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青年役人は言い知れない複雑な胸中の侭、『ショーハンペウアーズ病院』の門前に到着した。警醒の士として世界中から注目を一身に浴びるテロリスト達が、この院内に潜伏している可能性があると指示されたのだ。
門外の敷地全体には、既に周囲を数十台のパトカーが取り囲み包囲網を完成させていた。
青年役人が開放された自動扉から一歩足を踏み入れると、大規模な病院内も既に避難誘導がなされたのか閑散としている。冷徹な質感のリノリウムの床、反響する無味乾燥な足音、鼻腔を擽り脳裏を刺す消毒臭……。清潔で清浄に整備された空間の中、待合室では茫然と中空に視線を彷徨わせる者、人目を憚らず項垂れ寝入る者達等、疲弊した患者達はまだ散見される。しかしこれ等は重篤な病者達の輸送が遅延しているのであり、院内全体の人間達は矢張り撤収が完了している様子だった。秩序立てられながらも払拭し難い陰鬱な空気に満ちた建物内で、青年役人は丸で自分が場違いな迷子の様な錯覚を覚えた。尤も、本来の不法侵入者を索敵する為にこそ彼はここへ赴いたのだが……。
既に数人の警官隊は、正門口で主導役たる彼の到着の為に待機していた。彼の姿を見て取ると、誰もが真摯な面持ちを崩さない侭口々に挨拶を交わす。他の患者達へ気取られず混乱を避ける様に私服スーツ姿で統一された彼等だが、懐には物々しい装備を携行しているらしい。
病院内へ潜伏するシドを追及する為に集結した彼等の中から、青年役人へと状況説明の第一声が挙がる。
「一般患者達の避難誘導は大部分終了しました。既に包囲網は整備されたので、後は不審箇所を探索し相手を追い詰めるだけです……! 現在では、エスはシドと称される共犯者と行動を共にしていると思われます。今回この病院内で、そのシドのGPS番号が確認された事で追跡捜査の陣が敷かれました。彼等が何故突如病院に侵入したか目的迄は量り兼ねますが、潜伏している最中を叩く絶好の機会です……!」
青年役人は外面的に彼等の状況報告へ調子を合わせるが、どこか余所余所しさが見え隠れする。しかしそれは現在エスを索敵すると言う緊張下の為と解釈されたのか、誰一人青年役人の内省的態度を怪訝に思う者は居ない。
彼の伏目を他所に、捜索作業は円滑に進行して行く……。実害を被った点としても、本来青年役人は大罪人エスへ並々ならぬ怨嗟で猛り狂っている状態が当然の筈だ。しかし青年役人自身は、そんな仇敵へ断定し切れない交々に至る万感を覚えていた。
……エスの理念に対する共感や、テロを決行した勇断さに対する畏敬の念、若しくは潜在的な羨望や嫉妬……。エスの背中に英雄としての尤態すら感じ、翻弄されている。
そして事件現場へ到着し警戒心を高めながら建物内を慎重に密行する中で、彼の加速する鼓動は全身に行き渡り緊張は極限へ達して行った。
全身が強張り手足は震え、重厚な迫力を湛える拳銃もいつにも増して重量を感じ、改めて日頃携えている兇器の禍々しさを実感する。日常風景の中で書き割りの様に風化して行った道具や事物が、丸で息を吹き返したかの様に改めて意味や生命を獲得し存在感を放つ。日頃の生活の中で『当然』に馴染み過ぎ一種失念していた事物が、今では影から這い上がる様に具現化され深々と息衝いている……。
彼は脈動し汗ばむ掌中で再度拳銃を握り直す。そして奄々たる気息をどうにか抑え付ける様にと一旦呼吸を停め、腹部から一斉に二酸化炭素を吐き出す。しかし深呼吸を反復する中で、彼は緊迫する事態へ一種の高揚感に衝き動かされている己をも自覚していた。
卑近な日常を送る事で、人間は生の中で生を忘却し怠惰に堕する。そして生命の危機に瀕する様な異常状況下に於いて、感性が研ぎ澄まされ初めて生の中で生に目覚める。恐々としながらも、青年役人は胸中で千々に乱れるそんな雑感を御し切れないでいるのだ。幾重にも織り成す不条理な感情……。
(敵意に囚われても当然な程の相手に、接近している最中の筈だ―)
しかし青年役人は、今正に対峙しようとしている標的へ、友情にも似た奇妙な親近感すら同時に覚えている事で戸惑う。
(―恐怖……。いや、歩を鈍らせる理由はそれだけでは無い。奴へ銃口を向ける事に躊躇うのは……。
俺はエスに様々な面影を見ている。まだ対面した事も無い犯人へ、旧知の間柄の様な親近感も、英雄に憧憬を持つ様な畏敬の念も……。
俺は、邂逅の瞬間を待ち望んでいるのかも知れない……。もし戦闘態勢へ入り引鉄に指を掛けるとしたら、一瞬の逡巡が致命的な遅れに成り得るかも知れないのだが……)
彼の自問自答は深淵に達し、他者の存在を失念する程に内省へと向かっていた。
(―今の俺にエスが撃てるだろうか? 何か、他に投げ掛けたい台詞すら溢れ出しそうな気さえする。言葉の糸口を必死で探すが、適切な語彙が見付からない。いや、見付けたくないのかも知れないし、言葉にすれば寧ろ途端に陳腐と化してしまう懸念さえ感じる。
今の俺の心身を貫く、奴へ駆け寄って抱擁を交わしたい様な愛しさは……。
聖職者としての立場から、良心の呵責を覚えない訳では無い。しかし、最早抑制の効く気がしないのだ……)
そんな思案も、生真面目な一警官の事務的な案内に因って漸く遮られた。
「シドのGPS番号が測位された場所はこの病室です……!」
青年役人の案内役と追従者達はどこか機械的な程に杓子定規で、寧ろ滑稽ですらある。ともあれ、遂に件の張本人の潜伏場所へと辿り着いたのだ……。この扉の向こう側には、矛盾した愛憎で想い焦がれる相手が息を潜めている……。
青年役人は邂逅を目前に控え怖々と身構えたが、全身は内部からどうしても脱力し、萎え掛けた戦意を駆り立てられない気がしてしまう。
彼等がここに潜伏した動機とは何か? 医薬品や食料の調達か、不法占拠しての拉致脅迫か……。永遠にも感じられる様な緊迫に満ちた待機の中、重厚な病室の扉前で全員が定位置に配する。捕獲態勢を整え固唾を呑みつつ相互に目配せした、数瞬の後―。
時機を見計らい、意を決した様に吶喊の合図が為された。一隊が病室の扉を突貫する。各人が訓練の施された熟練した動作で対陣を敷き、射撃体勢を固め一旦の硬直を迎えた。性急に人員が雪崩れ込んだ病室だが、室内はまだ何者かの動揺や臨戦の反応は無く、静寂に包まれている。
勿論油断はならない。座標として、エス一味のGPS番号はここだと確実に測位されているのだ。室内に潜伏し、逃走か反撃を目論んでいる事は相違ない筈だった。死角を生じさせない為に、各人が相互を補完し合う様な立ち位置で捕獲態勢を維持する。
……しかし、気配や動向を窺いつつも数瞬が経過する。膠着状態が余りにも長引き、誰もが怪訝な様相を露にし始めた。
慎重に包囲を進行している筈だが、無音の室内には人気自体が丸で感じられない。
(まさか……)
青年役人は肩透かしを喰った様に呆然と立ち尽くし、遂には警戒を解き無防備にすらなってしまった。逆に部下の一隊は、その青年役人のあっけらかんとした態度に益々動揺の気色を募らせる。
一介の隊員は、逡巡した後に怖々と小声で具申した。
「衛星での捕捉に無謬はありません……。時間差や距離等の差異なんてある筈が……」
そして特に青年役人の身を案じ、語調を強め注意を喚起した。
「きっとこの部屋のどこかにまだ隠れている筈です! 気を付けないと!!」
しかし青年役人は警告を意に介さず、聞き流すかの様に鷹揚な足取りで室内の中心へ躍り出た。先程とは掌を返した様に打って変わって、緊張感等微塵にも無い様に……。
隊員達は事態を理解し切れず一様に疑念を呈するばかりだが、反して青年役人の足取りには好奇心や一種の根拠を得た様な自信迄が窺われた。
彼が歩み寄る室内の片隅には、仰々しい機械装置が備え付けられている。その装置が視界に入ったものの、隊員達の困惑は悪戯に煽られるばかりだった。
―眼前に鎮座する物は、閉鎖循環式の保育器なのだ。本来の保育器とは、新生児が寝具へ顔を埋めた際の窒息を予防する等、不測の事態を逸早く発見する為に全体の囲いは透明な仕様となっている物だ。しかし現代では個人情報保護の為に、頭部のみが不透明なモザイク状のプラスチック板で隠蔽されている……。人工呼吸器や点滴用のチューブ類が触手の如く複雑に絡み合い接続されている中で、モニター類はあくまでも淡々と平常時の動作を続けていた……。
頭部は透過されないが、寝台に乗る余りにも小柄なその体躯は明らかに新生児と見て取れる。青年役人は既に一人では得心していながらも、一応の形式的な質問を空疎な声音で背後の隊員へ投げ掛ける。
「現在の犯人のGPS捕捉位置は?」
ヘッドギア内部のデータ画面を一目し、部下は悄然と返答した。
「……め、目の前、です……」
その言葉を吐き終わるが早いか、突如室内に大音量の金切り声が響き渡った。隊員達は咄嗟に身構えるが反射的な防御の後にはその警戒も不要と悟り、各様が呆然自失と立ち尽くす……。
突然の大音量は犯人達の急襲に由る騒音ではなく、寝覚めの悲鳴を挙げた赤ん坊の泣き声だった。
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「本日はウィングフィールズ空港をご利用頂き誠に有難う御座います……。現在の発着状況は……」
透明感溢れる近未来的な建築物内で、喧騒を貫く様に清廉なアナウンスが鳴り響く。
『ウィングフィールズ空港』。国際拠点としての役割を果たし、緻密な航空網を連携させる世界でも有数の空港だ。
毎日800便もの飛行機が離着陸する施設内では、種々雑多な利用客達で今日も相当な混雑を呈していた。
先鋭性溢れる人工的で大規模な空港内。チェックインカウンターの従事に追われる一介の係官は、怒涛の様に押し寄せる仕事の波が落ち着き漸く休憩所で一息を吐いた所だった。
最近では巷を騒然とさせている通り魔の累犯を受け、空港内でも通常以上の入念なセキュリティー対策が厳命されている。エスやその信奉者達に由る空港内占拠や航空機ジャックを想定する事で、緊急的に基本業務以上の厳重な警備、監視、検査が課せられたのだ。急速な連日の激務に、従業員達の大勢は疲弊や重圧を抱え鬱屈としていた。
確かに旧時代では不法な密輸や、テロリスト達が航空警備を突破しハイジャックを決行する事例は散見された。例えば搭乗前に幾度と無く金属探知機の前を通過しながらも、靴底に仕込んだ爆発物で機内へ乗り込み航空機を爆破させようと試みた犯罪者。また、持参したコーヒーに液体爆弾を混入させたり、オーディオへ少量のプラスチック爆弾を詰めて置く、厚手の冬物ジャケットや書類鞄の裏にシート状の爆弾を隠蔽させて置く、と言った手法で犯行を目論んでいた者達等……。犯罪者達の偽装工作は多岐へ及び、運輸保安局の眼を欺く実に狡知に長けたものだった。
しかし現代では、旧来の様に空港内や航空機内を容易に支配出来るものではない……。インダーウェルトセイン政府が直々に製造し設置している検査装置は画像解析アルゴリズムを使用しており、爆発危険物と非爆発物とを判別可能にしている。
検知機器は中性子を荷物へ照射し、内容物から発生するガンマ線によって爆発物を発見する仕組みなのだ。放射されるガンマ線の波長は元素によって全て差異があり、疑わしい物体に中性子を照射すればその物質の化学成分、手荷物の内部や裏側に爆発物が秘匿されていないか迄も精査出来る。また荷物の外側に微量の成分が付着する事へも着目し、残留物を検査する機器も複合的に組み込んだ事で爆発物の痕跡を検知する事も可能としているのだ。
それ等一連の警備機構の他、税関局が導入した自動出入国管理システムは円滑に機能している。出入国する旅行者に対して人間の係官が通常施行している入国審査と税関業務を自動化する、安全且つ簡便な仕組みは既に常識として定着していた。
特にウィングフィールズ空港ではチェックゲート内の個室で顔認識システムを用い、政府管理データベースに在る国民の顔画像情報と一致するか照合作業を実施している。
これは撮影した顔の画像を数値コードに変換し、検索可能なデータとして保存する人相認識技術だ。人相認識ソフトウェアは瞳孔の中心、眼窩の距離、鼻筋の傾斜具合、唇の厚さ、頬骨、額の生え際、皮膚の詳細な質感等、人相を構成する特徴点80件以上を測定し、テンプレートを作成してデータベースに保存する。尚且つ2次元顔認識の他、3次元モデル画像照合を機能的に組み合わせる事でより一層精度を向上させてもいるのだ。
3次元顔認識アルゴリズムは照度や角度、表情や加齢、頭部の向き等の不確定要素にも対応しており、ホログラムの概念に近似した3Dの精密な顔画像を造り出す。2次元顔認識の様な正面方向だけではない立体認識を行う為、2D画像よりも包括的な情報が取得出来る機構だ。加えて骨格等の硬組織へも焦点が当てられる様に調整されており、認識用カメラから凡そ2メートルの範囲内に接近すれば一卵性双生児を判別する程の精密さで本人を識別する。
この自動人相照合システムは現在の高性能なボディーチェック・スキャナー体制と複合され、通常の入国審査と税関検査は相当に効率化されているのだ。身分証明標準としてもテロリズム対策の一環としても、国家や市井は既にこれ等一連の完全自動入国審査システムへ全幅の信頼を置いていた。
しかし、現況では未曾有のテロ犯罪がエスの一派に由って頻発している。空港内の自動化された工程だけでは不備があると判断され、警備体制の徹底を余儀無くされた。武装した屈強な警備員を増員し全域を巡回させる、自動人相認識以外の高性能X線スキャンによる貨物検査や身体検査の他、原始的な係官自身の手によるボディタッチ、口頭審問、手荷物検査と……。時代性の為に、職員全体が自動入国審査システム以外の作業経験に乏しい事は無理もない。彼等は不慣れな接客や手作業にと多忙を迫られ、疲労や重圧の気色を色濃く覗かせていた。
……本来であれば一連の自動生体認証すら、現代では語義通りの『通過儀礼』に過ぎなかった筈なのだ。現代社会に於いてヘッドギアが犯罪抑止の中枢で在る事は論を待たない。
例えば路傍で暴漢に強襲されたとしても、被害者はヘッドギア自体から任意で防犯ブザーを鳴動させる事も可能な上、現場映像は内部で保存されながら警察へも送信出来る。当局はその通知された受信記録を基に、映像やヘッドギアGPS測位から現場と当事者を瞬時に特定する。両者の主観映像が総じて確実な証拠記録となる為、偽証を謀られる事は有り得ない。
この様にヘッドギアは多角的な防犯性が備わっている為、不文律として犯罪発生率は極端に僅少なのだ。国際空港内でもその治安性は磐石なもので、社会構造上現在では万人に於いて身分詐称は不可能。仮に反体制思想者が潜入を目論んでいたとしても、搭乗前のヘッドギア検査から本人の犯罪者予備率は機械的に考察されるのだ。
搭乗客が自動人相認識を通過する工程では、必然的に無人の個室で自身のヘッドギアを着脱する運びとなる。その際は一時的に空港側がヘッドギアを預かり、被験者が人相認識を受けている合間を利用して内部の生活記録等を専用端末装置が精査して行く。
被験者の生活風景から不穏な動向、思想、会話等の危険要素が自動的に高速で検索される為、犯罪者予備軍の事前摘発も可能なのだ。この様にヘッドギアの内部記録は各方面へ流用可能な為、あらゆる観点から犯罪抑止対策の要と成り得る。故に、一連の査証は形式的な通過儀礼に過ぎない筈、だったのだ……。
しかし現在物情騒然とさせているエスを分析するに連れ、便宜的な個人情報や社会的地位等は所詮上辺の記号に過ぎず、犯罪者予備軍を特定する事は極めて微妙な問題だと認識させられる。
知能や精神面に於いて正常と判断され搭乗を許可された者が、機内で突如錯乱しないと誰が断言出来ようか? 一介の常人と看過されていた者が突如発狂し、未来を鑑みずに犯行へ走る……。自暴自棄に陥った犯罪者の出現は警戒しても万全と言う事はなく、未然に阻止し切れるものでは無かったのだ……。
ヘッドギアの個人情報や各種映像機能こそが人間の行動を監視し、抑止する効力を有すると誰もが盲信し切っていた。しかしエスと言う通り魔の出現に由って電脳情報や記録映像もそれ単体のみでは只のデジタル情報に過ぎず、事件現場そのものを収束させる実行力を持つ訳では無い、と言う冷厳な現実を認識させられたのだ。
ヘッドギア本体の存在目的や各種映像機能に於いて、最早人間は記号化されていたと言って良い。
しかしエスと言う存在は、最もアナログ且つ動物的な『感情』と言う不確定的要素を以って、既成概念や社会的論理へ反抗する事も可能だと実証した。自暴自棄に陥った狂人であれ、何らかの確固たる信念を持った英雄であれ、末路を鑑みない者に取ってヘッドギアの防犯機構も絶対的拘束には成り得ないと……。
…………。
休憩時間終了間際を通知するヘッドギア内部の時刻アラームが鳴動した。休憩室で思索に耽っていた一介の係官は、途端に多忙な現実へと引き戻される。
当初は激務を極める職務状況の為に、物思いを廻らせる暇も無い生活が続くかと青年係官は当て込んでいた。 しかし警備体制の強化を指示され環境が変動している事を肌で実感し、何か言い知れない程の強烈な触発を感じさせられている。
目まぐるしい現況だからこそ、寧ろ日頃以上に内省的な思索を要求される様な焦燥感……。
(―思えば自身の毎日も、凡庸で退屈極まりない、事務的で作業的な仕事をこなすだけの日々だった……。
空港内に於ける職務工程の殆どは自動入国審査システムへ委譲されている為、職員の存在も便宜的な書き割りの一つに過ぎない。事故や犯罪の発生率も絶無に近い為、誰もが安寧を永久不変なものと盲信していた。
しかしこうして現在エスやその狂信者は基より、万人が自発的意志から犯行を起こす事も可能だと再認識させられている。意思に由って加害者に廻る事も可能であれば、不本意でも何らかの被害に巻き込まれる可能性も有る。人生は状況の変異に左右される事も有り得る為、自身の安危も一寸先は闇。政府が謳う恒久の安全や平和等は、神話に過ぎなかったのだ―)
端緒は、凡庸な一学生からの発作的な反抗に過ぎなかった。しかし一人の青年が巻き起こした暴挙は、社会が貞淑に覆っていた真理へのベールを剥ぎ取ってしまったかの様に想える。青年の行為は社会的影響力を生み、肥大して行く激動の潮流はそれ自体が一個の生命を獲得したかの様だ。その初期衝動をぶち撒けたが如き苛烈な激流は、市井一人一人の暗部迄へと懸命に語り掛けて来る気がして止まない。
(―特に自分は空港職員と言う職業柄、エスの出現以降から何か無言の示唆を受け取っている様な気さえする……。
空港へは毎日膨大な利用客が押し寄せるものだが、自動入国審査システムの操作を担当し溢れ返る長蛇の列を処理する時、不意に一抹の疑念が脳裏を差す瞬間があるのだ。
搭乗客本人は、検閲を通過する為にまずは通信圏外の個室へと案内され、室内で自動人相認識システムを受ける。その前後にもヘッドギア本体から本人の国籍番号、住所、連絡先、出身地、生年月日、血液型、家族形態、職業等、あらゆる個人情報が正確に照合されるのだ。
しかし電子鑑札は絶対的正確性を有しながらも、矢張り表面的な記号以上でも以下でも無い。政府から付与された学業、職業、住宅等の社会的立場……。もし、何等かの災害等に遭遇し、ヘッドギアの様な身分照明を失った時……。全てを剥ぎ取られた際には、何を以って自己を証明するのだろうか……? 親しい隣人でさえ、相手が素顔ならば判別すら出来ないかも知れない。
翻って自分自身も、一個の人間として全ての社会情報や虚飾を剥ぎ取られ裸に晒された時、何か自分を自分自身と根拠を持って宣言するだけの手立てが有るだろうか? 仕事柄、日々大勢の人間と貴重な一期一会を繰り返している筈だが、俺は、誰の、何を見知ったと言うのだろうか……? そして、俺自身も何者かの心や記憶に留まる事は一切無い、通り過ぎて行く書き割りの一部……。
エスの脅威に怯える情勢の中、自分自身も一部の信奉者達の様に奴の毒気へ中てられ始めているのだろうか?
自分自身がヘッドギアを棄て去る様な覚悟を持ち切れはしない。しかしエスの主張に共感の一端を感じ、奴が次にどの様な犯行を繰り出すかと、内心ではその動向へ期待を膨らませ始めてもいる……)
気が漫ろになりつつも、彼は休憩を切り上げ職務へ戻ろうと立ち上がる。
……しかしその矢先、不意に物思いを掻き消す様な騒音が鼓膜を突き刺した。
青年係官は何事か、と項垂れていた頭を反射的に擡げる。すると、空港内の中心部に設置されている超大型テレビジョンへ搭乗客達が群がっている様子だった。そして居合わせた空港利用客達から発せられた怒号が施設内全体を劈いた、と察知するのに青年係官は数瞬を要する。大型テレビジョンの下へ結集した群集が口々に吃驚の声を挙げ、或る者はディスプレイを呆然と指差し、或る者は隣人と顔を見合わせつつも言葉を失い立ち尽くす……。
大音声の騒乱から各人の会話の逐一迄は聴き取り切れない。未だ事態を把握出来ない青年係官は暫しの間、茫然と眼前の光景を見遣っていた。しかしその刹那、自身の職務と使命をはたと思い直し、突如発生した異常事態の現場へと性急に疾駆し始めた。
「お客様方、落ち着いて下さい! 調査致しますので道をお空け頂けますか!!」
係官は慇懃さを失しない様に意識しながらも、どよめく喧騒を掻き消す為にと叫声を張り上げた。そして立錐の余地も無い人垣を半ば乱雑に通過する中で、ふとした瞬間に眼前が開かれた。勢い余り、係官は前方へ倒れ込みそうになる。最前列に位置する群集を突き抜けたと気付き、彼は反射的に両手と片膝で床面を突き体勢を立て直した。
……しかし何事かと傍観する集団の最前へ踊り出ながらも、結局は係官自身も呆然自失と立ち尽くす他は無かった……。
問題の大型テレビジョンを見上げると、巨大ディスプレイから次々と大写しにされるものは一般市民と思わしき者達の顔、顔、顔……。そう、本来政府直轄の基で厳重に管理保護されている一般市民の個人情報、素顔の撮影写真が次々と映写されて行くのだ……!それも個人情報の他、現在チェックゲート内の個室で素顔の撮影を受けている一般利用客達の光景迄もがメインロビーの大型ディスプレイへ漏洩し始めている……。
呆気に取られつつも、係官の脳裏では不測の事態を引き起こした張本人が誰か、既に確信していた。機械の不具合で、この様にメインロビー内の巨大ディスプレイへ個人情報の流出が起こると言う事はまず考え難い……。
(―エスだ! 奴とその一派は現在施設内のどこかへ潜伏しているのか、もしくは遠方からのハッキングに拠る妨害攻撃をして来ているのか……。実際は量り兼ねるが、奴等が厳重に管理されている筈のシステムデータベースへと介入し、個人情報を流布していると言う事だけは間違い無い……!)
その瞬間、居合わせた者達の緊張を益々煽り立てるかの様な、冷厳とした調子のアナウンスが施設内へ鳴り響いた。
『―不穏なガスが検知されました。空気濃度を低下させ、後に施設内に於ける酸素の供給を停止致します。施設内をご利用のお客様は職員の指示の下、速やかな避難をお願い致します……。繰り返します。不穏なガスが検知されました……、空気濃度を低下させ……』
巨大ディスプレイへ個人情報が流出されている現状だけでも当事者達は混乱しているのだが、更なる追い撃ちを掛けるかの様な不穏なアナウンスに誰もが当惑する様相を見せた。
……そして次の瞬間、居合わせた者達誰もが我が目を疑った。
日中の燦々たる陽射しを四方から取り込む様に設計されている空港内部だが、透明な窓ガラスの内外両面へ、灰色の防火シャッターが一斉に降り始めたのだ。
遥か見晴るかせていた管制塔や滑走路の景観が、突如硬質なシャッターで遮断される。
瞬き程の速度で、施設内は一転して夜の帳が降りたかの様に一面の薄闇と化してしまったのだった……。
重厚な防火用隔壁もほぼ同時に作動し始め、間近に居た空港利用客達は泡を食った面持ちで脱出を試みる。しかし、遂には厳重に閉鎖されてしまった鉄扉を前にして虚空を仰ぎ、腹立ちを紛らわし切れず拳を叩き付けるのみだった。
*
……。非常用電源により施設内の各照明は程無く復旧したものの、通信装置の類は一切が使用不能だと判明。居合わせた被害者達の動揺は、最早歯止めの効く所ではなくなってしまった。係官は騒乱を鎮める為に施設内を奔走するが、大所帯を宥めるにも最早限界を来たしている。
「一体どう言う事なんだっ!」
「早くここから出してくれ、あんた等はこの空港の人間なんだろっ!!」
空港利用客達が掴み掛からんばかりの気勢で口々に詰め寄って来る。係官も流石にその迫力には気圧されたが、内心では叉別の思索を廻らせてもいた。
(現状、これ等がエスの仕業と判断している者は極く少数の様子だ……。ここでその推測を伝えた所で皆は益々戸惑うばかりだろうが……。どうする……?)。
そして先程のアナウンスを受け通風孔の状態を確認する為に立ち働いていた職員と物見高い客達が、驚嘆の声を次々と挙げた。彼等の声は、換気が停止された無風の施設内から更に酸素自体が除去され始めた事実を明らかにしていた。施設内全体が無酸素状態へ陥った後の惨状を想像し、被災者達の動揺は極点へと達する。
「嫌だ! 死にたくない!!」
「誰かここから出してくれっ!!」
不安と悲鳴が木霊する叫喚の中で、係官は唯一平静を保った侭状況を推察していた。
(エスは今迄の犯行上では、信念の為か一般市民へ暴力的な危害を加えた事は無い。例えテロ行為としても、反体制を唱えその声明を市井へと伝える為に、象徴性を感じさせる様な犯行ばかりを仕掛けて来た筈だ……。本当に火災や毒ガスが散布されたのなら、既に被害を受け昏倒する者が確認されても可笑しくはない……。矢張りそのガスの検知情報自体が何かの細工で、サイバーアタックの一環に過ぎない筈だ。彼の狙いは、何か他に在る……)
係官は群集の騒乱を制止する様に鶴の一声を挙げた。
「私は空港内職員です! 皆さん落ち着いて下さい!! 良いですか? ガスが感知されたと言う情報は機械の誤報かと思われます!我々が異状の原因を究明し、必ず短時間の内に空港内の全機能を復旧させますのでご安心を!! 空港内が自動的に封鎖され防災処理の為に酸素が段々と薄くなって行っている様ですが、この場合は取り乱す程悪戯に酸素を速く消費してしまいます!
酸素の消耗をなるべく最小限に抑え肉体上の機能を損なわない為にも、皆さん床に突っ伏して下さい!! 慌てず落ち着いて! ここからは我々職員や警備員の指示へ従う様にお願いします!!」
超然とした彼の案内から、半ば狂乱し掛けていた利用客達は若干の安堵を覚えた様子だった。喧騒が鳴りを潜めると、程無くして施設内の全員が従順にその指示へ沿う様に動き始め、漸く一旦の規律を見せ始める……。騒動に多少の沈静化が図られた事で一部の職員達も漸く平静を取り戻し始めたが、今度は叉逆に、騒乱を一喝した係官の急変振りに圧倒されてもいる様だった。
控え目で、どちらかと言えば主体性を持たず職務に従事する男、と言う印象を職員達は抱いていた。だが、窮地に陥った現場で突然人間が変わったかの様な変貌振りは一体どう言う事なのだろうか、と怪訝な様子を露わにしている……。
係官自身は職務としての崇高な使命や義務感へ衝き動かされる以上に、内心ではエスの犯行を全貌迄見届けたい好奇心にも駆られていたのだが。
寧ろ先頭を切って群衆を庇護しようとする姿勢は擬態の様にすら感じられ、エスの次手が如何なるものかを想像し、期待感すら押し隠していた……。
(エスの意図は何だ……? 我々を閉じ込めて、その後何を謀る? この侭居合わせた人間達を無差別に窒息死させるのか。それとも監禁した状態を利用し、我々を人質として政府への交渉材料に用いる気か。もしくは外界の警備や一般市民の存在が手薄になった事を利用し、パイロット達を脅迫する形でハイジャックし海外へでも逃亡するか……。エスよ、何を、何を狙ってる……!?)。
係官は推理小説に於けるトリックの解明を読み急ぐ様に、固唾を呑んでエスの動向を待ち望んでいる……。
(空港管理下の制御システムにも無論厳重なセキュリティが敷かれている。防御プログラムも乗り越え環境装置を操作するとは、並みの手練れではない。アクセスの痕跡を消してはいるのだろうが、何かの形でエスの現状や足跡を辿る事は出来ないだろうか? そして、エス自身はここに潜伏しているのかどうか……)
係官が思索を紡ぐ刹那、施設内の一角から吃驚の声が挙がった。彼は思考を中断され、反射的に声の方角へと頭を振る。緊張下に耐え切れずヒステリックを起こした者の叫声かと思いきや、その大声の主は予想だにしない呼び掛けをし始めた。
その男性は遠方からでも人目を惹く程に派手な服装で、無数の安全ピンや刺々しい鋲が留められたライダースジャケット、タータンチェックのボンテージパンツで全身を包んでいる。その見るからにパンクスと言った風体の男は大勢の耳目が惹けた手応えを得ると、眼前に置かれた大型の貨物を頻りに指し示した。そして、窮地を脱する一助を発見したかの様な嬉々とした面持ちで彼は必死に訴え始めた。
「皆、見てくれ! この段ボール箱の中に大量の酸素スプレー缶が入れられているぞ! 空調が効かない様だが、暫くはこれを使えば凌げる!!」
その指摘を端緒として、堰を切った様に利用客達の意気が沸き上がった。彼等は餌を求める蟻の行列の如く現場へと群がり、叉も施設内は騒乱に満ち始める。
「これは人数分有るのか!?」
「俺に、俺に寄越せ!!」
「子供を先にして! 私の子供を助けてよ!!」
我先へと急ぐ様に、居合わせた利用客達は一斉に酸素スプレー缶へ手を伸ばす。
―そして、遂には骨肉相食む様な争奪が始まった……。
係官は暴動を制止するべき職務も失念し、遠巻きからその光景を茫然と眺め立ち尽くすばかりだった。緊急事態への対応策にしても、空港側が酸素缶を常備している等と言う話しは寡聞にして知らない。あれが防災用の代物では無かったとしても、運搬される筈の貨物が経緯も不明な侭、只一個のみロビー内で放置されているものだろうか?
保安態勢の一部として、空港内には数十台に及ぶ防犯カメラも設置されている。その各個防犯カメラには所有者不明の荷物が一定時間放置されていると認識した場合、セキュリティセンターへと自動的に通知すると言う探知・警報機能が導入されてもいる筈なのだ……。
狂乱し、経緯不明な酸素スプレー缶を奪い合う者達の醜悪な光景……。その混沌の渦中で、こんな遣り取りの一部始終が耳目へと入って来る。
「おい、幾ら酸素が無くなるからって勝手にヘッドギアを外して良いのかよ!? これじゃ最近のエスの事件と同じで捕まっちまうぜ!?」
「お前こんな時に何言ってるんだ!? 死んじまったら元も子も無いだろうが! 例え後で捕まるとしても俺は死ぬ位ならヘッドギアを外すぜっ!! この状態がいつ迄続くか、スプレーが人数分に足りるかも判らないんだから、要らない奴はどいてろよっ!!」
係官はその喧々諤々とした会話を見聞きした瞬間、はっと天啓の如き閃きを得た。
(これだ……! エスは矢張り一般市民迄に暴力的な危害を加える気は無いんだ。監禁した人間達を政府と渡り合う為の盾にする訳でも、逃亡を謀る訳でも無い……!
俺達自身を試し、そしてその結果を広く世間から政府へと伝える為に……!!)
事態を静観する係官の視線を余所に、醜悪に満ちた酸素缶の争奪戦は益々の激化を見せていた。その阿鼻叫喚を挙げた地獄絵図を前に、係官は更なる冷静な分析を巡らせる。
(―そう、自分達は試されている。生命が極限の状態に置かれた中で、その本人がどんな行動を選択するか……。助かりたい者は後先を捨て、まず酸素スプレー缶を手に入れる為に自身のヘッドギアを脱ぎ去るだろう……。その時、ヘッドギアを外す事に躊躇する者も、問い掛けめいた何かを受け取る筈だ。
―これは『自我』を捨てる事なのか、寧ろ『自我』を得る為の行為だろうか? 社会的生命を喪ったとしてもまずこの危機を乗り越え生き延びようとする希求は、尤も人間らしい生物的本能に満ちた足掻きとも言える。この場合、生物としてどちらを選択する事が正しいのか? 自分はどちらを選ぶのか? 問われている……)
係官が騒擾を傍観している折、不意に一抹の違和感を覚えたのは、酸素スプレー缶の存在を周囲へ伝えたパンクスの動向だった。大量の酸素スプレー缶は十中八九エス一派の用意だろう。更に、先程切迫した調子で大勢を扇動した張本人の姿は影を潜め見当たらない……。
(あのパンクスはどこへ消えたのだろうか? もしや奴は……)
ともあれ係官に取って、最早事態の収拾や犯人の特定等は想念の外にあった。仮面の内奥では秘匿していた期待に見事応えてくれたエスへと、賞賛の破顔を湛えてすらいたのだ……。
彼は、自衛と言う大義名分を以って仮面を剥がす機会を与えてくれたエスへ感謝や畏敬の念すら感じ、綻んだ口許を直せない侭でいる。
そしてそんな笑い声を悟られない様に必死で押し殺しながら、他の者達へ倣う様に見せ掛けヘッドギアを外すその手を頭部へと掛けた。
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