第九話 かつての記憶に触れて
あれから数日が経った。すべてを思い出した訳じゃないけど、ぼんやり見えてきたものがある。
「なんで思い出せないんだろう」
布団を被り、ただただ考えるだけで時間が過ぎて行く。
俺は思い出したくなかったのかも知れない。
俺には幼馴染みが三人いる。いや、正確には『いた』だ。達也と美鳥、そして美樹。
俺は記憶を失い、病室で目覚めた。
「事故にあったのは、俺じゃなかったんだ」
事故に会い、死んだのは美樹だ。
『お姉ちゃん……嘘、うそッ!?』
美鳥は、ローブの絵描きの顔を見て動揺していた。
美鳥からすれば、それは死んだはずの美樹の顔だったからだろう。
つまり、俺が見たのも美鳥ではなく……美樹だったんだ。
『いや……いやぁ……ッ!』
一心不乱に身を翻し、美鳥はその場を逃げ出した。
その姿を見て、俺は何もできなかった。
同じだと、思ったから。
俺も美鳥も、自分の記憶から逃げているんだ。それなら止めることなんて、できるわけない。
美鳥から目を離すと、ローブの絵描きはもうそこにいなかった。
立てていたイーゼルごと消えていたんだ。
まるで、最初からそこにいなかったかのように。
美樹がいなくなって、俺はどういう訳か記憶を失った。精神的なショックによるものだと思う。
俺は、弱かったんだ。
『キミの絵、すきだもん』
あの夢は俺と美樹が出会った時の記憶そのものだと思う。そんな気がしてきた。
そして、目覚めた後に来る不安は、美樹の事を思い出そうにも思い出せない苛立ち故だったのかもしれない。
もう寝てしまおう。悪い夢なら、覚めてくれると信じて。
翌日。
『留守番電話サービスです。ピーっという発信音のあとに――』
美鳥に何度か電話をかけてみたが、音沙汰はなし。
連絡は一切来なかった。
「ごめんね啓一君。美鳥、何か調子が悪いみたいで」
「そうですか」
「部屋から出てこようとしないのよ」
「…………」
家を訪ねてみても門前払いを受け、俺の部屋の窓から呼びかけてみても返事はない。
面会謝絶、と言ったところか。
イーゼルを使わせる約束、守れなかったな……。
重い瞼を上げ、ゆっくりと目覚めた結果、俺はミスを犯していた。
「午前十時」
「って、遅刻!」
達也は早朝バイトで来られないから、変わりに美鳥が来る約束なのに。
なんで起こして……。
「いや、来てないのか?」
美鳥の部屋に変わった様子はない。カーテンも閉め切られている。
どうせ遅刻なんだし俺はゆっくりと制服に着替え、学校に行くことにした。
人気のない住宅街を抜け、公園を通り、川辺を歩く。
「すいません、遅れました」
学校へ辿りついたのは二時間目が始まった頃だった。
「珍しいな、遅刻か」
「はい」
「まあ座れ」
一人、自分の席へ向かう。
美鳥の席を流し見ると、そこは欠席のようだった。
「啓一」
「達也か」
「どうしたの?」
「何が」
「啓一は遅刻するし、美鳥は休みだし」
「美鳥が起こしてくれなかったから、連鎖的にそうなったんだ」
「美鳥は風邪?」
「調子が悪いんだってさ」
「そっか。お大事にってメールしとくよ。あ、そういえば、明音ちゃんだっけ」
「え」
「智明先生の子だよ」
「あ。ああ、見つけたよ。川辺にいた」
「結構歩いたんだねぇ」
「…………」
「けいいちー?」
「え、あ、すまん」
「もう。まだ眠いの? 顔でも洗ってきたら?」
「そうするか。トイレいってくる」
「そうだ。今日はコンビニで買ってきたから。昼休み渡すね」
「わかった」
「あとでお金渡してくれればいいから」
昼休み。いつも通り屋上でのランチタイム。
「啓一調子悪いの?」
「いや、そうではないと思うけど」
「そう? でも、なんか変だよ」
「変、か」
「うん」
川辺で美樹の顔をしたローブの絵描きを見てから、俺はどうかしてるらしい。
その事がキッカケで、俺は記憶の一端に触れたんだ。
美樹と過ごしていた俺と、その記憶を失った俺。ぼんやりと昔の事を思い出した俺は、自分が二人いるような感覚に、俺は戸惑っていた。
「あ、もしかして」
「美鳥と喧嘩でもしたの?」
「……! ゲホッ! ゲホッ!」
「あらら。ごめん。冗談のつもりだったんだけど」
「違うって。訳ありなんだ」
「訳あり、ね」
「な、なんだよ」
「僕にも話せない事?」
「整理しきれてないだけだ。美鳥関係なのは確かだけど、その内話す」
「そっか。でも、僕でいいなら相談に乗るよ」
「悪いな」
「ありがとうでしょ」
「あ、ああ……。ありがとうな」
「ふふ。相談に乗った後で、また言ってくれるといいかな」
「あいよ。でも、話して信じてもらえるか少し不安なんだ」
話したって、信じられる訳ない。都市伝説、ローブの絵描きが本当にいた事。
美鳥と俺が見た顔が、美樹だったと言う信じ難い話。
実際に体験した俺でさえ、まだ夢だったように感じているのに……。
「……恋の病?」
「ちげーよ! それで美鳥がどうして休むんだ」
「変なことしてないよね?」
「信用してくれよ!?」
「じゃあ、なんなのさ。美鳥が休むなんて、相当なことだよ」
「今まで無遅刻無欠席だったよな」
「今日を除いてね。あ、でも」
「ん、あるのか? 今日以外に、美鳥が休んだ日って」
「一応ね」
「いつだ?」
「言ってもわかんないと思うよ」
「ってことは、記憶を失う前か?」
「ううん。記憶がなくなって、入院中だった時。精密検査の時だよ」
「なるほど。えっと、達也」
「なに?」
「話せる事だけでいいんだけどさ。俺が記憶を失う前の事、話してくれないか」
「ど、どうしたの急に?」
「急じゃない、遅すぎたんだよ」
「話せることなら、今まで充分話してたじゃん」
「隠さないでくれよ。俺は全然思い出せて――」
「ごめん」
視線を合わせまいと、俯く達也。
こいつが目を斜め横に泳がせるときは、必ず何かを隠している時だ。
いや、これは当然だ。達也と美鳥は、今まで『美樹』の事を隠していたんだから。
「わかった」
今更言える訳ないよな。
でもさ、達也。俺が言えた義理じゃないけど、それは違うんじゃないのか?
「なんでもないってことで。忘れてくれ」
なあ、教えてくれよ。
忘れたままなんて、切ないだけなんだよ。
家に帰って二階の上がり、ベッドにカバンを放る。
窓から見える美鳥の部屋を流し見る。カーテンはしまったまま、朝と変わった様子はない。
「美鳥、いつまでそうしているんだよ……」
風邪なんかじゃないはずだ。
「美鳥の様子がおかしくなったのは、美樹の姿を見た時」
あれ以外の原因は考えられない。
美鳥と美樹。彼女達の関係は姉妹である事以外、俺は知らない。幼馴染みにも関わらずだ。
「だったら」
机に向かい、引き出しに手をかける。
あの手紙を見れば、何か思い出せるかも知れない。
思い出せる。そう多少なり不安はある。
「でも、美鳥は今もっと不安なはずだ」
美樹の姿を見て、部屋に引きこもってしまった美鳥。
失った俺の記憶が手掛かりになるんだったら、思い出さなきゃいけない。
理由はわからないが、あそこから美鳥を助けないといけない。
俺が記憶を失う前に書いた、秋葉美樹なる人物への手紙。
放置されていた紙も、記憶も、色褪せ忘れられてしまっていた。俺の持っている唯一の手掛かり。
「これは俺宛じゃないんだが。見させてもらうぞ」
この手紙を書いている時の俺は、まさか自分で読み返すなんて思ってもみなかっただろうな。
封を切ると、ほとんど白い紙のままで残っている手紙が入っていた。
これは俺の字で間違いない。記憶を失っても筆跡は大して変わらないらしい。
利き手だって変わらなかったしな。
「……秋葉美樹様へ」
昔の俺に対する罪悪感に駆られながらも、目で文章を追い始める。
『最近暑くなってきたね。僕は図書館でこの手紙を書いています。少しクーラー効きすぎてるかも。』
僕?
これは確かに自分の字だが、自分の事を『僕』と呼んでいる事にまず違和感を覚えた。
美鳥は、俺が昔より前向きになっていったと言っていた。僕と言う呼び方も変えたのだろうか。
続きを読もう。
『美術室だと美鳥に見られるし、部屋だと達也が来た時隠せないんだよね。』
『だから、窓側の席でこっそりとペンを走らせています。』
『この手紙が最後だろうから、少し長くなっちゃうかも。』
『暇潰し程度に電車で読んでほしいな。』
『推薦と告白両方受けたってワガママにはならないよ。』
『目標達成したら、そりゃ自慢の幼馴染み、いや彼女って言った方がいいよね。』
『楽しみにしてる。もちろん浮気はしないよ。』
『まずは推薦おめでとう。もう何度目か忘れたけど、僕はまだ言い足りない。』
『美樹がいなくなると張り合いがなくなるけど、一番辛いのは美鳥だと思うな。』
『仲の良い姉妹だし、当たり前だけど僕より付き合いが長いもん。』
『僕だって寂しいよ? でも、昨日で言いたい事は全部伝えた。駅では泣かないで見送るつもり。』
『って、ちょっと強気になってみたり。』
『時々でいいから会いに行きたいな。美樹が推薦を受けた高校ってすごく遠いんだもん。』
『急な話で驚いたけど、もう諦めて精一杯応援する。でも、あんまり無理しないでね?』
『あっちの中学でイジめられたりは……って、それはないか。』
『夏休みになったら、みんなで会いたいな。その時までにおいしいお店見つけて、案内してよね。』
『練習が休みで、都合がいい日があったら手紙に書いてくれると助かります。』
『絵が上手くなってるって言うけど、それは美鳥に言うべきだよ。』
『美樹も運動できるし、姉妹揃って才能に恵まれてて、少し羨ましい。』
『そういえば、美鳥が僕と二人でコンクールの入賞を争うって意気込んでる。』
『このままじゃまずいよ。美鳥がコンクール出したら、僕が入賞しそうにできないかも。』
『僕も頑張らないとダメだよね。美樹だって夢に向かっているんだから。』
『美樹は今回のコンクール、妹と彼氏のどっちを応援してくれるのかな?』
『応援してくれたら、僕はどんな時でも頑張れる気がする。』
『美鳥の事も応援してあげてほしいけどさ。』
『いつもより長くなっちゃった。』
『それじゃあ、向こうに着いて落ち着いたらお手紙ください。』
『慣れているからと言って、住所を書かないでポストに入れたらダメだよ?』
『お体に気を付けて。榎本啓一より』
『P.S.』
『手紙を入れている箱は、僕が回収しておくから。安心してね。』
……。
手紙を読み終えると、やはりと言うべきか罪悪感だけが残ってしまった。
「この手紙、俺の手元にあるって事は、美樹に読まれず残っていたのか?」
そうだろうな。渡す前に俺はこの手紙と、美樹の事を忘れたんだろう。
なんだか切なくなってきた。
……よし、ほとんど推測になるだろうが、わかる事だけでも整理してみよう。
手掛かりはこの手紙しかないんだ。
一番驚いたのは、俺と美樹が付き合っていたと言う事。それも付き合って間もないようだった。
そして、秋葉美樹は高校の推薦を受け、遠くへ行ってしまう予定だったようだ。
……この時期に転校?
高校付属の中学校か、その高校の近場で環境のいい中学校ってところか。
美樹は運動部だったのかな?
端に書かれている日付は六月二十六日。……三年前だとすれば、俺が記憶を失った頃だ。
気になるのは、この追記だ。
「手紙を入れている箱」
何の事だ?
箱、か。
ダメだ、思い出せない。交換日記みたいな要領でやり取りをしていたんだろうか?
直接手渡しをした?
や、それじゃ『手紙を入れている箱』の意味がない。直接手渡しをして、 それから保管用に入れているのか?。
「住所がないからポストは違う……ポスト?」
『私達専用のポストだね』
今のは……?
激しい頭痛に苛まれつつ、俺はその奥にある記憶を引っ張り出そうとした。
ぼんやりと浮かんでくる記憶のピース。
それを順番に組み立てていく。
「あ、手紙を入れる箱はどこかに隠してるんだ! それを俺が回収する役になってたけど」
「そうする前に記憶がなくなったんじゃないのか?」
「この手紙で回収する事を美樹に伝えてから実行するはずだ」
だからまだ『手紙を入れている箱』は回収されていない。
でも、その隠し場所が思い出せないじゃ……。
あとは美樹の顔しか浮かんで来なかった。
「…………」
手紙の中にその場所のヒントらしきものは乗ってない。
こうなったら、徹底的に部屋の中を漁ってみよう。
何かわかるかも知れない。
手紙の入っていた引き出し、本棚の裏、押入れなどを探して見たが、記憶の手掛かりになりそうなものは特になかった。
俺の私物はここにあるものが全部だろうし、整理はしてたから見逃しはしてないはずだ。
押入れから、ベッドまで四つん這いで移動する。
「眠い」
膝を付き、ベッドでうな垂れる。
瞼が重い、このまま寝てしまいそうだ。
疲れたけど晩飯、用意しなきゃ――。