第十七話 羽ばたく為に翼を広げる
そして、金曜日。
「おじゃまします」
学校に今日は休みますと連絡を入れた後、隣の秋葉家を訪ねた。
「あ、啓一君。いらっしゃい」
「すいませんでした。押し掛けるような真似しちゃって」
「いいのよ。それに、昨日はいつの間にか外に出てたでしょ? 美鳥を見てくれる人がほしかったから。ただ、内定に響かないよう、今日だけね」
「本当に、俺達二人だけでいいんですか?」
「間違いはないわよ。信用しているからね?」
「は、はい」
「このまま誰とも会わせないのもどうかと思うし。じゃ、今日はお願いします」
「や、やめてくださいよ。そんな改まって」
「ううん。もう私じゃダメみたいなのよ。寝言で美樹の事ばかり呼んでいるのよ。起きている時もなんだか辛そうで、他の事は何も話そうとしないの」
「今になって、なんで美樹の事なのかしら」
「……寂しいんだと思います」
「特別仲が良かったからね。辛かったのは知っているつもりでいたんだけど」
「そうですね。でも、あいつは一人じゃありませんから」
「あら、ありがとう。うちの子にそんな事言ってくれるなんて」
「俺にだって美鳥をあんな風にした責任があります」
「責任?」
「ええ。それじゃ、上がらせてもらいますね」
「う、うん。あ、仕事行かないと! それじゃ、お願いね」
「任されました。あの、美鳥の部屋はどこですか?」
「そっか。覚えてないんだっけ。二階だけど、プレート見ればわかると思うわ」
「はい」
せかせかと出勤の支度をする美佐枝さんを横目に階段を上っていく。
「ここか」
二階に上がって右手にあるドア、美鳥の部屋と書かれたプレートを確認。
「それじゃ、何かあったら連絡入れてくれていいからね!」
「わかりましたー」
扉を開け、美佐枝さんは出勤していった。さて……。
「美鳥ー?」
部屋の扉を三回ノックして、美鳥の反応をうかがった。
『誰?』
「俺だ、啓一だよ。遊びに来たんだけど」
『今日平日だよ?』
「学校は休んだ」
『なんで?』
「なんでって、お前に会いたいって思ったから来たんだよ。開けてくれ」
ガチャリと小さく扉が開け、顔を覗かせる。
覇気がない。何かに怯えている子供みたいだ。
「入れてくれるか?」
「うん」
引き腰になりながらも、わりとあっさり扉を開けてもらった。
最初は家にも上がらせてもらえなかったのに、それを考えると進歩したんだろうか。
「おじゃまします」
部屋の中が暗い。俺は扉を閉め切ると、数歩歩いてカーテンを両端へ移動させた。
眩しい光が入り込んできた。
あれ? そういえば、部屋が暗いのにどうしてカーテンの位置がわかったんだろう。絵と同じで、体が位置を覚えていたんだろうか。
「眩しい」
「お日様浴びろ。気分まで暗くなるぞ」
「うん……」
「調子悪いな、どうした?」
「そんなことないよ」
そんなことない、なんて嘘だ。この不安そうな表情は、どこかで見た事がある。
俺が記憶を失くして、自分の顔を鏡で見せてもらった時。
何も思い出せない不安から来る表情そのものだった。
少し前の事すら思い出せない記憶を失った直後の心境。それは容易に想像できる。
「昨日、何していたか覚えてるか?」
「え、昨日?」
「あ、昨日は風邪で寝込んでいたよな」
「え、あ……うん。風邪で寝込んでいた」
記憶のない人間は、簡単に誘導されてしまう。
寝込んでいたのは本当だろうけど、俺達は昨日川辺で会っているだろ?
「いろいろ持って来たんだけど、見るか?」
「でも私、風邪」
「どれどれ」
美鳥のおでこに手を添えて、熱を計るふりをする。
「熱はないな」
「じゃあ学校に」
「ダメだ。今日は安静にしてろ」
「あれ、啓一君は行かないの……?」
「俺はいいんだよ」
「え、でも」
「とにかく座れ」
「う、うん」
「来年は受験生か。どこの高校に行くかは決めたか?」
「うん。啓一君と達也君と同じところ受けるよ」
これは昨日した質問だ。まったく同じ答えが帰って来た。
どうやら美鳥は、本当に昨日の事を覚えていないらしい。
「そっか。ただ部屋にいるだけってのも暇だな。美鳥、絵でも描かないか?」
「絵?」
「道具持って来たんだ。退屈しないだろ」
「うん」
鉛筆とペン。物置からいくつか拝借してきたスケッチブックを数冊取り出す。
「借りるね」
「ああ」
「…………」
「どうした?」
「あれ?」
美鳥の鉛筆を持つ手が止まる。描き始めてから五秒と立たないところだった。
「描け、ない……」
「え」
「描けないよ」
「美鳥?」
「うあああァ……!」
「ま、待て! 美鳥、落ち着け」
スケッチブックを突き放し、美鳥はその場で頭を抱え込んだ。
「絵はやめよう。な?」
持っていた鉛筆を取り上げて、俺は反射的に美鳥を抱き寄せた。
美鳥はそれに抗おうとせず、むしろ自分から俺の胸に飛び込んでくる。
「ああ、あああぁぁぁ……!」
「大丈夫、大丈夫だから!」
美鳥はただただ声を漏らし続ける。こういう事だったのか。
朝、美鳥は起きると記憶が曖昧で困惑する。
その不安から絵を描き始めると、今みたいに描けなくてさらに混乱するんだ。
俺はそれを今促してしまったんだ。
描けない。思うように筆が進まない。
「どうして描けないの……? なんで」
そんな不安で押し潰されそうになって、川辺へ歩いて行くんだろう。美樹の姿を求めて。
「落ち着いたか?」
「なんか、私おかしいよね? 絵を描こうとすると、頭の中が真っ白になっちゃって。何描いたらいいのかわかんなくなるの」
「ああ、わかる。たまにそういうことよな」
「啓一君も?」
「ああ。随分長い間、な」
もう三年になる。
「ねぇ、このまま絵が描けなくなったらどうしよ……」
「美鳥は描きたいと思っているんだよな?」
「うん」
「そう思っているのなら、いつか描けるよ」
「本当?」
「もちろん。今は休もう、きっとスランプなんだ。ゆっくり休めばいい」
「でも、お姉ちゃんが……私の絵、好きって言ってくれたから」
「無理して描いても美樹は喜んでくれないよ。少し休んでさ。自信持って見せられる絵を描け」
美鳥はきっと、ここ数日一人で苦しんでいたに違いない。
「絵は描きたいんだよな」
頷く美鳥。
「なら、約束してくれ」
「え?」
「どんなに追い詰められても、画材は捨てないって」
「お前のその、描きたいって言う想いまで捨てることになるから」
「……わかった」
美鳥はわかってくれたようだが、明日になれば忘れてしまうかもしれない約束だ。その内、本当に画材を捨ててしまうかもしれない。
意味のない約束かもしれないけど、これだけでも美鳥の支えになってくれるはず。
「よし。なんか別のことしよう」
画材をどけて、別の荷物を漁りだす。
「啓一君、それ」
美鳥が先に何かを見つけたらしい。
「あ、父さんの書いた本だよ。見つけたからついでに持って来たんだ」
「小説……?」
「読んだことあるか?」
「そういえば、読んだことないかも」
文章を追いながら、コクリと頷く美鳥。
心なしか、虚ろだった表情が明るく見えてきた。
隣に腰掛け、静かな時間を過ごす俺達。
そういえば、前にも同じような事があったっけ。
俺が退院してすぐ、名前を知らない女の子――美樹の夢を最初に見てしまった日だ。
今ではもうなんともないけど、初めてあの夢を見た日は不安で堪らなかった。
「…………」
美鳥の顔をチラリと盗み見る。
あの日美鳥は、今の俺のようにずっと傍にいてくれたっけ。
「啓一君、先に読む?」
「じゃあ、一緒に読もう」
「うん」
肩に乗る美鳥の頭、首をくすぐる髪がすくぐったい。
美鳥と二人。俺達は父さんの本を二人で読み始めた。
『とても貧乏な一人のその画家は、日本にない風景を描きたいと外国に身を置いた』
『絵描きは少ないお金で画材を買うんだ。そして、いつも同じ川辺に来る』
『絵が好きなその画家は、家に帰っても寝る間も惜しんで絵を描いた』
『たまに絵が売れると、そのお金でまた画材を買う』
『そんな生活を続けていたせいか、いつしか食べ物を買うお金さえなくなってしまった』
『画家は絵を描く事をやめて、その国で仕事を見つけた』
『しばらくして仕事が定着し、暮らすには不自由がなくなっていた』
『だが、画家はこう思ったんだ』
『また絵が描きたい』
『だが、画材は生活費の為に売り払った後だった』
『画家は画材も持たずに川辺に行った』
『川辺、それも男がいつも座っていた場所を使われていた』
『先客。それは見るからに怪しい、一人のローブを羽織った絵描きだった』
『ローブの絵描きは、男に言った』
『絵は描かないのか』
『キャンパスの前に座り込んだ絵描きの絵を見て、その画家は仰天した』
『これは私の絵じゃないか』
『それはこの川辺から、町並みを描写した作品の一つで、間違いなく男が描いたものだった』
『もう一枚ある。これも君が描いたものだ』
『画家は立てられたキャンパスを見て、呆然とした』
『それは白紙だったから』
『このキャンパスにはあなたの可能性が映し出されている。見えないのか? こんなに素晴らしい絵が、あなたの未来が見えないのか。この才能を無駄にしていけない。諦めないでほしい』
『ローブの絵描きは続けた』
『あなたの未来は既に描かれた絵なんかじゃない。これから描く白紙のキャンパスそのものが、あなたの人生なのだから』
『画家は次の日に仕事をやめ、絵を描き始めた――』
小説は数十分で読み終えた。
本にもなれなかった無銘の小説。読むのは二回目だけど、どこか懐かしい不思議な物語。
ローブの絵描き、最初にその存在を知ったのは噂話。川辺で本物に手招きをされて、白紙の絵を見せられた。
「啓一君」
「なんだ、美鳥」
「絵、描きたい……」
「さっきみたいに、描けないかもしれないぞ?」
「それでも、描きたい」
「わかった」
先ほど取り上げた画材とスケッチブックを渡す。
すると、美鳥は今までの事が嘘だったかのように筆を走らせ始めた。
だが、その手は時々ピタリと止まる。
「大丈夫だよ、美鳥」
「俺も、何か描くか」
持ってきたもう一冊のスケッチブックを開き、鉛筆を握る。
それから俺達は、時間を忘れて絵を描き続けた。
俺は失った三年前より昔の記憶を、美鳥は今までの三年間の記憶を。それぞれ、今までの時間を埋めるように。
気付けば、お昼はとっくに回っていた。
「美鳥、腹減ってないか? 実は、弁当があるんだけど」
「啓一君が作ったの?」
「いや、達也だよ」
そう。実は昨日、達也に頼んだのは弁当作りを頼んだんだ。
「ん。いただきます」
絵を中断して、俺達は達也の作った弁当を食べ始める。
「あ、この味……」
「うめぇ。あいつ久々に気合い入れたな」
達也に作ってもらった弁当は、明らかにいつもより手間暇かけて作られたように思える。
事前に美鳥にも食べさせると言ったからだろうけど、作らせたのには理由がある。
「お姉ちゃんの味に似てる。よく作ってくれたっけ」
「達也の腕もあがったよな」
「うん。しばらく、食べてなかったから、わからなかった」
そう。美鳥は決して達也の弁当を食べようとはしなかった。俺や達也と昼休みを過ごさなかった理由。美樹の味に似ている達也の料理を口にしたくなかったから。
少なくとも、美樹が死んで、俺が記憶喪失になってから、美鳥は一度も達也の料理を口にしていないと思う。
「ねぇ、啓一君。私はただ逃げていただけみたいだね」
「うおっ」
不意に、ドンッと美鳥が俺の胸に飛び込んでくる。
俺は後ろに両手を床について、後ろに倒れる事はなかったが――。
「ぐすっ」
すすり泣く美鳥の背中に手を回してやりたかったのに、それができない。
「……達也が最近始めたバイトは?」
「新聞配達」
「学校の美術教師は」
「智明先生」
「…………」
涙声ながらに、彼女は俺の質問に答えてくれた。
「全部思い出したよ?」
「みたいだな」
「でも、やっぱり本当に描きたい絵が描けないの」
床にスケッチブックと鉛筆が転がっていた。
線画が途中で終わっている。小さな鳥が、木の枝に止まっている絵だ。
小鳥の線は、少し歪んでいるように見えた。
「啓一君」
「どうした」
「川辺に、行こ?」
「今からか?」
「今じゃないと嫌。それに」
「それに?」
「明日になったら、この決意が薄れそうなの」
「もう逃げ出さないって約束できるか?」
「できる」
美樹の姿をしたローブの絵描きを見て逃げ出した。
その弱気な背中はもう見えない。
「なら、俺みたいに記憶をなくすなんて事はないって、誓ってくれ」
「もう平気だよ」
思い出せたんなら、美鳥はもう大丈夫だよな。
「会いに行くんだよな。美樹に」
「うん。あのローブの絵描きさんにね」
「まだ描けないって事は、キャンパスは白紙に見えると思う」
「…………どうすれば、ちゃんと見える?」
「俺にはまだ、はっきりとはわからないけど、とにかく描きたいって願うんだ。描けない、描きたいないなんて微塵も思っちゃいけないんだと思う」
「そっか」
「それでも行くか?」
「行かなきゃ、前に進めないもん。ちゃんと見られるかな」
「ああ、見られるさ。俺がついてる」
「くす、なにそれ」
「なあ美鳥」
「何?」
「俺もローブの絵描きを見たんだ」
「啓一君も?」
「言ってなかったよな」
「初耳」
「俺もキャンパスが白紙に見えると思う」
「だから傍にいて、前を向く勇気を俺にくれ」
「絵を見る時?」
「それだけじゃない」
「えっ?」
「前を向くってのは、信じた道を歩む事。昔、そんな事を教えられた気がする」
「お父さんに?」
「たぶんな。でも、正直、みんなができることじゃないと思う」
「お前となら……俺、前を向ける気がするんだ」
記憶がなくても、傍にいてくれる人がいたから俺は道を踏み外さずにいられたんだ。
「美鳥、俺と付き合ってくれ。ずっと一緒にいてほしい」
「……っ!」
「記憶がなくなって不安だった俺を、お前は支えてくれただろ。もちろん達也にも感謝してる」
「さっき言った通り、俺はまだ前を向けてないんだ」
「もう一度言うぞ。俺と付き合ってくれ」
「答え、聞いてもいいかな」
「……ダメって言われたら、どうする気?」
「また記憶喪失になる」
「それは困る、かな」
「どうして」
「忘れられるなんて、辛いだけだもん」
「そうはならないんだけどね」
「じゃあ」
「はい。これからよろしくお願いします。えへへ」
「ああ、よろしくな」