第十六話 物置にあった物語
「ねぇ啓一。これって」
短編の、それもすごく短い内容のものだった。
そして、細部の違うところはあるけど、小説は今の状況そのものだった。
白紙の絵と、完成した絵。
絵描きをやめた人間の前に現れるローブの絵描き。
「物置の中にあったのだから、たぶん評価はされなかったんだろうけど」
「どこか優しい感じがする」
「父さんって、こんな話書いていたんだな。絵だけじゃなくて」
「いろんな事を知っていて、いろんな事ができる人だったよ。僕や美鳥、もちろん美樹だって啓示さんからいろんな事を聞いた」
「啓示さんから絵を教えてもらっていた事もあったよ」
「へぇ、全然覚えてないな……」
「そりゃ啓一は覚えてないでしょ。あの約束だって思い出せてないんだし」
「達也。その約束の事」
「ごめん」
「達也?」
「美樹と約束したんだ。啓一が約束忘れたら、思い出すまで言わないって」
「え?」
「啓一は覚えてないだろうけど、美樹と大喧嘩したことがあったんだよ?」
「手紙に書いてあった。手紙の交換はじめたキッカケだと思う」
「それで啓一が思い出すまで教えるなって……釘刺されたんだよ」
「…………」
「怒らないでね。こんな時にって思うかも知れないけど、僕にとってはこれも大切な約束なんだ」
「それに自力で思い出さないと意味がないと思うからさ」
「それができないから苦労してるって言うのに」
溜息をつく俺を見て、達也はクスッと小さく笑った。
「さっきの小説。たぶん、本人が自分の未来に否定的だから、白紙に見えるんだと思う」
「未来に否定的?」
「推測だけど、啓一は記憶がなくて、絵を描く理由を見つけられない。美鳥はどうかわからないけど、たぶん、美樹の事で絵なんて描けないんだと思う」
「だから、白紙に見えたのか? だったら、お前は?」
「ローブの絵描きがいなくても、僕は自分の未来を否定したりしないからだと思う。多少後ろ向きにはなるけど、僕にはやりたい事があったから」
「やりたい事……?」
「美樹は運動が得意だったのは覚えてるかな?」
「ちょっと待ってくれ」
川辺で拾ってきた古びた箱を、達也の前に提示する。
「それは……」
「美樹とやり取りした手紙。これ以外に一枚、俺が出しそびれた手紙がある。中身は見せられないけど、高校から推薦をもらったって書いてあった」
「知ってる。すごいよね」
「お前の運動神経の方がすごいと思うぞ」
「必死になって走ってたし、もう三年前の事だよ? それで僕さ、大学でも陸上したいんだよね」
「大学でもって、まだ走る気か」
「それが僕のやりたいこと」
「瑞樹先輩と同じだよ。お金貯めて、大学に行く」
「それで美樹の叶えられなかった夢を叶えてくる」
「美樹の夢、叶えてくるって?」
「あ、美樹は啓一には話してないって言ってたかな」
「お前には話したのか、美樹は」
「僕が告白した時にね。振られた変わりに彼氏に教えてない秘密を教えてくれたよー」
「なんか嫌な言い方だな」
「はは、ただ恥ずかしかっただけだと思うな」
「恥ずかしい?」
「オリンピックのマラソン選手だって」
「オリンピック!? すごい目標じゃないか。じゃあ、お前が叶えたい美樹の夢って」
「本気でオリンピックに行ってこようかなって」
「……お前」
「笑う?」
「笑うかよ」
「クスッ。美樹も言えばよかったのに。今の啓一の顔、見せてあげたいよ」
「人の反応見て遊ぶな」
「ごめんごめん。でも、これはもう僕の夢だよ」
「マラソン選手か」
「昔は美樹の夢だったけど」
「進む勇気はもう貰っているって言ったけど、心のどこかで迷っていたのかもね」
「絵を見てから、ローブの絵描きは?」
「見てない。見た絵も思い出せないんだけど……」
「?」
「思い出そうとすると、ね」
「達也?」
「おかしいんだ。思い出せないのにっ、あの絵の事を思い出そうとするとっ……」
「へへ、涙が出てくるんだ」
手のひらで顔を覆い隠し、達也はすすり泣いて、どもりながら声を絞り出した。
「たぶん、そういう事なんだろうね」
「ローブの絵描きの顔も見られたんだけど、はは……思い出せないや」
「絵もそう。だけど、すっごく下手だったってのは覚えている」
「……ん」
涙を拭う達也。
「絵の道には進まない。でも、僕なりに前へ進む。今度は二人の番だよ?」
「そうだな。でも、まずは美鳥だ。元に戻してやらないと」
「美鳥をあのままにはしておけないしね」
「……手紙、読んでみる」
「お、決心ついた?」
「悪いんだけど」
「覗かないよ。ゆっくり見なって」
お言葉に甘え、手紙の束を持ち、それをひっくり返して床に置く。
これで上から順に見れば時系列に沿って手紙を見られるはずだ。
一枚目。
『啓一君へ』
『昨日はごめんなさい。言いすぎちゃったよね。』
『直接会って謝りたいけど、また喧嘩になりそうだから手紙を書く事にしました。』
『本当にごめんなさい。』
次の手紙は、俺の返事のようだ。
『あの約束を忘れていたのは僕なんだから、美樹が謝る事ないよ。』
『こっちこそごめん。』
丁寧に順番通り並べられている。次はまたその返事、美鳥のものだ。
『啓一君へ』
『もう忘れちゃイヤだよ?』
『四人揃って、公園で約束を果たすんだから。』
『また忘れたら、絶対に許さないからね。』
……。
次の手紙の内容が少し飛んでいる。返事は口頭で済ませて、新しい話題に移ったんだろう。
『交換日記か。ノート買うの?』
『でも、ページめくる度に前書かれた事が残っているのが見えてさ。』
『恥ずかしい内容をその度に見るのは嫌だもん。』
『だから、手紙のままがいいかな。』
……。
『啓一君へ』
『そういえば、昨日は美術館に行ってきました』
『啓一君と達也君も誘いたかったんだけど、忙しいかったみたいだし、残念です。』
『変わりにお土産話を持ってきました(パチパチパチ)。』
『美鳥が目をキラキラさせてかわいかったよぉ~。』
『あ、これは内緒ね? こんな事言ってるのバレたら怒られちゃうもん。』
『私も啓示さんの絵は好きだな。啓一君の絵に似てるから、なんだか落ち着く。』
『やっぱり、親子だからかな?』
『あ、美鳥は森川照義さんが好きって言ってた。』
『私は誰だかわからないんだけど、啓一君は知ってる?』
……。
『照義さんは父さんの知り合いだった画家だよ。』
『結婚したらしいんだけど、展覧会の直前に疲労死したんだって。』
『二年前だったかな。』
『父さんも同じ時期に死んじゃって、名画家二人逝くってニュースがあったくらいなんだよ。』
……。
『啓一君へ』
『先日、とある学校から推薦をいただきました。』
『運動部に力を入れている学校で、オリンピックにも選手を送ってるんだそうです。』
『私は、この推薦を受ける気でいます。』
『約束を忘れないでって言ったくせに、自分がその約束を果たせない場所に行こうとしてる。』
『ごめんなさい、なんて言えないよね。』
『明後日には先生からこの事を伝えてもらうつもりだったけど……。』
『啓一君だけには知っててほしかった。……本当に、ごめんなさい。』
……。
『六月二十五日の放課後。』
『部活が始まる前に屋上へ来てほしい。』
「これで終わりか」
四人の約束。俺はまた忘れちまったのか。
忘れた約束の事が、どうしても思い出せない。
「……ごめんな」
すべてを思い出すのは難しいんだろうか。美樹は交通事故で他界して、俺は記憶をすべて失った。
そう自分に念じるように、頭の中の記憶を整理していく。
「啓一?」
「決めた」
「え?」
「明日、学校休む」
「ええ!?」
「美鳥の傍で喋るだけでもいい。明日、無理矢理押し掛けるか」
「ほ、本気?」
「こうなったら意地だ。絶対に俺が美鳥を元に戻してやる」
「止めるなよ」
「と、止めないけど……」
「よし! 達也、ちょっと待ってろ!」
「どこ行くの?」
「美佐枝さんに明日家にあがっていいか許可を取る」
「あがるって、明日?」
「時間は多いに越したことはないからな。じゃ、いってくる」
「あまり刺激させすぎないようにね?」
「本当はプロに任せるべきなんだよな。カウンセラーとか」
「それは当然。だけど、ここで弱音吐いたら休む意味がなくなっちゃうよ?」
「それもそうだけどさ」
「啓一はじっとしていられない性質だもんね。絵の事以外は」
「そう、かな?」
「そうだよ。普段は行動的なのに、絵を描くとなるとすっごく静かになる」
「昔の事か?」
「今もだと思うよ。そういう根本的なとこは変わってない」
「……そうだな。記憶がなくなって初めて絵を描いた時は、手が筆の動きを覚えてたし。今の俺と美鳥が共有しているものは、やっぱり絵しかないと思う。俺は美樹を忘れているし、美鳥は美樹に捕らわれてる」
「思い出に意味がないとまでは言わないけどさ」
「絵なら、美鳥と正面切って向き会えると思うんだ」
「啓一……」
「それであいつを、前に向かせてやる」
「強いのは啓一の方だね。僕には何もできないや」
「バイトしている身だからな。仮病はまずいだろ? 俺に任せてくれって」
「うん、ごめん。美鳥の事、お願いね」
「ああ、あれ……前を向かせるって言っても……」
「どうしたの?」
「いや、絵だけじゃなくてもいいんじゃないかなって。美樹の事を教えるとか」
「美樹はもういないって言っても、信じてくれなかったら?」
「うーん。あのさ、ちょっと頼まれてくれないか?」
「?」
「今のお前なら簡単な仕事だよ」