第三話 夢の中の少女
放課後。堅苦しい教室の雰囲気から解放されたクラスメイト達が背伸びをしたり、身支度を整えるいつもの光景が広がっていく。
「啓一君」
「美鳥、お疲れさん」
「お疲れー。でも、これから一番疲れる人がもういないんだけど」
と、俺と美鳥はとある男の席に視線を送る。達也の席だったその場所は、既にもぬけの殻。
達也はもう教室出口に到達していて、無邪気にも俺と美鳥に手を振って去って行った。
「アルバイトかな? 陸上かな?」
「あの急ぎっぷりだとバイトだろ。陸上ならゆっくり行くし」
「瑞樹先輩もすごいけど、達也君はどれだけバイトを掛け持ちしてるのかな」
「わからんが、新聞部はこの学校の七不思議に掲載してたぞ」
「恵理ちゃんだね。たぶん」
たぶんじゃなくて、そうだろう。間違いない。
「それよりも美鳥、これから部活だろ。何か用か?」
「ううん。今日は部活行かないよ」
「あれ? でもまだ絵が終わってないんだろ?」
「そうなんだけどね。今日は公園で描こうかなと思って」
「公園か」
「川辺か迷ったんだけど、恵理ちゃんの話聞いちゃったし」
「怖かったりする?」
「そういうんじゃないけど、逆に噂を聞いた人が来たら恥ずかしいし」
「なるほど。でも、キャンパスは直接持つのか?」
「作品描くときは、イーゼル使うよ?」
ちなみにイーゼルと言うのは、絵を描くキャンパスを乗せる携帯三脚台の事。
「アレ、重くはないだろうけど、かさばるだろ」
「うん。それで、あの……悪いんだけど……」
「荷物持ち、してくれって?」
「い、嫌ならいいんだよ?」
「いや、付き合うよ。どうせ暇だし」
「やた!」
ポン、と手を叩いて笑顔を振り撒いてくる。
この反応を見ると面倒臭いって感覚もなくなるな。
「で、その荷物は」
「私の家にあるのを使おうかなって」
「じゃあ、一旦帰るか」
「うん。そうしよっか」
「恵理ちゃんが言ってた川辺。いつも通る道だよね」
「ローブの絵描きの都市伝説か?」
「うん。どんな人なんだろうね」
コートとかならまだしもローブってのも見慣れない格好だよな。
「怪しいやつには違いないだろ」
「ローブ姿で絵を描いている、って話だもんね」
「でも、あれのどこが怖い話だったんだ?」
「よくよく訊くと、ちょっと怖い話と言うか……不思議な話?」
「なんだそりゃ」
「怖い話にしては、オチが少し弱かったかも」
「終始聞こえてたけど、寝てたせいかな。最後の最後が聞き取れなくって」
「オチ聞いてないの?」
「どんなのだった?」
「んー、実はこの話、いろいろ尾ヒレがついてるんだよね」
「まあ、都市伝説だからな」
「恵理ちゃんから聞いたあと、昼休みにまたこの話になったの」
「意外と噂好きなんだな」
「結構ね。で、手招きに応じたら地獄に連れて行かれるとか、近くで絵を見たら引きずり込まれるって話があるみたい」
怖い話、って言うより怖がらせようとしてる都市伝説って感じだな。
「そういうオチはいかにもって感じだけど、そいつが絵描きの必要なくね?」
「そうなんだよね。でも、こっちは尾ヒレがついた方」
「恵理とお前が美術の時間に話してたのは?」
「うん。聴く?」
「気になる。教えてくれ」
「わかった。コホン……その、キャンパスに描かれていたのはね――」
美鳥は小さな咳払いの後に、恵理の声真似をしながら美術の時間にされた都市伝説の最後の語りを再現し始めた。
スッと人差し指を立てて、彼女は低めの声を作ってこう締めくくった。
「白紙に、見えたんだって」
「…………」
「それだけ?」
「そ、それだけ」
美鳥は少し含み笑いをして、口元を抑えていた。
怖い話?
どちらかと言うと不思議な話と言うカテゴリーに入る気がする。
実際に見てみると印象も変わるかもしれない。
「でも、なんで白紙だったんだろ」
「謎だな。瑞樹先輩に話しでも聞いてみるか?」
「あー……やめた方がいいと思うよ。話のネタにされてウンザリしてるみたいだし」
「なら、やめといた方がいいか」
「怒ると怖いからね。特に男子には厳しかったりするよ」
「会った事がないからなぁ……そこまで悪ノリはできないし」
「そうだね。少し落ち着いて、先輩に会えたら話してみるよ」
「それまではお預けだな」
その後、俺達は最終目的地である公園を抜けて住宅街へ。ここまで来れば、もうすぐ俺と美鳥の家だ。
これが学校から俺達の家まで通じる、最短距離の通学路である。
「じゃ、取ってくるね」
「家に上がって待っていればいいか?」
「少し準備に時間かかるから、自分の家で待ってていいよ。携帯で呼ぶからさ」
「わかった」
美鳥のお言葉に甘え、俺はカバンを置くついでに自宅へ一度帰る事にする。
「じゃあ、またあとで」
「うん」
美鳥を家まで送り届け、隣の自分の家へ。
「ただいまー」
っと、母さんは海外へ出張中だったな。
などとお決まりの自問自答をしつつ、真っ先にリビングへ向かう。
ちなみに父親は俺が記憶をなくす前に死んでいる。よって、俺は絶賛独り暮らし中だ。
リビングのソファーに一旦カバンを置き、美鳥から電話が来るまで待つとしよう。
「……さて、何してよう」
恐らく画材の準備だろうから、そう時間はかからないと思う。
「あ、冷蔵庫……」
どうせ外に出ることだし、買い出しも済ませてしまおう。
リビングに入ったその足で俺はカバンをソファーに置き、そのまま冷蔵庫へ向かう。
んー、親が海外にいる疑似的な独り暮らしのせいか、我ながらだらしのない冷蔵庫だ。
達也や美鳥にもよく注意を受けているが、料理の知識なんてものは三年前の記憶喪失と共に吹き飛んでしまったらしい。
前の俺が料理ができたのかは定かじゃないけどな。
栄養には気をつけてはいるけど、倒れるなんて事はない。たぶん。
「……醤油と野菜」
パッと見て不足しているのはそれくらい。美鳥と別れた後にでもスーパーへ行こう。
自分の作る料理にも、飽きてきた。レパートリーだってそれほどないのに。
料理の本でも買ってくるべきか、昼休みに達也から教えてもらうのもいいな。
達也に専属コックをしてほしいが、あいつはバイトと部活で忙しい。
財布の中身を取り出そうと、冷蔵庫から離れた時。カバンに入っていた携帯が、軽快な音を鳴らせて着信を知らせる。
このメロディは美鳥からだ。イーゼルを見つけたんだろう。
「もしもし」
『あ、啓一君』
「俺も準備したから、今からそっちに」
『待って待って。えと、悪いんだけど……』
「ん?」
『私のイーゼル、なんかガタついてるの。今度学校から借りようかなって思うんだけど……』
「学校から家まで担いで行くのは、さすがに辛いだろ」
『だ、だよね』
「イーゼルか。あれっていくらぐらいするんだっけ?」
『安いのだと、三千円くらい』
「今のと同じのは?」
『八千円くらいの、少し丈夫なやつ』
「天寿を全うしたわけか」
『新しく買おうかな……それだとバイトしないとだよね』
「盛夏祭近いし、厳しいんじゃないか。瑞樹先輩もバイト始めたら部活に来なくなったんだろ?」
『う……。嫌だなぁ、このジレンマ』
電話越しだが、がっくりと項垂れる美鳥の姿が身に浮かぶようだ。
「借りるんなら、イーゼルは運んでやるから」
『え、もしかして学校から?』
「それが一番いいだろ。金もかからないし」
『で、でも』
「買うにしても運ぶにしても、明日また話そう」
『……うん。今日を描くのはやめておくね。あのイーゼルじゃ線がズレちゃうし』
「わかった。また明日な」
『うん。また明日』
電話を切った途端、静かになった。
買い出しして、飯作って食って、とっとと寝よう。
少し予定は変わってしまったが、俺は制服のまま買い物に出かけた。
夢と言うのは、人間の脳が記憶を整理する際に発生するものらしい。
『かかないの?』
ならば、だ。
『ねぇってば』
この夢は、俺のどの記憶を整理しているんだろう?
『ムシしないでよー』
俺はまだ子供だった。
スケッチブックを抱えて、川辺でただ呆けているだけの夢だ。こんな昔の事は覚えていないけど、経験した事なのかも知れない。でも思い出せない。
そしてしばらく時間が経つと、この女の子がやってくる。
しつこく話しかけて来る九歳ぐらい女の子と、それを無視し続けようとする俺。
記憶をなくして最初に見たのもこの夢だった。学校に復帰した直後に見た夢もこれ。今回も、その内容に変わった様子はない。
『…………』
『ねぇ、キミ。いつもここでかいてるのに、なんで今日はかかないの?』
夢の中の俺は、その子がうっとおしくて仕方がなかった。
『カンケーないだろ』
その夢の中の俺はこう思っている。
絵なんて、描いても……誰も俺を見てくれない。みんなが見てるのは……。
『む、カンケーあるよ』
俺に対して彼女は、不機嫌そうに唸りつつ、そんな事を言い出す。
『キミの絵、すきだもん』
俯いていた俺は顔を上げ、その時、初めて彼女の顔を見た。
なんでもない、かわいくて素直そうな笑顔だった。
『ウソだよ』
それでも、俺は否定した。
『何が?』
『みんな、俺が父さんの息子だから、絵が上手いって……才能があるって言うんだ』
『そういうものなの?』
『おまえだってそうなんだろ!?』
声を荒げるが、彼女は瞬き一つしない。
まっすぐに、俺だけを見ていた。
『わたしはね、こういったの。キミの絵が、すきなんだよ』
トクンと、小さな心臓が高鳴った。
『絵かくの、すきなんだよね』
俺の持つスケッチブックを一瞥し、彼女はそう語りかけてくる。
『…………』
急に恥ずかしくなって、俺は反射的に顔を背けていた。
『んー? くすくす』
彼女は下から覗き込み、いたずらに微笑みかけて来る。
俺はその笑顔に押し負け、頷いた。
『そっか』
彼女は俺の近くに落ちていたクレヨンを拾い上げ――
『じゃあ、はい。これでいつもみたいに、またかいてほしいな』
それを、差し出してきた。
『なまえ』
『ん?』
『おまえのなまえ……』
『人になのらせるまえに、自分からなのるのがレイギ、なんだよ。けいいちくん』
『……知ってるんじゃないか』
『えへへ。ごめん。私はね――って言うの』
もう一度言ってよ。
声が出ない。これじゃ、絶対に届かない。
微笑みかけてくるだけの彼女に、返事ができない。言えない。
俺は知っているはずなのに。キミの、なまえを……。
この笑顔を最後に、夢は終わっていく。
まるで大切な思い出が白紙に戻されていくみたいに……俺の夢は白く染まっていく。