第一話 幼馴染その1
「――ね? ね? 怖いでしょ? 先輩から直接聞いたんだけどさ、私もう怖くて怖くて」
瞼が重い。
夢うつつの中、後ろの席にいる女子達の噂話で目が覚めた。どうやら、授業中に寝てしまっていたらしい。
「…………」
まだ覚醒して間もない頭を抑えつつ、周りの様子を窺う。
ここは学校の美術室。長机に向かい、みんなは鉛筆や絵の具で文化祭に展示する絵を描いている真っ最中だ。
寝ているのは俺くらいものだけど。
「ローブの絵描きかぁ、少し見てみたいかも」
「え」
「ん? なに?」
ほぼ全員が作業に没頭している所を見ると、まだ休み時間ではないはずだ。
「あんた、こういう……怖い話って平気なの?」
寝ていた俺に言える事ではないけど、おまえら、話し声ですごく目立ってんぞ。
「これ、怖い話だったの?」
「う、少し傷ついた。美鳥を怖がらせるためにこの話を持ちかけたのにいいィぃ……!」
美鳥と呼ばれている俺の幼馴染みは、比較的声を小さめにして喋っている。
結構真面目な奴なんだけど、片方が喋っているから付き合っているんだろう。
うるさいのはその片方だけなんだが、授業中に喋っていることには変わりない。
「一応美術部の先輩と言うことだから、話を聴いておきたかったんだけど。美鳥、あんた何も聴いてないの?」
「うん。先輩、最近部活来てないから話す機会ないんだよね」
「あらま。でもまだ引退じゃないんでしょ」
「放課後にもバイトがあるんだって。大変だよね」
「掛け持ち!? 先輩すっげぇ……」
「学費のためって言ってたよね。大丈夫かな」
「心配してどうこうなるもんじゃないしねぇ……」
「好きなんだけどなぁ、先輩の絵」
このまま聴き耳立てるのもいい趣味とは言えないし、突っ伏して寝よう……。
「ん……」
俺はもう一度深い眠りに落ちようと瞼を閉じた。
「こらっ!」
やや高音な声と共に、柔らかい掌の感触が俺の頭を軽く刺激する。
「うおッ!」
そして、グッと机に押し付けられた。
半分飛んでいた意識が戻ってくる。
「おはよう、榎本啓一君。起きた?」
目の前には美人と評判の森川智明先生が、ムスッとした表情で佇んでいた。
「先生」
「起きた?」
「……ハイ」
「ダメでしょ。美術でも一応授業は授業なんだから」
「すいません」
「わかればいいんだけど……。あなた達も、噂話くらいは休み時間にしなさい」
「はーい」
「……あら?」
後ろの二人にも注意を呼びかけたところで、俺の机に置いてあるそれに目を向ける。
「もしかして……絵は完成して、た?」
「あ、そうです。だからやる事なくて」
思い出した。描いている絵が完成して、やる事がなくなったから寝る体制をとったんだった。
「ご、ごめんね。今名札配るから……!」
せかせかと美術準備室へ小走りで駆けて行く智明先生。
こういったおっちょこちょいな面があるのも、人気の秘密なんですかね。
終鈴となるチャイムが鳴り響く。
もうこんな時間か。
「え!? あ、えと……休み時間にしてください!」
この先生は騒がしくて、見ていて飽きない。
この選択授業は連続二時間行われる。従って、次の時間も美術となる。
あと一回終了のチャイムが鳴れば待ちに待った昼休みの到来だ。
眠ってしまったからか、今自分が空腹なのかどうかわからないんだけど。
「啓一君」
俺の名前を呼ぶ声と同じく、肩を指で叩かれる。
こっちは新任の智明先生と違って、かなり聴き慣れている声色だ。
「美鳥。どうした」
「えへへ、絵終わったんだよね?」
俺越しに机の上を覗いてくる美鳥。ああ、絵の事か。
「一応な」
「おー。相変わらず早いね。見せて見せて~」
「…………ほらよ」
少し迷ったが、別にいいか。
机の上に置かれている完成間もない絵を、そのまま真後ろの席にいる美鳥に手渡す。
美鳥は数ヶ月ぶりにオモチャを買い与えられた子供のようにはしゃぎながら、俺の絵を受け取った。
「わー」
美鳥の小さな歓声につられて、先ほど美鳥と噂話をしていた隣の女子も覗き込んできた。
ウェーブのかかった赤渕メガネのその生徒は皆本恵理。新聞部に所属している美鳥の友人だ。
「ウマッ……。啓一君て美術部だっけ」
「帰宅部」
「どうして帰宅部がこんなに絵上手いのよ」
「どうしてと言われても、描けるものを描いただけだし」
「なんかムカつく。あんたに関するできらめな記事書いていいの?」
「やめい。仮にも新聞部次期部長だろ」
「やっぱり啓一君の絵はいいなー。私もこんな風景画描いてみたいかも」
俺と絵里が軽い漫才をしている横で、美鳥は俺の絵を見てニヤついていた。
「もし描けるようになっても、今度はお前の得意な動物が疎かになるぞ」
「う……それは少し嫌かも」
美鳥は肩を落とし、俺と自分の絵を交互に見比べ始めた。
完成前のようだけど、俺にはお前の絵の方が上手く見えるぞ?
「おー、美術部の美少女秋葉美鳥と、冴えない男榎本啓一の微笑ましい一ページだ……」
「び、美少女!?」
「冴えない男って何だよ」
「美鳥と比べたら、啓一君なんてそんなポジションが妥当よ? 悪くはないんだけどさ」
褒められているのか貶されているのかわからん。
「え、恵理ちゃん!」
「何よ。あんたは自覚ないかも知れないけど、狙っている男子が多いってのは覚えておいてよね」
「……美鳥の奴、そんなに人気なのか」
「絵の実力に対する尊敬、恋愛事情に至るところまでいろいろね。興味ある?」
怪しい笑みを浮かべるな。
「なんでそんなに詳しいの?!」
「あんたの友達やってると、嫌でも相談されんのよ。美鳥の好きなもの教えてくれとか」
「なるほど」
「どう、啓一君。情報買う? 今ならスリーサイズなんてのも」
「わアァァァッ!!!」
「冗談よ」
美鳥、落ち着け。
「とりあえず、そういうのは我慢しろ。人のプライベートだ。それに俺達は幼馴染みだし、お前よりかは知っているつもりだぞ」
「え、スリーサイズも?」
「わアァァァッ!!?」
「美鳥、そればっかりは知らないから安心してくれ。あと落ち着け」
「じゃあ啓一君。何かおいしいネタを」
「プライベートなことに関することは一切お答えできません」
「チッ」
美鳥よ。こいつは本当に友達なのか?
友達は選んだ方が良いぞ。
「なあ」
「なんだい?」
「さっき美鳥に話してたアレ、なんだ? 前から気になってたんだけど」
「ああ、アレ? 最近流行りの都市伝説よ。って、啓一君。盗み聞きはよくないよ?」
「静かな授業中に話してたら丸聞こえだろ。最後の方は聞き取れなかったけど」
「でもどんな人なのかな? その絵描きさん」
「ローブってのが怪しすぎるだろ。そんなの本当にいたのか?」
「それが定かじゃないから、都市伝説として噂が広がってるんじゃない?」
「……なるほど」
「美鳥が知らないって言うから、ついでに怖がらせてやろうと思ったの」
「思惑は外れたな。美鳥に怖い話は逆効果だぞ」
「あっちゃ、私の持ちネタ全滅じゃん。ねぇねぇ、啓一君。美鳥の弱点になる話題ない? この子の怖がる顔を激写したいんだけど」
「……なんかあったっけか。というか、動機が不純すぎるだろお前」
「苦手なのは特にないよ。あ、でもアレが苦手かな」
「アレ? なになに?」
「うん。ほらゴキ」
「美鳥! 苦手ならそんな忌々しい単語口にするんじゃないの!」
「あはは……恵理ちゃんも苦手だからねー……」
「女なら口にするのも記事にするのもおぞましいものでしょ!?」
激写は当分お預けだな。
「あ、噂と言えばさ、二人って付き合ってないの?」
「恵理ちゃん!?」
「ハッハッハー。仕返しよ、仕返し」
「うぅー……」
「人を仕返しの道具に使うな」
「でも、実際のところどうなのよ?」
「確かに一緒にいることは多いけど……な?」
「うん。付き合ってるとかじゃないよね。達也君と同じで」
「達也君もよく一緒にするわよね。あんた達、どれくらいの付き合いなの?」
「私と達也君は小学生の時からだよ」
「啓一君は?」
「俺は……」
俺と美鳥が出会ったのは――。
「覚えてないくらい前、だよね」
「え、あ、ああ」
「そうなんだ。幼稚園くらい?」
「うん。確か、それくらい」
「へぇ。今度アルバム見せてもらっていい?」
「いいよ。いつがいいかな」
「空いている日にメールしてほしいかな。あ、私おトイレいってきまーす」
「いってらっしゃーい」
席を立った恵理を見送る美鳥。すると、俺に体の向きを変えてきた。
「三年前だよね」
「え?」
「私たちが初めて会ったのは」
「……ああ。でも、それで幼馴染みって、少しおかしいよな」
「うんうん、幼馴染みだよ。啓一君が覚えてないだけで」
「……そうだな」
覚えてないくらい前。
それは物心のつく前と言う意味ではなく、俺が記憶を失う前と言う意味が込められたものだ。
三年前の夏。俺は何らかの事故が原因で記憶喪失になったらしい。頭の中は白紙も同然、思い出と言う思い出がゴッソリ消えていた。
全生活史健忘。そう診断された。
発症したその三年前事故から、俺が生まれた時までの記憶。自分に関する記憶が思い出せなくなると言ったものだった。
名前はもちろん、目の前にいるよく知っているはずだった美鳥の事でさえ思い出せなかった。
今もそう。記憶を失う前の事は、まったく思い出せないでいる。
そういう意味で、俺と出会ったのは三年前だと、美鳥は言ってくれたんだ。
「お前らが弟と妹だって言われても、俺は信じてたかもしれないぞ」
「そ、それはちょっと複雑かも」
「それくらいおかしかったんだよ、俺」
「おかしくなんかないよ。でも、記憶がなくっても上手に絵が描けるのには驚いたなぁ」
「体が覚えているんじゃないか? 昔の俺は、よく描いていたんだろ?」
「うん。今の何十倍か、絵に時間を費やしてたよ?」
「ほとんど病気だな」
「今じゃ私の方が描いてるもんね。ねぇ、やっぱり選択美術だけじゃなくて、部活もやろうよ。美術部入ろう?」
「選択授業は体育にしようと思ったのに、お前が無理矢理美術に誘導したんだろ。それで充分じゃないか」
「えー」
「なんだよ」
「…………」
「?」
「惜しいな、って」
「なんだそりゃ」
「あはは。でもやっぱりすごいと思うよ? 啓一君は」
「…………」
面と向かってそう言われると、悪い気はしないけど。
「でも、おだてられて部活に勧誘されるような事はないぞ」
「……ケチ」
「なんか言ったか?」
「ううん、なんにも。はい、返すね」
「おう」
絵が大好きだった昔の俺、か。
手渡されたところで予鈴が鳴り、それを聴いて慌てた恵理が美術室へ駆け戻って来た。
相も変わらず騒がしい奴である。
「さて、私も作品終わらせよっと」
「がんばれー、俺は寝る」
智明先生が戻って来るまで間、俺は上半身を机に伏せて目を瞑った。