† 十の罪――贖いの雨(弌)
少女の全身を包む鈍痛。痛みというよりは、身体中の重さが数倍になってしまった、と表現すべきか。それは、存在しない臓器が汚染されているようだった。
重い。なぜ、こうも重いのか。彼女は自問し続けていた。なぜ、こうしているのか。彼女には思い出せなかった。
(ぼく、なにしてるんだろう――――)
「やめ……やめて――」
「なんだァ? 聞こえねーぞ! もっとデカい声で言えよー!」
幼少期の記憶は、彼女にとって綺麗な思い出ではなかった。
「おい」
「げっ……!」
いつものように通学路で男子たちに付き纏われていた日、割り込んできたのは、彼らと公園でよく一緒にいる他校の生徒。
「おれも入れてくれよ」
「ああ、なんだ……もちろんいいぜ。みんなでやった方が楽しいしな。ほらよ」
リーダー格の男子に突き飛ばされた彼女は、少年の眼前に転がった。
「おまえ――いいのか、それで。本当に、そのままでいいのか?」
彼はまじまじと見つめる。
「助けて……お願い。わたしを助けて!」
「ばーか、助けるわけねーだろ! こいつもおまえをいじめに来たんだよ。ざんねんでしたー! いやー、楽しいねー」
少年は手を取って彼女を起こすと、呆れたように笑い飛ばす彼らの前に歩み出た。
「ざんねんなのはおまえらだ。この女をいじめるとだれが言った? ていこうできない人数で女一人をボコボコにするだけで楽しいとは安っぽいな、見そこなったぜ。おれが拳の楽しみ方ってもんを教えてやるよ」
† † † † † † †
四肢の感覚が失われているのか、身体の自由が利かない。
痺れる皮膚を雨が打つ。寒い。なれど、濡れているせいではないようだ。今や、冷たさも感じることができなくなっていた。
鉛が体内に注がれているかのような、気持ち悪さ。身も心も押し潰されそうだ。なれど、抗う術などない。前後左右より圧をかけられていると錯覚するほどに、胸が重苦しさを訴えている。息苦しい。
孤独の海に、深く沈められてゆく。目を開けても閉じても、景色が変わらない。
ここが――どこであるのかも、理解(わか)らない。
ふと、あの日の彼を思い出す。これが、走馬灯とやらなのだろうか。
自分なんかどうなろうと、彼にとっては何も変わらないのに。わざわざ庇う義務などないのに。なぜ身体を張って戦ったのだろう。
自分がいてもいなくても困らない彼がどうして?
自分なんかいなくなっても関係ないのに――そうだ、自分はいなくたって誰も…………
じゃあ自分は、何の為に生きているのか?
なぜ、この世界に生まれたのか?
自分という存在は、何者なのか?
あれ、そもそも――――
(ぼく、だれだっけ……?)
自分が誰であるのかも分からない。もはや、生きている意味があるのだろうか。
多聞さんは昔、生きる意味を探すことが生きること、みたいなことを言っていたように思える。この状態でも探せというのか。見い出せずに終わるのか。その意味も知らずに、自分はこのまま死ぬのだろうか。
(ぼく……どうなっちゃうのかな――――)
漠然と考えようとしても思い浮かばない。怖い。想像もつかないというのに――いや、想像できないから嫌悪しているのか。
自分が自分でなくなることなど、妖屠になったとき受け入れたはずだった。
泣きたい。もう泣いているのかもしれない。涙が出ているのかどうかも分からない。
「いやだ……いやだよ…………」
こう拒絶心がはたらくのも、人であるがゆえだろう。人ならざるものになったり、死んだりしたら、こうやって思うこともなくなるのだろう。
こうしている間にも、人から遠ざかっているのか。
もう、投げ出してしまいたい。やはり自分は、この運命から逃れられなかっただけのことだ。なんで今更になって拒否するのか分からない。人でない何かに変えられる境遇への怒りも、憎しみも感じない。感情が消えていっているためかもしれない。
ただ、明確に拒絶しようという気持ちが、呪詛に苛まれる心身において、強く存在を主張している。
† † † † † † †
「ふふ……この熱さで顔色ひとつ変えない結界とは、やっぱ顧問どのは人外の類だったかー。こりゃなおさら見過ごせないなあ」
暴風吹き荒ぶ灼熱地獄で、老兵は苦笑いする。
「その心配には及びませんよ。貴方はわたくしが始末しますから」
朱い波が部屋の四隅より噴き出し、多聞に打ち寄せた。
(……まずい! もう耐火障壁が破られる――――)
燃え盛る業火の中、彼の脳裏をよぎるのは、忘却の彼方に置いてきた追憶。
「……まあ、そりゃこうなるかー」
戦後、帰国した多聞を迎えたのは、英雄の凱旋ではなく、友軍を囮にした上、彼らごと敵兵を火災旋風で焼き殺した虐殺者としての扱いだった。
(そうか……君も、僕のやったことは過ちだったというんだね――――)
妻が自らの命を絶ったのは、それから間もなくのこと。陸軍でも彼の戦功を評価するのは一部で、誰もが称賛していたエリートは、今や僻みや忌避の対象となっていた。
(僕には、なにもない。ただ、みんなを守ろうと必死だっただけだ。そして勝った。敵軍に壊滅的な損害を与え、味方の安全を守った。それが過去の名誉に泥を塗り、立場も、愛する人も失った。僕は、なんのために戦えばいいのだろうか……?)
訪れた平和は、彼の迷いに答えることなく、静かに過ぎ去ってゆく。孤独な勝者を残して。
「これは驚きました。地獄の猛者たちにも、これほどの根性を持つ者はそういない」
逆巻く火焔の中、今なお多聞は立っていた。
「劣等種(にんげん)のくせに粘りますねえ。なぜ、そうまでして貴方は戦い続けるのですか?」
無数の焔棘と共に、問いを投げる悪魔。
「男に生まれたから、かな」
燃えたぎる弾幕を一薙ぎで払うと、困ったように微笑する戦士の目は、視えなくなりかけているが、いまだに顔は死んでいなかった。
「……そんな銃、愚直なる魂と共に灰にしてやる!」
(まだだ――僕が焼き殺した兵士たちの苦しみは、こんなものじゃ……!)
魔力は尽きかけ、高熱では溶けないはずのデスペルタルが、呪毒を伴った炎熱によって原型をとどめていない。
「まったく、軍を去って何年も経つってのに、軍人の性とやらも困りもんだねえ……なかなか燃え尽きてあげられなくて悪いんだけど、もうちょっと付き合ってもらうよ。守りたいものも守れずに倒れちゃったら、死んでも死にきれなくてさ」
「なんと単純な……ですが、それゆえ強し。ならばこちらも――――」
ベリアルの言葉に応じ、多聞をとらえるようにして、深紅の魔法陣が展開される。
「その信念ごと、燃やし尽くしてこそ悪魔! 人間に使う日が来るとは思いませんでしたが、特別に我が奥義で灼き尽くして差し上げましょう。弱者を踏みにじることに躊躇はないが、強敵を心ごと折るほうが好ましい」
弾ける轟音を皮切りに、火柱が彼の周囲を埋め尽くした。