4.異動
太い声に反応して振り返る五井と瀧上。まず一番最初に五井の目に入ったのは濃い顎ひげ。続いて太い首。似合わない色のネクタイ。引き締まった胸筋。
「あ、BOSS。帰ってたんですか」
瀧上翼の言うBOSSという男が二人の目の前に現れる。
「帰ってきていたのか。捜査の報告を頼む」
「あ、それは隼人先輩にお願いします! 私、この子を家に送らなきゃいけないので」
この子こと五井星乃を見てBOSSは濃い眉をピクリとあげる。
「翼……その子とはどこで知り合った?」
質問の意が読めない瀧上ではあったが、何か問うわけでもなく質問に答える。
「えっと……隼人先輩が魔術師に間接的に襲われているところを見つけて助けたらしいんですけど、なぜか魔創が無いんです」
「ふむ……」
じっと五井の顔を見つめるBOSS。視線を合わせられ、逸らせずに困惑してしまい、汗を流す五井。
「もしや君がその……なるほどなるほど」独り言を呟く彼に五井の冷や汗は量を増す。
「俺の名前は四十万銀(しじま ぎん)。この係の係長をやっている者だ」
四十万という名のBOSSの突然の自己紹介に目を丸くする五井。
「ってことは……エリート中のエリートってことですか?」
ピカピカ光る目を見せられ、逆に困惑してしまう四十万。
「あ……ああ。うむ……」
四十万は腕を組み、右手を顎につける。時に目を細めたり眉間にシワを寄せたりしている。何か過去の言葉を思い出すかのように、目線を上へとあげたり
、また戻したり……。
「あ、あの……」
五井に話しかけられ、四十万は顔を上げる。
「うん、よし。君、見たところ警察官だね。どこの支部のどこの部署?」
四十万に問われ、はっとする五井。
「えっと、渋ってよりも警視庁直轄ではないので……えっと第9区部警務課第二係米井戸班所属、五井星乃18歳です!」
「ほお18歳かー。どうりで若く見えるわけだ」豪快に笑って見せる四十万。
「それでだ。その米井戸くんと係長さんと課長さんと部長さんのところ、明日行くから場所教えてくれないかい?」
何故こんなことを言うのかわからなかった五井ではあったが、相手が特殊捜査係のトップであるものだから、素直に答えた。
「うん、じゃあ今日は帰っていいよ。翼も五井さんも気をつけて」
「はい、ありがとうございます。それでは」
瀧上が頭を下げたのに合わせて五井も四十万に礼をして背を向ける。五井はその手に惹かれながら顎ひげの非常に濃い男をずっと見つめていた。
翌日、寒さに目を覚ます五井は布団に包まったままなかなか起きられなかった。乾燥しているためか、喉の奥がイガイガしている。スマートフォンの電源
を入れ、時間を確認する。
「遅刻はぎりぎり回避……なんとかなるかな」そう言って狭いマンションの一室の洗面所の蛇口をひねる。蛇口から放たれた水が真っ白な陶器にぶつかって
薄く広がっていく。冷たい透き通る水を両手で掬い、顔を洗う。冬の早朝にには、その痛むような冷たさが少し堪える。
「よしっ……」意気込んだ様子でスーツに着替え、ファーのついた外套を羽織る。朝食にロールパンを口にくわえ家を飛び出す。
マンションから自転車を走らせること10分、自ら勤める警察署に到着。自動扉を開け、自分の職場へと入っていく。
「おはようございます!」
威勢良く挨拶する五井。周囲の目が一気にこちらに向けられる。何事かと頭に疑問符を浮かべた五井だったが、班長の米井戸順(こめいど じゅん)が怯えた
声で話しかけてくる。
「五井ちゃん……部長から直々に呼び出しくらってるぞ……何かやったのか?」
「え?」
一瞬何が起きたのかわからなかった五井ではあったが、その一瞬の間にも、彼女は扉を開けっ放しにしたまま部屋を飛び出し、部長室へと向かった。
部長室まで廊下を突っ走る五井星乃。類稀なる運動神経の甲斐あってか、80mに満たないくらいの廊下を11秒で走り抜き、部長室へとたどり着く。
「失礼いたします! 部長! ご用件とは!?」はきはきとした口調で部長室の扉を開いた彼女。
「おお、五井くん。まあそこに座りなさいな」
見たところ穏やかな表情をしている部長。頭皮が後退している。彼の穏やかな表情に一安心した五井は彼の目の前にあった艶々の革製の椅子に座る。
(や……柔らかッ)
腰を下ろせば自分の重さによって革が沈む革が沈みきったところで部長が自分の方を向いて口を開いた。
「本庁第四支部の方から連絡があってね……君を公安課特殊捜査係に引き抜きたいらしい」
予測もできなかった突然の本庁緯度に驚きを隠せず、思わず膝を伸ばして立ち上がってしまう五井。
「ほ、本当ですか!!?」
ガラス製の指紋一つついていない机に手をべったりとつけて身を乗り出す。相変わらず表情を変えずに穏やかな部長の顔が視界全体に入る。
「嬉しいかい? きっと君の実力と成果を買ってくれたんだろう。よかったじゃないか。しかも、配属先はあの魔術を使う捜査官しかいない、特殊捜査係だ
ぞ」
本庁勤めイコールエリートと言う考えを持っていた五井。さらに特殊捜査係――俗にいう魔術師捜査官と言えば事件解決率6~7割と言う驚異的な数字を残す
職場であった。
「あ……憧れの本庁……しかも特殊捜査係!!」
机にべったりつけていた手を上にあげて大喜びする五井。少女の飛び上がる様を見て部長も悪い気はせず、穏やかに笑った。
「そんなわけで今日からだから。えっと……神風さんって人が迎えに来るらしいから荷物をまとめて置きなさいよ。要件は以上だから、ささ、急いで」
「は、はい、ありがとうございます!」
突然の出来事に驚く彼女であったが、部長室を飛び出した彼女はもう浮かれていた。先ほどの廊下を先ほどよりも0.1秒早く走り抜き、警務課の部屋へと入
っていく。
「皆様、本日までお世話になりました! 私五井星乃、本日より本町第四支部公安課特殊捜査係の方での勤務が決定しました!」
早口での突然の告白。初耳だった上司たちは口をあんぐり開けてリアクションを取れずにいた。その間にも五井は荷物をまとめて部屋を飛び出す。
(やったやったやった!! あこがれの本庁だ!! しかも翼さんやBOSSさんとか小野さんとかいる特殊捜査係だし!)
有頂天になってダッシュしながら鼻歌を歌う五井。階段を駆け下りロビーにいた男を見つける。
「おっ……」
男は五井のことを知っていた。五井も知っている高身長の男だった。
「おはようございます! 今日からお世話になります五井星乃です!」
「ああ、知ってる。早く乗れ。四十万さんが待っている」
神風隼人に連れられ、黒い乗用車の助手席に乗せられる。
「どうして私がいきなり本庁に?」車の中でハンドルを握る神風に問う五井。
「さあな……。なんせ四十万さんがうちの係に引き入れるって言うんだ。何かあるんだろうお前」
心当たりの無い何かが心に引っかかる五井。まるで、過去の記憶のずっと向こう側に欲しいものがあるかのような、もどかしさ。信号をいくつか曲がったと
ころで本庁第四支部舎に到着した。
「さ、降りろ」
神風が助手席の扉を開け、五井を乗用車から降ろす。三階まで上がっていくと昨日見た吊るし板とコーヒーカップを持った老人、小野一徳を見つける。
「あ、小野さんおはようございます!!」
「ほお……もういらっしゃったのかい? 若い子は元気でいいねえ……珈琲飲む?」
「いえ、大丈夫です」カップをくいっと上げる小野を見て五井は遠慮する。
「あの……」
五井がきょろきょろしていると、大阪弁の男、町田裕明がやってきた。
「大丈夫や五井ちゃん。アンタの席はあるさけの」
彼の指差す先に、新品のグレーのデスクがある。そのデスクを見て、五井が自分がここで働くという実感を湧かせたのは言うまでもなかった。