古記録断章
(ここまでに大部の旅の記録があったと思われるが、細かな断片が見つかっているだけで、まとまった形として残されているのはこの部分だけである)
――そこでヒルがザスの東の急峻な山脈を登って越えようとすると、頂上近くの、草木もほとんどが絶え、ところどころ丈の低い灌木が生えているだけの、灰色の岩肌と砂利がむき出しになったごつごつと足場の険しい辺りに差し掛かったところで、上が扁平になった大きな丸石の上に老い、痩せ衰えた魔族が胡坐しているのを見つけた。今やくすんだ体全体の黒い体毛の上からでも、下の衰え、痩せさらばえた肉越しの骨の輪郭が浮き上がり、痩せ細った身体に比してやたら大きさを誇る山羊のような頭とそこに生えた角は、かつては敵を威嚇し、仲間内で誇るのに役立ったろうが、今や重荷にしかなっていないように思われる。背中の薄くなった翼も力なくたたまれ、垂れ下がっているばかりだった。
近づいてくるヒルの存在に気づき、それまで頭をうなだれ、じっと閉じていた目を開けたが、眼窩が落ち込み、力なくしょぼくれたそれは上に多いかぶさる体毛の蔭に隠れて、彼がじっと目を凝らさないと相手のそうした反応に気づかないほどだった。
彼はヒルに呼びかけた。
「人間よ――、ここを通る人は珍しい――。その姿は魔法使いか――?」
力ないが、腹に響き渡ってくる深く、低い声だった。
「5年前の討伐で、魔王を倒した勇者エガールの伴のものです」
ヒルが答えると、魔族は片目を大きく開けた。周りの体毛の色に紛れてだが、なべて老いとともに強さを増す、潤んだ深みを湛えた茶色い瞳が初めてヒルの目に映った。
魔族はその言葉を聞くと前のめりになり、先ほどより力を込めた声を発したが、それは彼に強く伝えるために、自身の残った僅かな活力と生命力を発散して、内をしぼませていくようにヒルには思われた。
「――何、勇者じゃと!? お主――では、その魔王を討伐する前にここにも来おったか――?」
「はい、今回が二度目です」
ヒルが答えると、魔族は発作を起こすかのように目を大きく見開き、首を持ち上げて胸と喉をひくひくさせたが――やがて、ふーと深く一息つくとそれは止み、元の通りのうなだれ、目を閉じかけた状態に戻った。
「汝――、汝らがここに来て、我らの一族もことごとく狩っていったのを覚えておるか?」
ヒルは答えず、ただ魔族の方をじっと見つめるばかりだった。
「あの時、すでに儂はこの通り老いさらばえ、皆の前に立って戦う力を失っておった。儂の息子もその妻も儂をここより下った森の中に避難させ――戻ってみると、皆殺されておった。前に立って戦ったであろう儂の息子夫婦の他に、その幼子も――他の一家も全部な。老いたうちでも生き残ったのはたまたま逃げ延びた儂だけじゃ」
話すうち、また魔族の目が見開き、顔を上げ、相手の顔をじっと見つめる。
「――なあ、なぜお主らはわしら魔族をことごとく滅ぼし尽くそうとした? こんな辺鄙な地にひっそり引きこもっておる我らをも――?」
「元はあなた方が外行く人間を襲い始め――やがて町や村をも攻め出したからです。滅ぼされた町や村は小さいものも含めれば数十ではききません」
ヒルは冷静な口調で老魔族に返した。その目は相変わらずじっと観察するようで、何の感情も表していなかった。
魔族はそれを聞くと黙りこくり、また元のうなだれた状態に戻った。
「――わしらが地上にいる限り共存は出来んというわけか。
――だがな、お主ら人間がこの地上にいる魔族を滅び尽くそうとするのはまだわかる。だが、なぜ魔界にまで攻め入って我らの魔王――奉ずるルエ様まで滅ぼした? あの時魔界と地上は分かれており、わざわざ扉を開けねば相互に行き来することはできなかったはずだ――それも、汝ら一行が自分で開けたのだからな。我ら古代よりこの地上に生まれ暮らしていた魔族を滅ぼそうとするのとはわけが違う。――我らの崇める神ルエ様が斃されたと聞き、お主らの目から逃れた魔族のうち多くも自ら命を絶った――なぜそこまでする必要があったのだ?」
話すうち、段々と力がこもってきた。先ほどの残った生命力を絞りつくそうというのでない、内より湧き起る強い感情と情熱が自然にその発する言葉の調子に力を与えているようだ。相手に対する詰問がそのまま彼自身の生命の火をも再び灯し、燃え上がらせたようだった。
ヒルは黙ってじっと見つめ続けていた。
魔族は胡坐から片膝を立て、ぐっと彼の方に身を乗り出した。今やその目は大きく見開かれ、爛々と力強く輝き、相手の方を見据えている。
「――よいか、我ら魔族はお主らと同じ、肉より自然に生まれ出ずる者もいるが、お主ら人間どもの喜び、怒り、憎しみ、悲しみといった感情から直接生まれる者もまたあり、自然に生まれ出でた者もそういった宙に漂う感情の影響を受け、変質する。お主ら人間は我ら魔族が人間の町や村を襲ったというがな――それを引き起こしたのは人間なのだぞ。お主ら人間の互いに高まる愛憎の感情が我らに影響を与え、すっかり変えてしまったのだ。はるか古代は我らは共に仲良く共存しておった。その時は人間どもも足るを知り、ただ日々を素朴に行き、暮らしておった。それが変わり始めたのは巨大な城や街などというものを作り始め、商人などというものがのさばり始めたここ数百年ほどの事だ。その時我らの先祖も心の影響を恐れ、下界の平地を離れ、高いこの山脈に潜むに至った」
段々激してくる。腕を持ち上げ、ぐっと突き出した指を相手に向けた。激しく喋るうち、口から巨大な牙が覗き、強く唾が飛んだ。
「――よいか、確かに汝ら人間は我ら魔族に勝利し、魔界をも蹂躙するに至った。しかしな――、このままでは終わらぬぞ。すっかり数が減ってしまった我ら魔族の人間に対する恨みの他、今や人間同士、互いに大きな王国を作り、競っては、あちこちで小競り合いを起こしておるではないか。お主の仲間の勇者も一国の王におさまったと聞くが、早速隣国の王女を巡って争いを始めておる。
――これだけは忘れるな――。先にも言った通り、我ら魔族は人間の感情で強く生まれ、変質して行く。このままお主らが今の大きく複雑な争いを続けていく限り、必ずや――今に、数年前とは比べものにならない災厄がこの地上と、今や開けられた魔界より新たに生まれ出で、人間どもを襲うであろう。忘れるな――」
魔族はすっかり言い尽くした後も、強い目で睨み付けていたが、やがてふっと息を吐くと、眼と、立てた膝と腕に力なく、再び胡坐に戻って元のうなだれた姿になり、再び彼に話しかけることはなかった。
ヒルはそんな魔族の姿を見ると、その場をさっさと通り過ぎ、やがて山を下った。
キュネーの街は花々の栽培で有名だ。その広がった平地の緑と、太陽のよく当たる気候は西のザス山脈の厳しく屹立する様と対照的で――
(記録はここまでで、また細々とした断片に戻っている)