不思議の国へようこそ
さとみが中2の時。腰まである長い黒髪をツインテールにしていた頃の話。その日は退屈な三者面談だった。さとみはスマホに『ラビットウォッチ』というアプリをインストールして、15分後に呼び出し音がなる様にセットした。呼び出し音が鳴った時に電話に出るふりをしてそのまま退席するつもりだった。
3人だけの教室。さとみの目の前には饒舌に語る担任の先生がいる。やたら楽しげなお母さんがさとみの隣で笑ってる。
将来? 進路? 夢? 希望? そんなのさとみに解らない。
さとみの為に準備された時間と空間で、交わされる言葉たちは、ことごとくさとみを迂回して通りすぎていく。疎外感……。さとみは人生に意味なんて無いのかもしれないと感じはじめていた。
先生が「県立尾張丘《おわりがおか》高等学校」と口にした時、お母さんは口角を思いっきり上げて、目や鼻が顔から溢れ落ちそうなくらいの笑顔になった。
さとみはその高校の名前が出て来るのを予想していたので、たいして驚きもせず、感動もせず、ただ聞き流していた。
藩校から続く県下一の名門校。1週間に続く学園祭や私服登校など、自由な校風で多くの著名人を輩出してきた。このあたりの高校では最高ブランドの1つ。さとみが入学すれば、お母さんは大喜びだろう。
一応さとみなりに調べてみると、尾張丘高校には“4年生”と呼ばれる特別クラスがあって、自由な3年間を送って志望校に行けなかった浪人生たちが、自分たちだけで勉強しているらしい。そのほとんどが“5年生”になることなく、第一志望の大学に合格しているらしいので、本気で勉強すればできる学生ばかりなんだとさとみは思った。
確かに素敵な学校かもしれない。みんなキラキラした高校生活を送っているんだろう。だけどそんな中に入っちゃうと、何も無いさとみなんて、ただのくすんだ暗い女子になっちゃいそうだ。さとみはそんなのイヤだと思った。
イヤだと思ったけど、お母さんの笑顔を見てると、とてもそんな事は言えない。さとみはこのまま。尾張丘を受験した方がいいのかもしれないとなんとなく思った。
「じゃ、希望する進路は尾張丘でいいね」先生が得意そうに言った。
「えっ、そうなんですかねぇ。さとみなんかが受験してもいい学校なんですかねぇ」
「また、自分の事“さとみ”なんて……。“わたし”って言いなさい」
「そうですね弓田さん。名前を一人称にするのは幼く見えますから、辞めた方がいいですね」
「う、うんわかった」
「もう、ハッキリしない娘ね」お母さんがあきれ顔で苦笑いしながらそう言った。
担任も合わせるように中途半端に笑ってみせて、三者面談を締めに掛かる。やっと退屈で仕方の無い時間が終る。さとみは少しだけ気が楽になって、そのまま席を立ってお辞儀を1つした。
少しもありがたくもないけど「ありがとうございました」とだけ言って、すぐにでもその場から逃げ出すつもりだった。
だけど、返事はない。不思議に思って顔を上げると、目の前の先生は固まっていた。先生だけじゃなくてお母さんも動かなかった。
外から聞こえていた運動部の声も、調子ハズレの吹奏楽部のトランペットも聞こえない。
「みんなどうしたの」さとみは一応聞いてみたけど、2人からは声がしなかった。その代わり、プリーツスカートのポケットから返事が返ってきた。
「あなたがセットされたので、タイマーで時間を止めさせていただきました」
さとみはあわててポケットから、スマホを取り出して画面を見る。ソコには、緑色の髪をツインテールにした少女が、うさぎ耳を付けて映っていた。しかも喋りながら動いてる。
さとみはえらく凝ったアプリだなぁと思いながら、彼女を眺めていると、緑髪のうさぎ耳少女がさとみを見て笑って言った。
「私は“花渚ロボ”です。ようこそ、不思議の国へ」