったな。悪い」
「それは、いいのだけど」
答えながら、キーナは白い指でタヤクの髪を撫でる。月明かりに照らされて、彼の頬や髪に付いた煤汚れがよく見えたのだ。拭ってやったそれを両手を叩き合わせて落とし、「行きましょう」と静かな声で告げる。
「あの子が頑張っているんだもの……無駄にしたくないわ」
その声には華奢で儚げな見た目と裏腹に、強い決意が滲んでいた。
彼女の言葉に、他の三人も力強く頷いて応える。
自分たちが来た方を振り返ると、夜の空に黒煙が幾本も立ち上っているのが見えた。